徳川家康の忠臣として知られる鳥居元忠は、家康が今川氏の人質だった時期から仕えています。
その後、鳥居元忠は旗本先手役に抜擢され、多くの戦に従軍して家康の重臣として活躍しています。
秀吉没後、上杉征伐に向かう家康の背後をついて石田三成らが挙兵すると、鳥居元忠が守備する伏見城は敵に包囲されます。
多勢に無勢で戦い続けた鳥居元忠は、伏見城の戦いで最期を迎えています。
この記事では鳥居元忠の生涯、家紋、子孫などについて書いています。
鳥居元忠 徳川家康に仕える
天文8年(1539年)、鳥居元忠は鳥居忠吉の三男として、三河国碧海郡渡郷にて生を受けます。
鳥居元忠の父は、松平清康(家康の祖父)・松平広忠(家康の父)に仕え、渡を領有したと言われています。
その後、鳥居元忠の父は徳川家康にも仕え、倹約・蓄財に努めるなどした忠臣として知られています。
鳥居元忠の母は不明で、元忠の幼名も分かりません。
天文20年(1551年)、鳥居元忠が数え年で13歳の時に、3歳年下の徳川家康(当時は松平竹千代)に仕えたと言われています。
この時、松平広忠(家康父)は既に亡くなっており、幼主・家康は駿河の今川氏の人質となっていました。
鳥居元忠は人質となっていた家康に近侍し、元忠の父は商人的な武士で財力があったようで、家康に衣類などを送って援助したと言われています。
天文24年(1555年)3月、徳川家康は今川義元から偏諱を賜り、松平元信と名乗っています。
この時、鳥居元忠も元服し、偏諱を賜ったのではないかとの推測がありますが、定かではありません。
当時、松平氏の拠点だった岡崎城は、今川氏の管理下にあり、松平党は困窮していました。
そのような中、鳥居元忠の父は、いつか帰還する徳川家康のために米銭を貯えており、弘治2年(1556年)、家康が一時的に帰還した際に見せると、家康は涙を流したと伝わります。
一方、鳥居元忠は、永禄元年(1558年)の寺部城攻めで初陣を果たしています。
桶狭間の戦いが転機となる
永禄3年(1560年)、勢力を拡大し勢いのあった今川義元が尾張に侵攻し、織田信長と戦になります(桶狭間の戦い)。
徳川家康は今川方として参戦しており、鳥居元忠も御馬廻として従軍したそうです。
大軍を率いていた今川義元ですが、桶狭間の戦いで討死します。
今川義元の敗死は徳川家康にとって転機となり、今川氏から独立を図って、やがて織田信長と和睦して同盟を結びます。
永禄9年(1566年)、徳川家の軍制により、鳥居元忠は旗本先手役に抜擢されており、旗本部隊の将となります。
永禄12年(1569年)、鳥居元忠は今川方の掛川城攻めに参じて開城させています。
元亀元年(1570年)、鳥居元忠の父が亡くなります。
鳥居忠元の長兄は既に亡くなっており、次兄は出家していた為、忠元が家督を継承します。
一方、家康の同盟相手である織田信長は、北近江の浅井長政・越前の朝倉義景と対立していました。
元亀元年6月28日(1570年)、織田信長は浅井長政討伐を決め、鳥居元忠を含む徳川軍は織田軍に合流し、浅井軍には朝倉軍が加勢して戦が起きています(姉川の戦い)。
姉川の戦いでは、徳川軍の榊原康政の活躍もあり、織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉連合軍を敗走させています。
武田氏との戦で負傷する
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにも鳥居元忠は参じ、武田信玄率いる武田軍を迎え撃ちますが、徳川軍は有力な家臣を多数失い壊走しています。
その後も武田軍は進軍しますが、元亀4年(1573年)に武田信玄は病没し、武田勝頼が家督を相続しています。
天正3年(1575年)、大軍を率いた武田勝頼は、三河国に侵入し徳川方になった長篠城を攻めます。
長篠城を救援したい織田・徳川軍は、長篠城手前の設楽原に着陣し、武田勝頼率いる武田軍と決戦になります(長篠の戦い)。
長篠の戦いにも従軍した鳥居元忠は、石川数正とともに馬防柵を設置したり、武功を挙げたと言われています。
長篠の戦いで、織田信長は3,000丁もの鉄炮を用意したとも言われています。
鉄炮の数には異論もありますが、いずれのせよ、織田・徳川軍は武田軍に大勝し、以降、徳川軍は反攻に転じています。
同年、鳥居元忠は武田方の諏訪原城攻めに斥候(偵察)として参じたとも、先鋒を務めたとも言われています。
攻防の末、徳川軍は諏訪原城を奪取し、今川氏真を名目上の城主にしています。
ですが、鳥居元忠は諏訪原城攻めにおいて銃撃され、左の股を負傷しています。
左足に障害が残ってしまい、家康の前でも正座できなくなったそうです。
天正9年(1581年)、武田軍に占領されていた高天神城攻めに元忠も参じ、高天神城は落城しています。
郡内(小山田氏旧領)を拝領する
天正10年(1582年)、織田軍の甲州征伐攻めにて甲斐武田氏は滅亡し、同年に明智光秀によって織田信長は討たれました(本能寺の変)。
武田氏の旧領で織田信長の遺領である領地を巡り、徳川家康と相模の北条氏直や越後の上杉景勝が対立しています。
鳥居元忠は家康の背後を狙っていた北条氏忠・北条氏勝軍を三宅康貞・水野勝成らと共に襲撃しています。
鳥居元忠らは、約300の北条勢を討ち取ったと言われており、勝利しています。
その後、徳川氏と北条氏は和議を結び、その証として北条から徳川に人質が送られてきました。
ですが、人質は不要との家康の判断により、鳥居元忠は榊原康政・水野勝成と共に人質を送っています。
戦後、徳川家康は鳥居元忠に「汝が武勇をもって取得たる地」であるとして、甲斐国郡内地方(山梨県都留市など)を与えています。
鳥居元忠は岩殿城を拠点とした後に、谷村城に入っています。
郡内領は、武田氏家臣の小山田氏が支配していた土地で、北条氏との国境でもあったため、重臣である鳥居元忠が置かれたと見られています。
鳥居元忠は家康の一家臣ではありますが、元忠の了解なしに領内の統治が決められないなど、一定の権限が認められています。
第一次上田合戦で敗北
天正13年(1585年)、徳川家康は、武田氏の旧臣で徳川氏に属していた真田昌幸が上杉景勝に通じたとして、真田討伐を起こします。
鳥居元忠は、大久保忠世・平岩親吉らと共に約7,000強の兵を率いて、真田氏の拠点・上田城を攻めます(第一次上田合戦)。
上杉の援軍を含めた真田勢は約2,000と見られており、数で勝る徳川軍ですが約1,300人もの犠牲者を出し撃退されています。
豊臣秀吉の沙汰を固辞する
天正14年(1586年)、豊臣秀吉に臣従することを表明した徳川家康は、上洛して正三位に叙されます。
徳川家康の功臣も多く叙任され、鳥居元忠にも沙汰があったそうですが、「殿下(秀吉)の御前に出仕すべき器にあらず」として固辞したと言われています。
更に、豊臣秀吉は鳥居元忠の子である忠政に滝川雄利の養子となって秀吉に仕えるよう命じたそうです。
鳥居元忠は、忠政の正室に滝川雄利の養女を迎えましたが、養子になり秀吉の家臣になることは断ったと言われています。
小田原征伐では岩槻城(白鶴城)攻め
天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、小田原の北条氏を攻めます。
徳川家康の他にも、前田利家・織田信雄・長宗我部元親・上杉景勝などの大名も参じています。
鳥居元忠も小田原征伐に参加し、北条方の城である岩槻城(白鶴城)攻めに参じています。
秀吉と親戚関係にある浅野長政が岩槻城攻めの責任者となり、鳥居元忠は本多忠勝らと共に岩槻城を攻めます。
岩槻城主や主力は、北条氏の本拠・小田原城に籠城した為、付家老である伊達房実らが岩槻城に籠っています。
戦力で勝る豊臣軍は、岩槻城を降伏に追い込み開城させています。
家康加増移封により矢作城4万石を領する
その後、小田原城も開城し、北条氏は降伏しています。
同年、徳川家康は北条氏の旧領国を与えられ、関八州に加増移封となり関東250万石の大大名となっています。
鳥居元忠は、下総国矢作城4万石を与えられており、これは徳川四天王や大久保忠世に次ぐ高禄です。
常陸国の佐竹義宣や東北の諸大名が南下した際の抑えとして配置されたと思われます。
矢作城(大崎城)に入城した鳥居元忠ですが、狭かったようで岩ヶ崎へ新城を築いて移住しています。
鳥居元忠は、本格的に岩ヶ崎城を築城し始めますが、完成することなく廃城になっています。
伏見城を任される
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去します。
生前秀吉は、五大老・五奉行によって豊臣秀頼を補佐する体制を整えていましたが、五大老筆頭と目された徳川家康の影響力が強まります。
豊臣政権の武断派(加藤清正や福島正則ら)と言われる武将と、いわゆる文治派(石田三成ら)との対立が表面化していきます。
五大老の上首の地位であった前田利家が対立の仲裁をしていましたが、慶長4年(1599年)に利家が没し、豊臣政権内で対立が深まります。
また、秀吉の遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、伏見城には留守居役として徳川家康が入っています。
慶長5年(1600年)、五大老の一人で会津の上杉景勝が武器を調達したり、兵糧を蓄えているとの情報が家康の元へもたらされます。
まるで戦の準備をするかのような上杉家に対し、徳川家康方から弁明や上洛して陳謝するよう要求されました。
ですが、上杉家の家老・直江兼続が反論などを記したという「直江状」が返書として徳川方に届きます。
徳川家康は会津の上杉景勝の征伐を主張し、豊臣政権の奉行である前田玄以・増田長盛・長束正家の諌止を押し切って出立しています。
鳥居元忠は、上杉征伐には加わらず伏見城の守備を命じられています。
伏見城にて徳川家康と今生の別れ
徳川家康が上方を離れれば、家康に不満を持つ者が挙兵するだろう。
そうなれば、上方での徳川の拠点となっている伏見城は攻められます。
徳川家康は鳥居元忠に対し長年の忠勤を労い、主力は会津へ向かう為、伏見城に十分な兵を残せないことを詫びたと言われています。
鳥居元忠は「もし戦があれば、 近国に後詰めはないので、城を枕に討死の覚悟でござる。人数を残していただいても、落城は必至でござろう。殿、未練でござるぞ。」と言い、伏見城に残る3,000人の兵を1,800人に減らさらせたそうです。
徳川家康は伏見城に泊まって、鳥居元忠と夜遅くまで酒を酌み交わし、人質時代の思い出などを語り合ったと言われています。
これが、鳥居元忠と徳川家康の今生の別れになりました。
伏見城の戦いと最期
徳川家康が東国へ向かうと石田三成・大谷吉継らが家康に対して挙兵し、毛利輝元は安国寺恵瓊の説得を受けて三成方(西軍)の総大将に就いています。
また、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署で家康の罪状を追及した『内府ちがいの条々』が諸大名に送られています。
『内府ちがいの条々』では伏見城の状況を、「太閤様(秀吉)が命じた伏見城の留守居役を追い出し、私兵を入れ占拠した」と糾弾しています。
こうして、伏見城に籠城していた鳥居元忠は、西軍についた小早川秀秋・島津義弘・宇喜多秀家らに攻められ、関ヶ原の戦いの前哨戦が起きます(伏見城の戦い)。
その後、伏見城攻めに毛利勢が加わり、石田三成の軍勢も合流してり、総勢で約4万の大軍になっています。
一方、鳥居元忠率いる徳川軍は、松平家忠・内藤家長・松平近正ら、城兵1,800人に500名が加わり2,300名だと言われています。
伏見城の徳川軍は、討死覚悟で西軍の大軍を迎え撃ちます。
石田三成から降伏勧告の使者が鳥居元忠に送られてきますが、斬殺して亡骸を送り返しています。
鳥居元忠ら伏見城方は、多勢に無勢ですが、戦意が高く激しく抵抗しています。
そこで、長束正家が一計を案じ、伏見城にいる甲賀衆に妻子の安全と恩賞を引き換えに寝返らせ、伏見城内に火を放ち落城に至ったようです。
また、小早川秀秋の内通勧告に江州永原の者が応じ、伏見城に火をつけた旨書いてある書籍もあります。
鳥居元忠の最期は、雑賀衆の頭領・鈴木重朝(孫市)との一騎討ちに敗れて亡くなったとなっています。
享年62歳。
また、徳川家康は、会津へ向かう途中の下野国小山で、鳥居元忠の急使によって、石田三成らが挙兵したとの知らせを受けており、上杉征伐は中止になっています。
鳥居元忠は13日間戦い続けていますが、徳川家康が引き返してくるまでの時間を稼いでいます。
鳥居元忠は晒し首にされた後に、交友のあった商人・佐野四郎右衛門によって知恩院に葬られたと言われています。
鳥居元忠のお墓は、京都の万遍知恩寺(知恩寺)、福島県の長源寺にあります。
血天井
鳥居元忠の忠義は、大久保忠教が「三河武士の鑑」と賞賛しています。
伏見城の大半は焼失しましたが、血染め畳や床板が残っていたと言われています。
後に、江戸城に登城した大名らは、頭上に血染め畳を見ることになります。
鳥居元忠の忠義を称えた徳川家康が、江戸城の伏見櫓に血染め畳をおいた為です。
やがて、明治維新により、江戸城が開城すると血染め畳は鳥居家に下げ渡され、鳥居元忠を祀る精忠神社に埋められ「畳塚」として残っています。
一方、伏見城の血痕がしみ込んだ床板は、供養の為に寺の天井に「血天井」として貼られています。
京都の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵・興聖寺などに「血天井」として現存しています。
鈴木重朝(孫市)の厚意
鳥居元忠を討ち取った鈴木重朝(孫市)は、鳥居元忠所用の「糸素縣縅二枚胴具足」と刀剣を手にしていました。
鈴木重朝(孫市)は、鳥居元忠の次男である忠政に返還を申し出たところ、忠政は泣いて喜び拝礼したそうです。
鈴木重朝(孫市)の厚意に感銘した忠政は、重朝に譲ったとの逸話があります。
後に、「糸素縣縅二枚胴具足」は鈴木家から大阪城天守閣に寄贈されています。
鳥居元忠の家紋
鳥居元忠の家紋は、竹に雀を添えた「鳥居笹」です。
鳥居笹は竹紋の一種で、イネ科の植物である竹を図案化した家紋です。
因みに、竹は神聖な植物とされています。
鳥居笹は、竹紋の中でも「竹に雀紋」に細部類されることがありますが、その形状から「二本竹の雀」との呼称があります。
また、鳥居笹の鳥居は、名字「鳥居」を象っており、鳥居笹は鳥居氏の独占紋になります。
鳥居元忠の旗紋は、同じく名字「鳥居」を象り鳥居を使用したそうです。
『寛政重修諸家譜』によると、鳥居元忠は「鳥居鶴の丸」という家紋も使用しています。
鳥居鶴の丸は、丸に鶴の丸という家紋に似ていますが、鳥居鶴の丸の方が羽が丸みを帯びている箇所があります。
鳥居元忠が鳥居鶴の丸を使用した由来は分かりませんが、鶴は長寿の象徴で、縁起の良い鳥として家紋に用いられています。
鳥居元忠の子孫
《壬生藩鳥居家》
鳥居家の家督を継いだ鳥居忠政は、元忠の戦功により磐城平藩10万石を拝領し、後に山形藩22万石(24万石とも)に加増されています。
鳥居家は譜代の中でも彦根の井伊家に次ぐ高禄を食んでいました。
しかし、鳥居忠政の跡を継いだ鳥居忠恒は、不徳により所領没収となりました。
ですが、祖父(鳥居元忠)の功績を考慮して信濃高遠藩3万石に減封し、鳥居忠春(鳥居忠恒の弟)が跡を継いだ為、断絶を免れています。
その後、鳥居忠春の長男・忠則(鳥居元忠の玄孫)の不行跡として改易されましたが、鳥居元忠の家系とのことで、特別に忠則の次男・鳥居忠英に能登下村藩1万石が与えられています。
大名として家名を存続できた鳥居忠英は、近江水口に1万石加増移封を経て、更に加増移封され下野壬生3万石を領しています。
その後、途中何度か養子を迎えていますが、鳥居元忠の子孫です。
幕末、鳥居忠宝は新政府側について旧幕府軍と戦っています。
鳥居忠宝の跡を継いだ鳥居忠文は、岩倉使節団の一員としてアメリカに留学しています。
その後、ハワイ王国領事に就任したり、貴族院議員に選出されるなど活躍しています。
鳥居元忠→鳥居忠政(山形藩の初代藩主)→鳥居忠恒(山形藩の第2代藩主)→ 鳥居忠春(信濃高遠藩の初代藩主)→ 鳥居忠則(信濃高遠藩の第2代藩主)→鳥居忠英(下野壬生藩の初代藩主)→鳥居忠瞭(下野壬生藩の第2代藩主)→鳥居忠意(下野壬生藩の第3代藩主)→鳥居忠燾(下野壬生藩の第4代藩主)→鳥居忠威(下野壬生藩の第5代藩主)→鳥居忠挙(下野壬生藩の第6代藩主)→鳥居忠宝(下野壬生藩の第7代藩)(知藩事)→鳥居忠文(下野壬生藩の最後の藩主)(知藩事)
《鳥居成次》
また、鳥居元忠の三男・成次について、関ヶ原の戦い当時のエピソードが残されています。
関ヶ原の戦いで敗北した三成は、徳川方に生け捕りにされ、父の仇として鳥居成次に預けられています。
しかし、鳥居成次は石田三成を恨んでいる様子はなく、衣類を与えて手厚くもてなしたと言われています。
石田三成は、涙を流して鳥居成次の厚意を感じたという話が残されています。
その後、鳥居成次は、徳川秀忠の次男・忠長に仕え3万5000石を拝領しています。
ですが、寛永8年(1631年)5月には、徳川忠長は蟄居処分となり、同年6月に鳥居成次は亡くなっています。
鳥居成次の長男・忠房は、徳川忠長の附家老を務めていましたが、忠長の改易に連座して改易されています。
山形に蟄居した後に許され、子孫は2,500石を拝領したそうです。
《大石内蔵助》
鳥居元忠の四男・鳥居忠勝は水戸藩士になっています。
鳥居忠勝の娘は、赤穂藩浅野家の筆頭家老であった大石良欽に嫁いでいます。
夫婦は大石良昭ら7人の子供に恵まれており、良昭の長男が大石良雄です。
大石良雄は、大石内蔵助という別名で知られており、播磨赤穂藩の筆頭家老を務めた人物です。
大石内蔵助は、年末などに話題になることがある「忠臣蔵」という作品に登場しています。
大石内蔵助の主君・浅野内匠頭が江戸城本丸大廊下にて吉良上野介を斬り付け、内匠頭が切腹処分になり、赤穂藩の改易も決まります。
吉良上野介には処罰はなかった為、大石内蔵助らが吉良邸に討ち入りして吉良を討ち取り、主君の仇討ちをしています。
この一連の事件は赤穂事件と呼ばれ、忠臣蔵の題材となっています。
大石内蔵助は鳥居元忠の子孫となります。
鳥居元忠→鳥居忠勝→鳥居忠勝の娘→大石良昭→大石内蔵助(大石良雄)
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