明智光秀が織田信長を亡き者にした本能寺の変。
動機は現在でも謎ですが、光秀が信長に恨みを持ったためとする「怨恨説」は、比較的有名ではないかと思います。
「怨恨説」の根拠となる書物は、歴史の史料というより、軍記物や逸話集。
史料価値は高くなく、「読み物」として親しまれている物です。
それでも、江戸時代から現代に至るまで度々語られ、小説などフィクションなどにも起用され、明治時代頃までは怨恨説が有力視されていたようです。
現在では、怨恨説は遠因の可能性はあっても、本能寺の変の動機として考える人は、殆どいないと思われます。
今回は、どのような話や逸話から、「怨恨説」が語られるようになったのかを記してます。
怨恨説①朝倉義景の頭蓋骨を酒の肴にした
信長に仕える前の明智光秀は、越前・朝倉義景の家臣だったという説があり、元家臣説を前提としています。
明智光秀が朝倉義景の家臣だったのか定かではありませんが、越前に在住していた痕跡と、近年発見された米田文書『針薬方』により、朝倉家の秘伝薬について知識があったことが分かっています。
朝倉義景は、足利義昭、浅井長政らと信長包囲網を形成し、織田信長と対立していました。
1573年(天正1年)に、信長と義景の間に一乗谷城(いちじょうだにじょう)の戦いが起きて、朝倉家は滅亡してしまいます。
『信長公記』によると、1574年(天正2年)元旦、朝倉義景の頭蓋骨を漆塗りにして金粉を施し、白木の台に載せ、これを肴(さかな)に家臣達に酒を飲ませ謡って遊んだと伝わっています。
光秀は以前の主君が滅ぼされた上に、酷い扱いをしたことで恨みを持ったとも云われています。
ですが、これは敵将への敬意の念を表した死に化粧の意味があるとされています。
また、頭蓋骨を盃の代わりにして、酒を飲んだとする説もありますが、頭蓋骨を盃にしたのは後の世の創作と見なされています。
現代人から見れば、自分たちが討ち果たした人の頭蓋骨を前にして、興じるのはゾッとするような理解できない話ですが、死に化粧をして成仏を願ったとする説が本当であれば、怨恨説の後押しにはならないですね。
明智光秀は医師だった!?~米田文書『針薬方』にみる医者の根拠~
怨恨説②光秀の母を磔にされて恨んだ
織田信長の命令を受けた明智光秀が、丹波国の平定を目指していた時の話です。
丹波国の大名・波多野秀治、秀尚兄弟が籠城する八上城を攻めていた明智光秀。
1579(天正7)年、波多野兄弟を降伏させる条件として、光秀自らが自分の母親(牧)を人質として差し出したそうです。
にもかかわらず、信長は投降してきた波多野兄弟を討ち滅ぼしてしまったのです。
激怒した波多野側は、光秀の母を磔にしてしまったそうです。
このように実母が殺害されたともなれば、本能寺の変の動機になりそうですね。
この話は『常山紀談』、『総見記』、『絵本太閤記』に書いてありますが、一級史料である『信長公記』には光秀の母の記述はありません。
現在では、後の世の創作と見なされています。
波多野兄弟は、光秀の兵糧攻めにより降伏したと云われています。
怨恨説③甲州征伐の後の宴席での出来事
1582(天正10)年、3月から弱体化した武田家を滅亡させるため信長は甲州征伐を行いました。
翌月に、武田勝頼、武田信勝親子を自害に追い込み、戦国大名としての武田家は滅亡します。
長年の宿敵である武田家を滅亡させた信長は、戦の後に宴会を開き戦勝を祝ったと伝わります。
その宴会で光秀が、「こんなにめでたいことはありません。我々も骨を折ったかいがありました」と発言したそうです。
すると信長は「お前がいつ骨を折ったのか」と激怒し、更に光秀の頭をつかんで欄干(らんかん)(手すり)にたたきつけたとする説があります。
この話は、現代でもフィクションなどで使用されますので、どこかで聞いたことがあるかもしれません。
出典元は『祖父物語』、『川角太閤記』ですが、信憑性には疑問符がついています。
もし仮に、宴席の話が本当であっても、このことだけが動機ではなさそうに思います。
光秀が本能寺の変を起こした動機は、よほどのことがあったのではないかと考えます。
怨恨説④徳川家康の接待役の解任による恨み
1582(天正10)年、信長は安土城において、武田家を共に滅ぼした徳川家康を労うため、酒や食事などを出して接待することにしました。
家康の接待役を任されたのは光秀。
光秀が、近江の名物で珍味として名高い鮒鮨(ふなずし)を出したところ、信長が「腐った食べ物だ」と激怒したと云います。
光秀はその場で接待役を解任され、ライバル・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の援軍に行くよう命じられてしまいます。
※家康を討つよう命じられたのに、拒否したため解任されたとする話もあります。
そして、森蘭丸に鉄扇で叩かれ、恥をかかかされたとか。
この説は、江戸時代に成立した『川角太閤記』や『常山紀談』という書籍が出典元で、信頼できる話ではなさそうです。
ただ気になることは、『川角太閤記』は、豊臣秀吉の逸話が書かれた書籍であるものの、明智光秀の旧臣・山崎長門守の述懐も記録されていて、創作と断定できない所です。
一方の一級史料である『信長公記』には、大宝坊という屋敷で、三日間、光秀が饗応役を務めたと書かれていて、解任された話はないそうです。
このことから、元々三日間の任務で、解任された話は怨恨説を裏付ける為、後世に創作された可能性が指摘されています。
怨恨説⑤宴席での暴言・暴力
テレビなどで信長を怒らせた光秀が殴られたり、足蹴(あしげ)にされる場面をご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
お酒の席で暴言、暴力を振るわれた話を紹介させていただきます。
・光秀は信長から大きな盃に入った酒を飲むように言われますが、辞退したところ脇差を突きつけられたため、結局、強要され飲んだとする話があります。
・ある宴席で、光秀は目立たないように座ろうとしたそうですが、「このキンカ頭」(ハゲ頭という意味)と大勢の前で怒鳴られ、頭を殴られたとする話も伝わっています。
・1582(天正10)年、信長とその重臣達が集う酒席で、便所に向かった光秀を槍を持った信長が追いかけ、「何故座敷を立ったのか、この槍でお前の首を貫くぞ」と責め立てられたそうです。
他にも、酔っぱらった信長に槍を突きつけられた話もありますが、お酒を飲まない信長が酔っ払うことはなく、史実ではなさそうです。
普段から信長に厳しく当たられていたから、逸話ができたのでしょうか。
それとも、江戸時代から云われていた「本能寺の変の動機は怨恨」ではないかとする推測が生んだ逸話でしょうか。
ルイスフロイスの証言
信長が光秀を足蹴にしたという話は、当時日本にいた宣教師・ルイスフロイスも書き残しています。
信長と光秀が密室で話し合っていたところ、信長の意にそぐわない話だった為、一度か二度光秀を足蹴にしたというのです。
これは、信頼できそうな記述です。
ただ、「二人だけの間での出来事だった」とあり、ルイスフロイス自身が現場を見たわけでないようです。
「人々が語るところによれば」という前置きで語られています。
それでも、当時の人がそう書き残しているのであれば、信長が光秀に暴力を振ることはあったのかもしれません。
それでも、そう簡単にキレてしまっては、信長の家臣は務まらないと思います。
光秀が謀反を起こすには、他にも理由があったものと考えます。
怨恨説⑥国替えによる恨み
『明智軍記』によると、晩年の光秀は、今までの光秀の領地である近江坂本(滋賀郡)と丹波国を召し上げると通達を受けたようです。
かわりに現在の島根県で、当時は毛利氏の領地であった中国の出雲国、石見国に国替えされたそうです。
当時の毛利氏は信長と敵対していますので、中国は敵の領地です。
まだ討ち取ってもいない敵の領地を与えるとは、家臣に力尽くで領地を獲得してこさせる方法で、信長からは「切り取り次第領地にしてよい」と言われていたとされています。
都に近い坂本、丹波を召し上げられ、遠い敵の地に左遷となれば、精神的な衝撃は大きかったと思いますが…。
出典元の『明智軍記』は創作を多く含む軍記物、国替えを示す史料は見つかっていませんので、国替え自体事実ではないという指摘があります。
また、まだ平定されてない敵の土地を与えることは、実際にあったと云われています。
ただこの場合は、加増、栄転であって、恨みに思うことではないそうです。
怨恨説⑦稲葉一鉄の家臣を引き抜き叱責された
明智光秀が、信長の家臣である稲葉一鉄の家臣を迎え入れ、信長に激怒されたという話があります。
明智光秀の重臣・斎藤利三は、元は稲葉一鉄の家臣でした。
稲葉一鉄は斎藤利三の義父でもありましたが、利三はそりが合わず一鉄の元を去り、縁戚関係にある明智光秀の家臣になったと云われています。
今度は、斎藤利三を介して、稲葉一鉄の家臣(家老とも)・那波直治(なわなおはる)も引き抜き、光秀に仕えようとしました。
二人の家臣を取られた稲葉は、たまらず織田信長に訴えることになったのです。
織田家の規律を乱すという理由で、当時、家臣の引き抜きはルール違反でした。
激怒した信長は光秀を呼び出しますが、「良い家臣を召し抱えるのも、信長様へのご奉公のため」と光秀は弁明したそうです。
信長は斎藤利三の切腹を命じましたが、光秀は利三を庇いました。
また、斎藤利三に切腹を命じたのは、本能寺の変の四日前だそうです。
信長が光秀の頭を二、三度叩いたところ(髷を掴んだところとも)、光秀のつけ髪(カツラ)が取れてしまいます。
諸大名が見ている前の出来事なので、光秀は大恥をかかさられたことを恨み、本能寺の変の動機に繋がったという話です。
明智光秀の生年は諸説あるものの、当時55歳か67歳が有力と見られます。
いずれにせよ、髪の毛は薄くなっているかもしれない年齢であり、つけ髪をしても不思議でないですし、出世の為の若作りの可能性も否定はできません。
また、那波直治については、一鉄に返すよう命じた信長書状が存在するので、一鉄と光秀の間で直治を巡るトラブルはあったようです。
なお、那波直治は、稲葉一鉄の元へ返されています。
ですが、出典元は『日本外史』、『稲葉家譜』のようで、信憑性は高くないと見られています。
怨恨説をもっともらしくする為、那波直治の件に創作の話をくっつけた可能性もあるように感じます。
本能寺の変の一因として最近注目されている説です。
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