山崎の戦いで明智光秀の敗因について書いています。
光秀は安土城入城が遅れるなど始めから誤算続きであったと考えられます。
光秀が期待した細川藤孝・忠興、筒井順慶、摂津衆の去就。
羽柴秀吉の卓越した情報戦の前に、寄せ集めの明智軍で挑み敗北しています。
山崎の戦いの敗因 準備不足や誤算
明智光秀が本能寺の変を起こす際、事前に準備した形跡がありません。
織田信長を討ち果たす大きな決断であるにも関わらず、準備不足、根回し不足が否めないように思います。
明智光秀が同士を集めたのは、本能寺の変を起こした後、積極的に書状をしたためて、味方を募ったようです。
信長の敵対勢力だけでなく、織田信長の家臣であった武将にも、本能寺の変を起こした後で、信長を討ち果たしたことや自身に味方するよう要請したと見られています。
明智光秀は、味方になってくれる人物として、細川藤孝(幽斎)・忠興父子、筒井順慶、摂津衆に期待したと云われていますが、期待は外れ有力大名を味方にすることは出来ませんでした。
その為、山崎の戦いでの羽柴軍は2万~4万、明智軍は1万~1万6千と兵数差が開きましたので、明智光秀の準備不足は、敗因の一つと言えそうです。
また、羽柴秀吉の情報収集能力の高さ、中国地方から驚きのスピードで畿内に帰還したことも、光秀の敗北に繋がりました。
秀吉の着陣が光秀の予想より早く、体制を整えきれていないところで、光秀は山崎の戦いに挑み敗れた。
山崎の戦いで敗れるまで、光秀は誤算が続いたものと思われますが、誤算は本能寺の変を起こして直ぐに始まったようです。
それは、安土城に入れず、信長の後継者としてアピールできなかったことです。
後継者アピールが遅れた
天正10年(1582年)6月2日早朝、本能寺の変を起こした明智光秀は、重臣・溝尾茂朝(庄兵衛)を勝龍寺城に置いて京都の抑えとすると、明智軍の大半を率いて瀬田に向かいました。
瀬田には瀬田城主で、信長の信任を得ていた織田家の家臣・山岡景隆がいます。
光秀は、山岡景隆を味方にしようとしますが、失敗します。
山岡景隆は、瀬田橋を切り落とし、明智軍の進路を阻みました。
この瀬田橋が無くなったことは、明智光秀にとって痛い誤算であったと見られます。
何故なら、瀬田橋は安土城へ入城する際に必要な橋であるからです。
光秀は安土城に入り、信長の後継者として名乗りをあげて、信長の軍資金を抑える算段があったのではないでしょうか。
安土城は琵琶湖からも入城できますが、大軍の為なのか復旧を待った光秀は3日間を無駄にし、時間的な余裕を失ったともいわれます。
また、近年、『山岡景以舎系図』という山岡景隆についての記録が見つかっています。
その古文書によると、山岡景隆によって瀬田橋が焼かれたため、光秀の重臣・明智左馬(之)助が船に乗って琵琶湖から安土城へ入城しようとしたことが記録されています。
明智左馬(之)助は、山岡景隆と船戦しますが、家臣が討ち取られたため、安土城へ入れなかった旨が書かれています。
明智左馬(之)助については、こちらで詳しく書いています。
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まず、光秀は自身の居城・坂本城に入り、その後瀬田橋に修復を終え、6月5日には安土城に入城します。
安土城を守っていたのは蒲生賢秀ですが、居城・日野城に信長の妻子を避難させて立て籠もった為、光秀は楽々入城して、信長の財宝を自身の家臣や味方に与えています。
頼みの細川藤孝・忠興
京極高次、阿閉貞征は味方につけた明智光秀ですが、馳せ参じてくれると期待している武将の姿がありません。
明智光秀の盟友・細川藤孝(幽斎)と嫡男の忠興です。
明智光秀が細川藤孝(幽斎)に出会った時期は、光秀が越前に居た頃と見られます。
織田信長が、越前に身を寄せていた足利義昭を奉じて、上洛する際に細川藤孝(幽斎)と明智光秀が仲介役を務めたと推定できます。
※上洛時のものと推定される文書に「明智」の名が残っています。
光秀が足利義昭に仕えると同僚になり、後に、二人とも織田信長に仕えています。
その後、細川藤孝(幽斎)は明智光秀の与力になり、軍事行動の際は光秀の指示に従います。
二人とも信長の家臣ですが、光秀の指揮下で藤孝が従軍していたこともあってか、謀反の後も藤孝の加勢を当てにしていたようです。
また、光秀と藤孝の関係は、同僚で与力ということだけでなく、親戚関係でもあります。
織田信長の命令で、光秀の娘・明智玉子(細川ガラシャ)と細川藤孝の嫡男・忠興が結婚していた為です。
このように深い仲であり、6月3日に光秀は味方するよう要請しています。
ですが、味方になるどころか、細川藤孝は信長の死を悼み出家して、細川忠興に家督を譲ります。
細川忠興も出家し、正室・明智玉子を幽閉して、光秀の要請を拒否する姿勢を示します。
細川氏の決断を知った明智光秀は、6月9日の日付で細川藤孝(幽斎)・忠興父子に翻意を促す書状を送ります。
細川藤孝、忠興に対して光秀が怒っていたことが読み取れ、光秀がいかに頼みに思っていたかが伝わってきます。
また、本心か不明ですが、本能寺の変を起こしたのは、光秀の嫡男・十五郎(光慶)と細川忠興を取り立てる為で、暫くしたら二人に天下を譲ると書いてあります。
明智光秀は、本能寺の変を起こしてから必死に見方を募っていたのです。
大きな事を起こしたというのに、事前に根回しをしていなかったようで、細川藤孝・忠興にすら動いてもらえず、味方を集められなかったことは山崎の戦い敗因の一つと言えそうです。
筒井順慶の去就
細川藤孝・忠興の他にも、光秀が味方になってくれると期待したという人物がいます。
それは大和の大名・筒井順慶です。
筒井順慶が織田信長に主従する際に仲介したのが明智光秀であり、順慶のライバル・松永久秀と和睦する際に間に入った人物は光秀と佐久間信盛です。
その後、松永久秀の一度目の離反、大和を治めてた原田直政の戦死があり、筒井順慶に大和の支配が任されました。
筒井順慶が大和を治めるようになった天正4年(1576年)頃、順慶は光秀の与力になり、光秀の指揮下で軍事行動を共にします。
ただ、筒井順慶が正式に大和一国を任されたのは、天正8年(1580年)であり、明智光秀の尽力があったと云われており、お礼を伝えに坂本まで出向いています。
また、茶の湯を好んだ文化人同士で、良好な関係を築いていたと云われています。
一説には、順慶の養子・筒井定次の舅は、明智光秀であるとも云われています。
このような背景から、明智光秀は、筒井順慶にも期待し、順慶も消極的ながら応じる態度も見せましたが、結局は羽柴秀吉についています。
筒井順慶は18万石(与力を合わせると45万石)、細川藤孝は12万石の大名でしたので、味方か否かは山崎の戦いの勝敗に大きく関係したものと思われます。
秀吉の情報戦
本能寺の変当時、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は備中高松城(現在の岡山県)を攻めている最中でした。
通説によると6月3日の夜から未明の間に、光秀の謀反を知ったと見られ、翌日、毛利勢と和睦しています。
その後、明智光秀を討つため京に向けて進軍し、約230kmを約10日間で移動したと云われています(中国大返し)。
当時の書状から秀吉が正確な情報を得ていたことが分かっており、光秀が敷いていたであろう封鎖網をかいくぐり、情報ルートを確保していたようです。
また、羽柴秀吉は光秀が頼みとするのは、細川藤孝であることは見抜いており、日付不明ですが秀吉の使者が訪ねていたようです。
明智光秀の味方になりませでしたが、山崎の戦いにも参陣しなかった藤孝に秀吉は起請文を出し、感謝の意と今後の処遇について誓っています。
もしかしたら、細川藤孝は秀吉に敵わないと悟り、光秀を見限ったのかもしれません。
因みに、細川藤孝が拝領していた丹後から近い、丹波に布陣すれば秀吉の行く手を阻め、その意味でも要となる人物であったと見られます。
羽柴秀吉は卓越した情報戦によって味方を増やし、山崎の戦いを有利にしました。
予想外に早かった決戦
思うように味方を集められない明智光秀は、落胆していたのではないでしょうか。
本能寺の変当時、織田家重臣の柴田勝家は越中で上杉謙信と睨み合い、滝川一益は越後の春日山城に向けて進軍中、神戸(織田)信孝は四国遠征の準備をしていました。
織田信長を討ち取った後、光秀は織田家重臣と対峙するまでに、少し時間があると考えていたと思われますが、備中高松城を囲んでいた秀吉軍が、6月11日に摂津尼崎に到着しました。
中国大返しと言われるスピードで畿内に戻ってきたのです。
予想外の速さに体制を整えきれない中、山崎の戦いの日が近づいてきました。
羽柴秀吉が大軍を率いて戻ってきたことで、去就を決めかねていた摂津の武将らは秀吉に従い、摂津衆の去就も光秀の敗因になります。
秀吉についた摂津衆
光秀の影響下にあった摂津の有力武将である中川清秀や高山右近にも光秀は期待したようですが、従兄弟同士の二人は行動を共にし、羽柴秀吉についています。
羽柴秀吉は、中国大返しの最中、摂津衆に情報を送っていました。
その中には、織田信長は無事であるという政治的判断による虚報も含まれれおり、摂津衆が光秀に味方しなかった一因かもしれません。
明智光秀が摂津衆を味方に付けれたならば、京に進軍する秀吉を足止め出来ましたので、光秀にとって痛い誤算と言えそうです。
その後、山崎の戦いが起きると、高山右近、中川清秀、池田恒興ら摂津衆は、羽柴軍の先鋒を務め、明智軍を後退させるなど奮戦したと云われています。
信長の首が見つかっていない
織田信長が生きているとなれば、信長の敵以外、光秀に味方しようとする大名は、殆どいないのではないでしょうか。
そこで、秀吉は信長生存の虚報を流すわけですが、信長の亡骸が見つかっていたなら、成り立ちません。
織田信長、信長の嫡男・信忠の首を見つけられなかったことも、間接的ですが山崎の戦いの敗因になりそうです。
光秀の軍勢は寄せ集め
山崎の戦いでの明智軍は、光秀直属の家臣の他に、近江衆、丹波衆、幕府衆がいます。
中でも近江衆は、光秀に仕方なく従っていた者が多く、戦意は相当低かったと見られます。
近江衆の一人である小川裕忠は、山崎の戦いで敗北した後、咎めを受けた形跡はなく、柴田勝豊の家老になっています。
池田景雄(池田秀雄)も近江衆で、山崎の戦いで敗北した約4カ月後に羽柴秀吉に仕えています。
明智光秀に従わざる得ない事情を秀吉も理解していたものと見られます。
一方の幕府衆は討ち死にした者も多く、足利幕府の再興を願って奮戦したと思われます。
本能寺の変を起こした光秀は、足利義昭と再び連携しようとしていたことが、密書から読みとれます。
いずれにせよ、山崎の戦いでの明智軍は、寄せ集めの軍勢である上に、多勢に無勢という状況で、あっけなく終わったようです。
参考・引用・出典一覧 戦国時代ランキング
コメント
コメント一覧 (4件)
私が光秀の好きなところはたくさんあるのですが、歴史小説を読んでいて一番魅力的に見えるのは、有職故実に秀でていて室町幕府や朝廷への取次ぎ係をスマートにこなしていたところです。
信長にその才を買われて、京都御馬揃えの運営責任者を任されたのも頷けます。
出自が謎だらけの光秀ですが、育ちは良かったんではないかと推測しています。
幕府や朝廷の取次ですものね。出生が謎である理由を身分が低いから記録に残っていないとしているブログもありますが、個人的には土岐氏流明智氏で育ちは良かったと思っています。光秀は、公家や朝廷にも一目置かれる人物だったようなので、それなりの育ちや教養はあったと思います。
かおりんさんもそう思いますか!!
プロの礼儀作法なんて一朝一夕で身に付くものではないし、やはり名門の育ちとしか思えないですね。光秀のイメージを悪くするため、後の為政者が彼の出自を歴史の資料から消してしまったとしか思えません。
公家や朝廷から好かれていたようですし、教養がないと難しいと思うのです…。「出自を歴史の資料から消してしまった」可能性はあると思います。細川家の記録にも光秀については、『明智軍記』(信用ない史料)から転記されていたりするそうです。故意に隠していたことになると思います。