赤井直正(荻野直正)は、明智光秀の丹波平定を阻んだ「丹波の赤鬼」という異名を持つ猛将です。
通称は「悪右衛門」で、黒井城を拠点に赤井忠家の後見として赤井家を率います。
波多野秀治と連携して、明智光秀の攻撃を何度も追い返した赤井直正の生涯を書いています。
赤井直正(荻野直正)の出自
赤井氏は、清和源氏の井上頼季(みなもと の よりすえ)の流れを汲む芦田氏の出自と云われています。
また、丹波国の氷上郡(現・兵庫県)にいた土豪であるとする説もありあす。
赤井氏の拠点である丹波国は、足利将軍家の管領・細川氏が守護、守護代は内藤氏が務めていました。
赤井氏は、その傘下にいる国衆で、丹波国の氷上郡を中心に勢力を保持していました。
やがて、細川氏、内藤氏の影響力は衰えると、赤井氏は丹波の国衆(国人)だった波多野氏と共に、下剋上により台頭していきます。
そして赤井氏は、国衆から大名になった波多野氏を凌ぐ勢力になり、波多野氏は「国衆」、赤井氏は「大名」に発展したとも云われています。
赤井直正は、丹波赤井氏の頭領・赤井時家の次男として、享禄2年(1529年)に生まれました。
赤井直正の父は、赤井時家といい丹波赤井氏の頭領です。
赤井直正には、兄・赤井家清がいたため、赤井氏の跡継ぎではなく、幼少期に同族の荻野氏の養子になりました。
荻野姓を名乗りましたので、荻野直正とも呼ばれています。
直正の通称「悪右衛門」の由来は
天文23年(1554年)、赤井直正(荻野直正)は、外叔父・荻野秋清に新年の挨拶をする為、居城である黒井城に向かいました。
そこで、なんと荻野秋清を滅ぼして、黒井城を乗っ取ってしまいます。
何故、荻野秋清を亡き者にしたのか、理由は定かではありませんが、赤井直正(荻野直正)は、秋清の父・荻野正元の刺客だったのではないかと云われています。
一説では、荻野秋清が謀反を企てたと伝わっていて、父が息子に刺客を放つという…戦国時代に有り得そうな説が囁かれているのです。
諸説ありますが『赤井家譜』によると、赤井直正(荻野直正)の通称「悪右衛門」は、黒井城の乗っ取り戦からついた通称だと云われています。
直正の「悪右衛門」は、平安時代に叔父を討ち取った源義平に由来していることが読み取れる史料が見つかっている為です。
源義平は「鎌倉悪源太」、「悪源太」とも呼ばれています。
また、赤井直正(荻野直正)は自身の書状で「荻悪」と署名していることから、赤井ではなく荻野と名乗っていたと云われています。
因みに、『信長公記』には赤井悪右衛門の名前で出てきます。
「丹波の赤鬼」として恐れられた直正
その後、黒井城を拠点に活動する赤井直正ですが、勇猛さから恐れられ「丹波の赤鬼」というあだ名がつく程でした。
赤井の「赤」と赤鬼の「赤」は、関連があると思われていますが、赤井直正軍は赤い鎧を身に着けていた可能性が推察できるようです。
現代ではあまり知られていない赤井直正(荻野直正)ですが、当時は有名だったのではないかと思われる記録があります。
それは、武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」として、直正の名前が確認できる為です。
丹波(現・京都、兵庫)から遠く離れた甲斐(現・山梨県)でも、赤井直正(荻野直正)の武勇は知られていたようです。
『甲陽軍鑑』には徳川家康、長宗我部元親、松永久秀ら有名武将と並んで、「名高キ武士」の筆頭として直正の名前が記されています。
甲斐の武田勝頼の書状から、赤井直正と武田勝頼は対等の関係だったことが読み取れ、当時は高い評価を得ていたであろうことが分かります。
また、赤井直正(荻野直正)の勢力拡大の背景には、但馬国(現・兵庫県)の生野銀山(いくのぎんざん)の採掘権を持っていたことも一因にあります。
赤井直正は早い時期から、日本有数の銀山(生野銀山)を掌握していたようで、財力があったということではないでしょうか。
赤井直正が赤井一族を統率する
赤井直正(荻野直正)の正室は、丹波の戦国大名・波多野稙通の子である波多野元秀の娘です。
しかし、波多野元秀の娘に先立たれ、関白を務めたこともある近衛稙家の娘・渓江院を継室として娶ります。
渓江院は前・関白の近衞前久の妹でもあり、前久が将軍・足利義昭によって朝廷から追放された時は、赤井直正を頼って黒井城の下館(しもやかた)に住んでいたと云われています。
赤井直正(荻野直正)は、波多野家だけでなく、関白・近衛家から妻を迎えられる程の家だったことがわかります。
赤井直正(荻野直正)と渓江院は、一女に恵まれたそうですが、詳細は不明です。
また、生母不明ですが、直正には直義という子供もいます。
弘治3年(1557年)、赤井家を継いでいた兄・家清が、戦の傷がもとで亡くなりました。
家清の嫡男・赤井忠家は、数え年で9歳でしたので、直正が忠家の後見となり、赤井一族を統率していきます。
永禄8年(1565年)、赤井直正は、丹波国横山城主・塩見頼勝が治める天田郡に侵攻。
塩見頼勝の救援にやってきた松永長頼(改名して内藤宗勝)を、赤井軍は討ち取りました。
あの松永久秀の弟・松永長頼は、赤井家清の仇です。
赤井直正は兄の仇を討ち果たしたのです。
永禄13年(1570年)3月、赤井直正は、本家の赤井忠家と共に織田信長に謁見し、信長に降りました。
織田信長方についたことで、丹波国の氷上郡・天田郡・何鹿郡を安堵されましたが、丹波国の安定は長く続きませんでした。
信長の敵になり光秀に侵攻される
元亀2年(1571年)11月、山名祐豊と磯部豊直らが、赤井直正の配下にあった足立氏の山垣城を攻撃したのです。
救援に向かった赤井直正と赤井忠家は、山名祐豊と磯部豊直らを撃ち破りました。
その後、山名氏の居城・此隅山城(このすみやまじょう)、竹田城は、赤井直正に占領され、山名祐豊は織田信長に救援依頼をします。
しかし、当時の織田信長は、各地に反信長勢力がいて、援軍を出せる余力はありませんでした。
一方、赤井直正は、反信長勢力の足利義昭から助けを求められたり、同じく反信長勢力の武田信玄から書状が届いたり、反信長勢力に組み込まれていったようです。
赤井直正が信長から離反した理由は、足利義昭にあると云われています。
直正からすれば、義昭を擁する信長に従っていたのであって、二人が離別したのであれば、話は変わってくるということだと思います。
天正1年(1573年)、信長と対立する石山本願寺が朝倉氏に宛てた文書に、赤井直正が京に進軍する旨の記載があります。
赤井直正は、反信長勢力と共に打倒信長を目指したものと考えられます。
ですが、丹波の国衆同士仲が悪く、当てにできないと思われていたことも書かれていて、実際、大した行動はなかったようです。
またこの頃、先に述べたように、義兄の近衛前久を黒井城に受け入れていましたが、前久は織田信長の友人でした。
義兄・近衛前久は、複雑な思いがあったのかもしれません
天正3年(1575年)10月、明智光秀を総大将にして、赤井直正を討伐する為の戦が始まりました。
後に明智光秀の偉業と称えられる、光秀の丹波平定戦の始まりです。
赤井直正は、山名祐豊の重臣・太田垣輝延がいる竹田城攻めをしていましたが、光秀の丹波国侵攻により、直正は黒井城へ退却していきました。
赤井直正と波多野秀治が連携する
織田信長は丹波国の波多野秀治をはじめ、国人衆の殆どを味方につけた為、光秀有利に事が進むかに思えました。
明智光秀は、黒井城を落とすため砦を築き、黒井城の兵糧が続かない為、落城も時間の問題と考えていたようです。
しかし、黒井城は要害堅固な山城。
光秀が包囲しても落とせない所に、波多野秀治が赤井氏についた為、明智軍は退却を余儀なくされたのです(第一次黒井城の戦い)。
先に述べたように赤井氏は、波多野元秀の娘を介して親戚同士でした。
赤井直正の亡き正室の他、赤井忠家の生母も波多野元秀の娘です。
波多野元秀とは、波多野秀治の叔父と云われていますが、諸説あり養父説もある人物です。
その為、事前に盟約があったとも云われますが、定かではありません。
いずれにせよ、その後も赤井一族と波多野一族は、連携し明智光秀を何度も撃退し、直正の「丹波の赤鬼」の名を世間に知らしめます。
赤井直正の病没
赤井直正らは、明智光秀からの侵攻を受けますが、光秀は石山本願寺攻め、紀州征伐、信貴山城の戦いなど、複数の織田家の戦に従軍し丹波平定に集中出来ずにいました。
一方の赤井直正は、弟・赤井幸家と共に、吉川元春に救援を要請していましたが、結局は実現はしていません。
また、年代不明ながら、赤井忠家、赤井直正が謝ってきたので赦免したと書かれた信長の朱印状が残されています。
朱印状には、直正らを攻めていた国衆に知行を安堵する旨も書かれています。
天正4年(1576年)4月の朱印状ではなかとする推測があり、そうだとすると波多野秀治と共に明智光秀を撃退した3カ月程後の話になります。
一説には、先の戦で織田軍の手強さを感じた赤井直正が、織田信長との対立を回避しようとしたのではないかとする見方があります。
しかし、天正5年(1577年)10月、明智軍は丹波国に再度侵攻し、天正7年(1579年)の第二次黒井城の戦いに繋がっていきます。
第一次黒井城の戦い(丹波攻め)で苦労した明智光秀は、中々落とせない黒井城ではなく、黒井城の周りの城から攻めて籾井城、亀山城を落城させます。
難敵・赤井直正を打ち破る為、明智軍は、細川藤孝・忠興父子の援軍を得て、第二次丹波国征討戦が始まりました。
しかし、意外な結果で赤井直正との戦いは、終焉を迎えます。
天正6年(1578年)3月、赤井直正が50歳で病没したのです。
一説には、「化膿してできる腫れ物」が原因とも云われていますし、明智光秀の暗殺説も囁かれています。
赤井直正は、数十年に渡り赤井氏の事実上の指導者でしたので、直正の病没は光秀の丹波平定を早めることになります。
直正の嫡男・直義は、当時9歳だった為、直正の弟・赤井幸家が後見となり、赤井家の指揮を執り黒井城の戦いは続きます。
黒井城の落城
織田信長は、明智左馬助(秀満)、羽柴秀長(秀吉の弟)の軍勢も送り込み、黒井城、波多野秀治の八上城の支城を次々に攻略させます。
そして明智光秀は、黒井城と八上城を分断させる為、金山城を築城して八上城の攻略に取り掛かります。
八上城を包囲して、飢えと調略により、ついに八上城を開城させます。
古くから名城として知られた八上城が落城したのです。
次に、黒井城攻めの際は、赤井氏の第二の拠点・鬼ヶ城から攻め落とします。
鬼ヶ城を守ってた赤井忠家は、今度は黒井城に入り、最期の抵抗をします。
支城を押さえられ孤立無援の黒井城は、明智軍の攻撃に耐えられませんでした。
赤井直正を失った黒井城に勢いは無く、天正7年(1579年)8月9日、黒井城も落城したのです。
また直正が後見を務めていた本家の赤井忠家は、黒井城落城後に遠江国に逃げ生き延び、子は徳川家の旗本になっています。
この後、黒井城は明智光秀の重臣・斎藤利三が入り、春日局として有名なお福が誕生するのです。
赤井直正は脇坂安治に貂の皮を与えた!?
話は遡りますが、天正6年(1578年)1月、病床にあった直正の元を脇坂安治が訪ねたという話が伝わっています。
直正の黒井城の守りが堅いため、説得によって開城させようとしましたが、聞き入れられなかったと云われています。
ですが脇坂安治の好意に感謝した赤井直正は、家宝の「貂(てん)の皮」を与えたそうです。
貂とはイタチの一種で、脇坂家の馬印として使われています。
ですが「貂の皮」は、脇坂家の代名詞のようになった為、貂の皮の価値を高めるため、後に創作されたと見なされています。
創作と見なされているのは、当時の歴史と符合しない点がある為です。
脇坂安治は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の遣いとして、500の兵を率いて直正の元へ赴いたことになっています。
ですが、赤井直正との戦の総大将は、明智光秀です。
また、脇坂安治は後に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣として活躍し、戦国大名になりますが、当時は明智光秀の与力として丹波攻めに参戦していたようです。
脇坂家が「貂の皮」を赤井直正に与えられたことにしたい位、当時の直正は名高い武士だったということでしょうか。
赤井直正や一族の子孫
赤井直正の嫡男・直義は、落城後に逃亡し、俗世間を離れて京都に住みました。
京都隠棲時に名前を荻野金左衛門と改名しています。
赤井直義(荻野金左衛門)の従兄弟である山口直友の仲介で、慶長15年(1610年)に藤堂高虎に仕え1000石を拝領して、赤井姓に戻したそうです。
豊臣家滅亡の戦である大坂の陣では、藤堂軍の足軽大将として従軍しています。
江戸時代になると、伊賀国は藤堂家の領土の一部になり、赤井家屋敷も伊賀にあったようです。
伊賀市上野忍町に、武家屋敷「赤井家住宅」が現存しています。
平成22年(2010年)、赤井直正の子孫・赤井龍男氏(婿養子)が、伊賀市に寄付し、国の登録有形文化財になっています。
修復された「赤井家住宅」は、カフェや作品展やお茶会などイベントを開催する施設として親しまれています。
赤井直正の継室が産んだ赤井弥七郎は、大坂の陣で豊臣方につき、戦後は藤堂家に仕えたという説がありますが、真偽は不明です。
赤井直正の弟で直義の後見を務めた赤井幸家は、足立氏の娘を娶り、久基という子供に恵まれたそうです。
赤井久基は赤井幸家亡き後、叔父の赤井弥平衛時直に助けられて大和で育ち、赤井忠泰の娘を娶り足立に名を変えたと伝わります。
赤井忠泰の父は、赤井直正が後見を務めていた本家の赤井忠家(直正の甥)で、先に述べましたが、黒井城落城後に逃げ旗本として家を残していたのです。
赤井忠泰の祖父、赤井忠家の父は、赤井直正の兄・赤井家清です。
赤井忠家(直正の甥)の娘に徳川幕府の旗本である川勝重氏(かわかつ しげうじ)の正室がいます。
川勝将氏(まさうじ)→川勝益氏(かずうじ)→川勝氏令(うじよし)→川勝氏方→川勝氏定と江戸時代後期に養子を迎えるまで、赤井忠家の子孫が続いています。
途中系譜の系譜の辿れない子がいますので、現在にも子孫は続いているかもしれません。
2016年放送された「ファミリーヒストリー」によると、プロボクサーとして活躍した赤井英和氏は、赤井幸家(直正の弟)の子孫に当たるそうです。
赤井英和の娘で、モデル、女優、プロレスラーでもある赤井沙希氏も赤井幸家の子孫になります。
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[…] 明智光秀は、「丹波の赤鬼」という異名を持つ赤井直正に手を焼いています。 […]