織田信長から家督を譲られた織田信忠。
本能寺の変の知らせを受け、二条新御所に籠って奮戦した後、自害しています。
織田信忠は、明智軍からなぜ逃げなかったのか、その理由と信忠の生涯について書いています。
織田信忠の生母と幼名
弘治3年(1557年)、織田信忠は織田信長の長男(又は次男)として誕生します。
信忠の生母は、信長の側室・生駒吉乃(いこま きつの)ではないかと見られていました。
しかし、天正5年(1577年)の信忠自身の書状により、「久庵慶珠」という女性が生母ではないかとも云われています。
「久庵慶珠」についての詳細は分かりません。
また、『勢州軍記』によると、信長の正室・帰蝶(濃姫)は、信忠を養子にしています。
信忠の幼名は「奇妙丸」といいますが、産まれた時の顔が奇妙であった為、名付けられたという逸話が残ります。
逸話の真偽は不明ですが、信長は息子達に変わった幼名をつけていますので、信長らしいと思いました。
因みに信長の次男・信雄の幼名は「茶筅丸」、六男・信秀は「大洞」(おほぼら)、七男・信高は「小洞」(こぼら/ごぼう)、九男・信貞は「人」です。
武田信玄の娘・松姫と婚約
永禄8年(1565年)、尾張を統一した信長は、武田家世子の立場になった勝頼に、信長の姪で養女である龍勝院を娶らせ同盟関係を結びます。
更に永禄10年(1567年)、織田家と武田家の同盟関係を強化する為、信忠と信玄の六女・松姫の婚約が決まります。
当時の信長は、斎藤龍興を敗走させ、美濃を攻略した頃ですが、美濃を奪い返そうとする動きもあり、信長に武田信玄と対立する余力は無かったと思われます。
信忠の婚約は、永禄10年(1567年)に、武田勝頼に嫁がせた龍勝院が亡くなった為と云われていましたが、龍勝院は元亀2年(1571年)まで存命であったとする説もあります。
暫く、織田家と武田家は良好な関係を築いていましたが、元亀3年(1572年)に信玄が信長包囲網に呼応すると、同盟関係は破綻。
織田信忠と松姫の婚約は、事実上破断になっています。
信忠 家督を継ぐ
織田信忠は、元亀3年(1572年)から天正元年(1573年)頃、元服したようで、始めは「勘九郎(信重)」と名乗ります。
以前の信忠の評価は、「暗愚な凡将」と言われていましたが、根拠に乏しい説とされ、現在では十分な能力のある人物と評価されています。
実際、戦でも信長に認められる働きをしています。
織田信忠は石山本願寺との戦い、武田勝頼が大敗した長篠の戦などに従軍し、武田家家臣・秋山虎繁(信友)を降伏させて岩村城を開城させるなど、武将としての才能を発揮します。
天正3年(1575年)、信忠は秋田城介に補任されており、天下統一に向けた信長の戦略の一つと見られています。
当時の征夷大将軍は、足利義昭ですが、信忠も将軍格になる為、将軍職の一つである鎮狄将軍(ちんてきしょうぐん)を目指していたようで、その前段階として秋田城介に任官したと見られます。
織田信忠は志半ばで斃れますので、将軍格になることはありませんでしたが。
織田信忠が元服し3年ほど経過した天正4年(1576年)11月、織田信忠は織田家の家督を継ぎます。
織田家の実権は引き続き信長が握っていましたが、信忠が跡継ぎであることを明確にしたのです。
織田信長と弟・信勝(信行)は、家督を巡り争っていますので、子供達の争いを避ける為かもしれません。
織田信忠は、織田家代々の尾張の一部や美濃東部の統治を任されて、岐阜城も譲り受けています。
また、帰蝶(濃姫)の弟で、斎藤道三の末子・斎藤利治は、信忠の重臣になりました。
斎藤利治は、信忠にとっては義理の叔父に当たる人物で、天正6年(1578年)に起きた月岡野の戦いでは総大将を務め、信長や信忠から功績をたたえられ、加増を受けています。
信忠 松永久秀攻めでも評価
天正5年(1577年)10月に起きた信貴山城の戦いでは、総大将を務めて4万の軍勢を指揮しています。
謀反を起こした松永久秀を討伐する為の戦で、久秀の宿敵であった織田方の筒井順慶の活躍などもあり、信貴山城は落城し久秀は自害しています。
功績が認められた信忠は、従三位左近衛権中将に任ぜられました。
この頃の織田信忠は、信長に変わって織田軍の指揮をしたり、信長が集めた茶器を譲られたり、織田家当主に相応しい処遇を受けます。
信忠 三木城の支城を攻略
天正6年(1578年)、織田方の尼子勝久が守る播磨国上月城(こうづきじょう)に、毛利勢が攻めて来ました。
上月城は、かつては毛利方の城でしたが、羽柴秀吉が落とし、尼子勝久が守っていたお城です。
上月城を奪還しようとした毛利勢に包囲されたのです。
上月城の援軍として、派兵した織田軍2万の総大将も信忠でしたが、毛利方の重要拠点・播磨国三木城を包囲することが一番の目的であったと伝わります。
その為、上月城の戦いが行き詰まると、三木城攻めを優先する為に、信長の指示で上月城の救援を諦めています。
孤立無援になった上月城は、後に毛利勢に落とされて、尼子勝久は自害しています。
織田信忠は織田信勝、織田信孝らと共に攻城戦を行い、三木城の支城・神吉城を落とし、既に野口城も落ちていたので、孤立した志方城も落城。
同じく三木城の支城・魚住城、高砂城も攻略すると、信忠軍は引き上げて行きました。
三木城攻めの指導者は、羽柴秀吉ですが、後に兵糧攻めにより落としています(三木合戦)。
荒木村重に夜襲を受ける信忠
秀吉軍に加わり三木合戦に従軍していた荒木村重が、突然、信長に謀反を起こします。
荒木村重を征伐する為、天正6年(1578年)から翌年にかけて、有岡城の戦いが起き、信忠も従軍しています。
織田軍5万に対し、荒木軍は1万~1.5万の軍勢と云われていてますが、荒木軍に離反や逃亡があり、5千にまで軍勢が減っていきます。
しかし、有岡城の守りは堅く、織田軍は攻城戦から兵糧攻めに切り替えて、荒木軍を制圧していきます。
荒木方の食糧は減り、期待する援軍も来ない中、士気を高めようとした村重は、夜に織田信忠隊のいる砦を急襲します。
信忠隊に救援が到着する頃は、兵糧、馬を強奪された後で、荒木村重軍の強さは京にまで知れ渡ることになります。
その後、荒木村重は、突然、家族や城を捨てて、茶道具と5、6名の側近を連れて、嫡男のいる尼崎城(大物城)に夜逃げします。
秘密にしていた村重逃亡は、信長の間者に知られ、織田信忠を総大将にして村重が逃げた尼崎城(大物城)へ向います。
その後、主を失い、織田軍に総攻撃をかけられた有岡城は、落城し荒木方はほぼ全滅したと云われています。
荒木村重は、城と引き換えに妻子の助命を打診されていましたが受け入れず、尼崎城(大物城)から花隈城へ移り、最終的には毛利輝元の元へ逃げ延びています。
天正8年(1580年)、織田家の家老・佐久間信盛、西美濃三人衆の一人だった安藤守就(もりなり)が追放されたことで、信忠の統治する領域が広がります。
信忠 武田家を滅亡させる
武田勝頼は、天正3年(1575年)に起きた長篠の戦いで、織田・徳川軍に大敗を喫し、衰退していました。
天正10年(1582年)、武田家にとどめを刺す戦となる甲州征伐が起きます。
織田信忠は、織田軍5万の総大将として、徳川家康、北条氏政と共に武田領に侵攻します。
一方の信長は、「天下人」として台頭しており、織田軍に恐れをなした武田方の寝返りや逃亡が続き、徐々に武田軍が崩壊していきました。
そのような中、武田信玄の5男・仁科盛信は、500~3千の兵で高遠城に籠もり抵抗します。
高遠城を包囲したのは、信忠の3~5万の大軍であり、降伏勧告をしています。
拒否した仁科盛信は、多勢に無勢で玉砕して高遠城は陥落、仁科盛信は自害し、首は信長の元へ送られています。
翌日、信忠軍は諏訪郡へ侵攻し、武田氏の庇護下にあった諏訪大社に放火します。
甲府に入った織田信忠は、武田勝頼の親類や重臣を見つけて、全て亡き者にしたと云われています。
その後、譜代家老(小山田信茂)に裏切られた武田勝頼一行は、天目山(甲州市大和町)目掛けて逃げ延びています。
しかし途中の田野で、織田方の滝川一益隊に見つかり、対峙した勝頼は嫡男と共に自害しました(天目山の戦い)。
織田信忠の本能寺の変
織田家の後継者として順調見える信忠ですが、ある日、不運が襲います。
それは、本能寺の変の勃発です。
天正10年(1582年)、羽柴秀吉の援軍に赴くべく、京の妙覚寺に滞在中に本能寺の変の知らせを受けたようです。
信長の救援に向かおうとしますが、既に自害したとの情報が入り、明智光秀を迎え撃つため、妙覚寺より軍事機能の整った二条新御所に移ります。
二条新御所に在宅していた誠仁親王(さねひとしんのう)一家、女性を脱出させた信忠は、光秀に抵抗するため籠城します。
信忠の手勢はわずか500名、馳せ参じた味方を入れても1,500名位だったと伝わっており、対する明智軍1万余は、信長を自害に追い込むと信忠のいる妙覚寺に急行し、二条新御所を包囲します。
信忠の義理の叔父で、斎藤道三の末子・斎藤利治などを中心に、三度も明智軍を撃退したと伝わります。
しかし、二条新御所を見下ろす位置にあったという近衛前久邸の屋根に登った明智軍は、猛烈な弓や鉄砲での攻撃を行い、信忠軍は次々と討ち取られて、信忠はついに断念して自刃したと伝わります。
信忠の介錯を務めたのは鎌田新介で、信忠の命令通り縁の板を外して床下に亡骸を隠したと云われています。
信忠の首は、明智軍の手に渡ることはありませんでした。
享年26歳。
織田信忠はなぜ逃げなかったのか
明智軍から信忠が逃げなかった理由は不明です。
信忠が逃げようと思えば、不可能でなかったと思われます。
信長のいた本能寺は包囲されていましたが、信忠のいた妙覚寺は包囲されてなく、実際に二条新御所に移動出来ています。
二条新御所に移った後でも、脱出した人物がいることを考えると、信忠の脱出も可能性はあったように思えます。
例えば、信忠と共に二条新御所にいた織田信長の弟・織田長益(有楽斎)や、織田信忠の介錯を務めた鎌田新介は逃げ延びたと云われています。
前田玄以も二条新御所にいましたが、信忠の命令で逃げると、信忠の子・三法師(織田秀信)を保護し尾張清洲城に避難させたと云われています。
徳川家康の叔父・水野忠重も脱出したようですし、山内一豊の同母弟・山内康豊も早々に逃げたと云われます。
それでは、なぜ逃げなかったのか。
大田牛一が書き記した『信長公記』によると、二条新御所に入った後、退去を進言した人もいたそうです。
しかし、信忠は光秀が逃げられないように京を封鎖していると思ったようで、「万一にも我々を逃がしはしまい」と言い、雑兵に滅ぼされるのは無念、不名誉である為、切腹する覚悟を決めていた旨が書かれています。
こう軍議してるうちに、明智軍が攻めてきたとあり、時間もなかったことが読み取れます。
逃げ延びた者が複数いることから、信忠が思ったよりも包囲網が緩かったと思われ、少なくても京は封鎖されていなかったことが分かります。
本能寺の変は、信長、信忠が僅かな近習と共に京に滞在し、偶然訪れた絶好のタイミングで光秀が謀反を決意したという突発説も囁かれており、京を封鎖する余裕は無かったように思います。
また信忠は予定を変更して京に滞在したいたとも云われており、そうだとすると、光秀にとって急遽訪れた好機ということになります。
なので、信忠が思ったよりも、明智光秀は用意周到に準備出来ていなかったかもしれません。
また、逃げ延びた人がいても信忠も逃げられるかは不明であり、仮に捕まったならとても無様でしょうし、名も無い武士に討たれても無念でしょう。
もし信長の訃報が誤報で生きていたら、物凄いお咎めを受けそうですし、信忠の名誉にも傷がつくかもしいれません。
例えば、織田長益(有楽斎)は、信忠に自害を進言したと云われていますが、にも関わらず自身は戦いの最中に逃げたそうです。
ことから京の民衆によって、皮肉を込めた織田長益(有楽斎)の落首が流され、生き恥を晒しています。
織田信忠は、無様に生き延びるより、華々しく戦い、後世に名を残したいと考えたのかもしれません。
織田信忠と武田信玄の娘・松姫
先に述べたように織田信忠は、武田家を滅亡させた織田軍の総大将を務めた人物で、武田の一門を探し出して討ち果たしてもいます。
織田信忠は武田信玄の五女で、勝頼の妹・松姫の婚約者でもあった人物ですが、婚約破断後も松姫に思いを寄せていたかもしれないのです。
武田家滅亡後、松姫は八王子に逃げ延びていましたが、信忠が使者を出し妙覚寺に招こうとしていたと云われています。
婚約時代に文通や贈り物で、絆を深め合っていたと伝わり、松姫は信忠を思い続けたと伝わります。
松姫は信忠からの使者に喜び、信忠に会いに行く道中、本能寺の変の知らせを受けて、八王子に戻っています。
同年、松姫は22歳の若さで出家して、武田家と信忠の冥福を祈ったそうです。
お互いに会ってもいないのに、そんなに一途な話あるかなと思ってしまいますが…、信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は松姫であるという説があります。
信忠は側室だけで、正室を迎えていなかったので、松姫のことが頭にあった…かもしれません。
もしそうだとすると、滅んだ家の娘と結婚しても、政治的には意味はなく、純愛になりそうですが。
そうだとしたら、信忠は、どのような思いで松姫の実家を滅ぼしたのだろうと考えます。
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