織田信長は尾張の小さな領主から天下人になったと言われることがあります。
しかし、信長が織田弾正忠家の家督を継いだ時、既に尾張随一の勢力がありました。
織田弾正忠家の勢力を大きく拡大させた人物こそが、信長の父・織田信秀です。
智勇に優れた織田信秀とは、どのような人生を歩んだ人でしょうか。
その生涯について書いています。
織田信秀 家督を継ぐ
永正8年(1511年)、織田信秀は、織田弾正忠家・織田信定の長男として生まれます。
信秀の生家である織田弾正忠家は、尾張守護・斯波氏に仕える織田大和守家(清州織田氏)の庶流です。
織田大和守家(清州織田氏)は、尾張下四郡を支配する守護代で、織田信秀の父はその配下の重臣です。
織田大和守家(清州織田氏)には、一族で奉行を務める清洲三奉行(清洲織田氏の三家老)がいますが、信秀の織田弾正忠家もその内の一つです。
織田信秀の父は、天文7年(1538年)11月に没したという説がありますが、父が存命であった大永6年(1526年)から翌年の間に、信秀が織田家の家督を継いだようです。
また、時期は分かりませんが、織田信秀は主家の織田達勝の娘を娶っています。
織田信秀が当主になった頃、主家である織田大和守家(清州織田氏)の権力は陰りが見え、織田弾正忠家の勢力が目立っていたといわれています。
織田信秀の財力
織田弾正忠家が何故勢力を拡大できたのか、理由の一つは豊富な財力であると考えられます。
尾張国の勝幡城主であった織田信秀の父は、尾張と伊勢を結ぶ要の地である津島を押さえています。
現在は埋め立てで内陸の都市となっていますが、戦国時代の津島は、港町として栄えた商業都市で、多くの参拝者が訪れる牛頭天王社(津島神社)の門前町でもあります。
勝幡と津島の距離は、約4キロメートルほどであり、勝幡城から津島を支配することで、織田弾正忠家の経済的基盤ができたものと考えられます。
また、財務基盤の他に、織田信秀と父や祖父の三代に渡り、尾張の中島郡内の土地を横領して、勢力を拡大していたという背景もあります。
中島郡は、織田伊勢守家(岩倉織田氏)の勢力下であったと推察できるようです。
織田伊勢守家(岩倉織田氏)は、信秀の主家と同じく、守護・斯波氏に仕える守護代で、信秀の主家とは対立関係にある家です。
織田信秀 織田達勝と対立
天文元年(1532年)、織田信秀は主家の織田達勝と争い、後に講和しますが、両家の関係は途絶えてたようです。
この時、清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門(織田良頼)は、織田達勝に従い信秀と争っています。
織田藤左衛門(織田良頼)の娘・いぬゐは、織田信秀の生母で父の正室ですので、信秀は叔父とも戦をしていたことになります。
織田信秀と主家の絶縁状態から交流を促したと見られる出来事があります。
天文2年(1533年)、織田信秀は、蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱を尾張に招き、蹴鞠の指導を受けています。
飛鳥井雅綱が友人の山科言継を誘い、同道した言継が書き残した『言継卿記』という日記があるので、当時の様子を知ることができます。
織田信秀らは、勝幡城で蹴鞠会を催していましたが、やがて織田大和守家(清州織田氏)の居城・清州城に移って、連日蹴鞠会を開催しています。
そして多くの尾張武士が、飛鳥井雅綱の門弟になっています。
織田達勝は、信秀達と蹴鞠を楽しみ、二人の通信は再開したようです。
織田信秀は、織田藤左衛門との交流も再開しています。
また、『言継卿記』によると、織田信秀らが飛鳥井雅綱から蹴鞠の指導を受けた際、竹王丸(今川氏豊)も招かれていたそうです。
織田信秀 那古野城を奪取
尾張の有力者に成長した織田信秀は、次の標的を今川氏豊の居城・那古野城(後の名古屋城)に定めたようです。
織田信秀と今川氏豊(駿河の今川氏一族)は、ともに連歌好きです。
織田信秀の謀略であると見られていますが、那古野城で開催される連歌会に何度も通って、氏豊の信用を得ていきます。
織田信秀は、何日も那古野城に泊まるようになりますが、ある日、病気で倒れます。
「家臣に遺言をしたい」との信秀の願いを聞き入れ、今川氏豊は那古野城に信秀の家臣を入れてしまいます。
織田信秀の家臣が那古野城に火をつけて城の内外から攻め、戦の準備をしていなかった今川氏親の家臣は、ことごとく討ち取られてしまいます。
命乞いにより助けられた今川氏豊は、那古野城を奪われ、京へ逃げて行きました。
那古野城奪取の件は、どこまで史実か分からないようです。
ただ、織田信秀と今川氏豊は懇意にしていたこと、いつの間にか那古野城が信秀の物になっていたことから、似たような出来事があったと思われます。
いずれにせよ、織田信秀は、今川氏豊の居城だった那古野城を自身の居城としています。
織田信秀の飛躍はその後も続き、那古野城の南方にある商業都市・熱田を支配し、織田弾正忠家の二つ目の経済的基盤としています。
織田信長が誕生する
天文3年(1534年)、織田信秀と継室・土田御前との間に織田信長が生まれています。
織田信長が誕生した頃には、三河の松平清康(徳川家康の祖父)は、勢力を拡大しており、尾張にも侵攻しています。
天文4年(1535年)、松平清康は織田信秀の弟・信光が守る守山城を侵略しますが、家臣に両断され清康は亡くなっています(森山崩れ)。
信秀が奪取した那古野城は、やがて織田信長に譲られますが、那古野城の後に信秀が居城としたのは古渡城です。
那古野城が譲られた時期は定かでなく、信長の幼少の頃とも元服前ともいわれていますが、天文13年(1544年)から天文15年(1546年)の間であると考えられます。
そして、織田信秀の最後の居城は、天文17年(1548年)に築城した末森城ですが、城を転々とする戦国大名は珍しいようです。
伊勢神宮や朝廷に献金する
織田信秀は、朝廷に献金したことが評価され、従五位下、備後守に任官されています。
また、織田信秀は将軍・足利義輝にも拝謁しており、名目上の立場である守護代の奉行とは思えないほどの力が既にあったことが分かります。
天文9年(1540年)、織田信秀は、伊勢神宮の外宮禰宜・度会備彦(わたらいそえひこ)の懇願に応じて、外宮の遷宮のための協力を約束しています。
その後、織田信秀は、外宮遷宮のため多くの木材を手配したようで、木材到着の記録が残っています。
翌年、外宮の遷宮が執り行われ、織田信秀は合計で700貫を献上しています。
伊勢神宮遷宮の功績により、織田信秀は、朝廷から三河守に任じらています。
ですが、織田信秀が三河守を称したことは確認出来ていないようです。
戦国時代の皇室は、経済的に余裕がなく、戦国大名の献金で皇居の修繕が行われていたそうです。
伊勢神宮遷宮のために、織田信秀が大金を投じたことは、朝廷でも評判になったようで、信秀は皇居の修繕を申し付けられ承知しています。
織田信秀は、朝廷に修理費用として4,000貫を献上したといわれますが、記録によっては1,000貫です。
いずれにせよ、今川義元の献納額500貫と比較しても、信秀は多額の献金をしたといえます。
※1貫は現在の価値で5万円から15万円だそうです。
この時、献金のために上京したのは織田家の家老・平手政秀で、政秀は天盃や太刀を賜っています。
その後、平手政秀は大坂本願寺を訪ね、手厚いもてなしを受けています。
後に織田信長の宿敵となる本願寺ですが、織田信秀は本願寺との関係を大事にしていたようです。
隣国や一族との争い
先に述べたように、三河の松平清康(徳川家康の祖父)は、天文4年(1535年)に没しています。
松平一族内の争いなどで松平氏は弱体化し、三河は混乱状態になっており、織田信秀にとって三河侵攻の好機が訪れていました。
天文9年(1540年)、織田信秀は、西三河の要といえる安祥城を攻撃して落とし、庶子・織田信広を城代として置いています。
天文11年(1542年)、織田信秀は、松平氏を支援する今川義元と戦になり、勝利したといわれますが、史実かは分かりません(第一次小豆坂の戦い)。
尾張の隣国である美濃では、美濃の守護・土岐一族が内戦により弱体化し、守護代の斎藤道三(利政)が台頭していました。
天文11年(1542年)、斎藤道三は、美濃の守護の土岐頼芸と子の頼次を尾張に追放し、織田信秀は頼芸を援護します。
また、越前では頼芸の甥・土岐頼純を朝倉孝景が保護し、織田信秀は朝倉氏と共に美濃の斎藤道三と対峙します。
織田信秀は、軍事行動を起こして、美濃の大垣城を占領しています。
その後、斎藤道三の居城・稲葉山城攻め(加納口の戦い)を行った織田信秀は、一族や重臣を失い惨敗しています。
天文17年(1548年)、隣国との争いが絶えない中、織田信清(信秀の甥)や織田寛貞が反旗を翻して織田家中でも争いが起きますが、鎮圧して従属させています。
同年、斎藤道三は、大垣城奪還のため出陣します。
大垣城救援のため出陣した織田信秀は、木曽川を渡って美濃に乱入しています。
織田信秀が古渡城を留守にした隙に、清洲城主・織田信友(彦五郎)が古渡城を攻めてきたため、織田大和守家(清州織田氏)とも戦っています。
織田信友(彦五郎)は、織田達勝の跡を継いだ織田大和守家(清州織田氏)当主で、信秀の名目上の主君でもあります。
後に、織田信秀と織田信友(彦五郎)は和睦し、大垣城は斎藤道三に奪還されています。
竹千代を得る
天文16年(1547年)、織田信秀は三河の岡崎城を攻め落とし、松平広忠を敗北させています。
駿府の今川氏の元へ送られるはずであったという、広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が、織田信秀の元へやって来ます。
今川方の戸田康光の裏切りであるとも、松平広忠が降伏の証として信秀に差し出したともいわれています。
その後、斎藤道三や今川義元と結んだ松平広忠が挙兵して、織田信秀と対立します。
天文17年(1548年)、織田信秀は、今川・松平連合軍と戦になり、大敗しています(第二次小豆坂の戦い)。
敗走する織田軍は、安祥城の守りとして庶子・織田信広を置いて、信秀は尾張へ帰還しています。
斎藤道三と和睦
この頃の織田信秀は、北に斎藤道三、東に今川義元、織田家中でも清州勢力が敵対し、正に四面楚歌という状態でした。
既に病魔が忍び寄っていたのか、織田信秀にかつての勢いはなく、斎藤道三と和睦する道を選んでいます。
天文18年(1549年)、織田信長の正室に斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)を迎えています。
竹千代と安祥城を失う
同年、安祥城は太原雪斎率いる今川軍に攻撃され、再度の侵攻を受けた際に、織田信広は生け捕りにされています。
後に、平手政秀と太原雪斎で協議し、織田信広と竹千代は人質交換されることになります。
織田信秀は、三河の跡取り・竹千代だけでなく、牙城・安祥城までも失い、三河での織田勢力を失う結果となっています。
織田信秀病没
同年、織田信秀は、病に臥せるようになり、周囲も知る所になったようです。
織田信秀に代わって、信長が熱田の政務を執行しています。
今まで織田信秀に従っていた尾張の有力国衆・山口教継が今川方に寝返り、周囲を調略して織田家の勢力を削ぐよう画策しています。
天文21年(1552年)、織田信秀は、晩年の居城・末森城において42年の生涯を閉じています。
また、織田信秀の没年は、天文18年(1549年)説、天文20年(1551年)説もあります。
織田信秀の葬儀は、萬松寺で執り行われ、僧侶300人を参集させた盛大なものだったといわれています。
織田信秀の一番の実績は、尾張守護代の重臣という身分から、尾張随一の実力者となったことであると言えるかもしれません。
織田信秀の父・信定が津島を押さえたことで豊富な財務基盤があったからこそであり、信秀だけの力で尾張の実力者にのし上がれたわけではありませんが。
いずれにせよ、織田弾正忠家は、織田信秀の代で大きく飛躍し、織田信長が天下人として駆け上がる土台をつくったといわれています。
また、織田信秀の経済政策・外交政策・軍事作戦など、信長に影響を与えたと見られており、信長の基礎をつくった人物であるとの評価もあります。
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