石田三成と嫌煙の仲として知られる加藤清正(きよまさ)、関ケ原の戦いでも敵同士になってしまいました。

何故対立するようになったのでしょうか。

加藤清正の経歴を追いながら石田三成との接点について記載しています。

 

加藤清正の経歴

加藤清正の肖像画

加藤清正

1562年、尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)に土豪の子として、加藤清正は生まれます。

石田三成は1560年、福島正則(まさのり)は1561年生まれで同世代になります。

幼名は虎之助(とらのすけ)で、清正の母は、羽柴秀吉の生母である大政所の従姉妹(いとこ)(または、縁戚)と伝わり、その縁で幼少から秀吉に近侍したとされます。

1583年の賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤嘉明(よしあきら)らと共に、「賤ヶ岳の七本槍<しずがたけ の しちほんやり>」の一人として3,000石の加増を受けます。

以後も数々の武功を立て、1585年従五位下(じゅごいげ)・主計頭(しゅけいりょう)(税収を把握・監査する職)に叙任し、1586年、肥後(ひご)(熊本県)北半国19万5,000石を任せられる大名に出世し、隈本(後に熊本)城の主にのし上がります。

また、加藤清正は築城の名手と知られ熊本城や名護屋城などの築城に携わっています。

 

加藤清正の朝鮮出兵

石田三成と袂(たもと)を分かつ直接の原因となった文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)(朝鮮出兵)でも、清正は渡海して数々の戦功を挙げます。

清正は朝鮮の民衆から「鬼(幽霊)上官」と恐れられるほど奮戦し、その名を朝鮮国内でも轟かせます。

清正の猛々しさを伝えるためか、朝鮮出兵で虎退治をした逸話があり、現代でも広く知られています。

加藤清正の虎退治の絵

加藤清正 虎退治

しかし、黒田長政(ながまさ)の逸話を、後の世で清正の逸話にすりかえられたもので真実ではありません。

 

清正と三成の対立

文禄の役(朝鮮出兵の前半戦)で、一番隊、三番隊が苦戦する中、加藤清正が率いていた二番隊は敵軍が少ない地であったため、順調に進軍できたとされます。

一番隊、三番隊の苦しい戦況が伝わる、日本国内では清正の報告は虚偽ではないのかと疑いを持つようになります。

清正はこれに反発し、一番隊を率いていた小西行長(ゆきなが)と、朝鮮奉行として日本と現地の取次役であった石田三成らと対立するきっかけになったとされています。

加藤清正と小西行長は、領土が接しているため、何かと利害関係で対立しやすく、清正が行長を疑ったのではないかとする説もあり、この遺恨が関ケ原の戦いにおける清正の態度を決めたとも言われています。

加藤清正と石田三成は、仲が悪かったとされますが、朝鮮出兵より以前に仲が悪かったとする一次史料はありません

それは、同じく仲が悪かったと伝わる福島正則(まさのり)、徳川家康も同じです。

この朝鮮出兵では、朝鮮と和議を結びたい石田・小西ら奉行衆と、豊臣秀吉の命令通りに戦い続けたい加藤清正らとで対立することになりますが、1598年に秀吉が没し、朝鮮出兵は終了します。

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朝鮮出兵についてはこちらの記事に記載しています。

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石田三成と朝鮮出兵

清正が家康に接近

秀吉没後の清正は、徳川家康に接近し、家康の養女を継室に迎えます。

そして清正は、黒田長政(ながまさ)、福島正則、細川忠興( ただおき)、浅野幸長(よしなが)らと共に「石田三成襲撃事件」を起こします。

しかし、三成暗殺に失敗すると更に家康に接近したとされます。

 

加藤清正の関ケ原の戦い

清正は、関ケ原の戦いの本戦には参加していませんが、九州において西軍の小西行長の宇土(うと)城、立花宗茂(むねしげ)の柳川(やながわ)城を包囲し、後に開城させています。

九州は三成方の大名が多く劣勢の中、名に恥じない働きをみせます。

 

肥後の大大名となる

こうした戦功により、戦後は肥後一国を与えられ、52万石の大大名となります。

ですが、決して豊臣家への恩を忘れたわけでなく、江戸参勤の途中に必ず秀頼を訪ねることを、本多正信(ほんだ まさのぶ)に暗に咎められた時も、

「肥後一国を領してくれた徳川家に感謝するのはもちろんだが、自分は秀吉の温情で成人したようなものなので、その恩を忘れるような士風をとることはできない」

と少しも悪びれなかったと伝わります。

 

二条城会見

豊臣家恩顧の家臣の説得により、1611年3月に家康と秀頼が二条城(にじょうじょう)で会見することになります。

秀頼には、片桐且元(かたぎり かつもと)、織田長益(ながます)、片桐貞隆(かたぎり さだたか)、大野治長(はるなが)、その他30人ほどが同行し、家康は、九男・徳川義直(よしなお)と十男・徳川頼宣(よりのぶ)、浅野幸長、加藤清正、池田輝政(てるまさ)、藤堂高虎(とうどう たかとら)などが同行します。

浅野幸長と加藤清正は、いずれも豊臣家の一門衆で秀吉の子飼い大名であり、池田輝政は豊臣一門に準じて遇された方です。

福島正則も、豊臣家の一門衆で秀吉の子飼い大名とされる方です。

正則も同席する予定でしたが、病のため欠席しています。

秀頼方として同行したのではないですが、清正らが同席したことは、秀頼も安心できたのではないかと思います。

この時、清正は徳川家康の十男・頼宣(加藤清正の娘と婚約中)の護衛役であったとされています。

また、九男・義直は、後に浅野幸長の娘を娶ります。

豊臣家が頼りにできる豊臣恩顧の武将らは、家康方として参加をしている点も興味深いですね。

個人的な意見ですが、当時10歳の義直と、9歳の頼宣を参加させたのも、後に舅となる幸長、清正との関係を豊臣家に見せつける意図があったかもしれません。

 

加藤清正が死去

無事に会見は終了しますが、清正は帰途の途中の船内で発病して熊本で没し、後に浅野幸長も没します。

清正、幸長は豊臣家の行く末を案じていたとされ、また、清正・幸長の両名が同じ病気で急死したた為、徳川家による毒殺説があるそうです。

加藤清正は没年は1611年8月2日ですが、浅野幸長は1613年10月9日なので少し間があるように思えますが…。

また幸長の父・浅野長政も豊臣恩顧の大名ですが、1611年5月29日に亡くなっており、池田輝政も1613年3月16日に亡くなっています。

加藤清正は熊本へ帰る途中の船で、口もきけない程悪くなり、その後も回復せず亡くなったそうです。

先ほどまで護衛してた中、急変ぶりに毒を盛られたのは有り得そうに思えますが、徳川家から豊臣家との仲介役として期待されていたとの説もあり真実は不明です。

 

豊臣家滅亡

そして約3年後、大阪の陣が勃発し豊臣家は滅亡します。

夏の陣の時に、生き残っていた豊臣恩顧の武将は、福島正則のみで豊臣家から加勢を求められますが断ります。

(3年前なら、豊臣恩顧の有力武将が生きていたのに)3年遅かったと嘆いたとする逸話があります。

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清正は関ケ原の戦いで何故三成と敵対したのか

 

加藤清正は、関ケ原の戦いで何故、三成側につかなかったのかと疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。

三成ら奉行衆との対立が原因とする説が有力ですが、「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣vs豊臣」の戦いであると認識していていたのかもしれません。

豊臣政権内での対立であり、豊臣秀頼と徳川家康の戦いであるとはっきりとしていたら、加藤清正など秀吉の子飼い武将は、徳川家康につくことはなかったかもしれません。

結果から見れば、関ケ原の戦いで徳川家康の勝利に貢献してことで、徳川家の天下になりましたので、豊臣家への裏切りともとれます。

秀吉の子飼いで、家康に見方をした武将が沢山いたこともあり、勝手な予想ですが、後々も豊臣家に危害を加えないなど約束があった可能性もあるかなと思っています。

ただ、個人的な意見ですが、下剋上の世でしたので、家康の野心には気がついていたと思います。

 

下剋上は悪なのか

下剋上が「悪」と見なされるようになったのは、江戸時代の安定期に入ってからとされています。

鎌倉時代以降、武士の世界は「御恩」と「奉公」という主従関係があり、戦国時代にも「御恩」という考えはありましたが、時は下剋上の世の中、相手が主筋であっても、強い者が取って変わるのは当たり前でした。

現代のように、忠義は「正義」とみられるようになったのは、徳川家康が徳川家の天下が続くよう下剋上の世を終わらせようと、藤原惺窩 (ふじわらせいか)の弟子である林 羅山(はやし らざん)によって、諸侯に儒学を浸透さたためといいます。

諸侯が直ぐに下剋上の考えから脱却するのは難しく、徳川家光の時代に儒学の考えが浸透したそうです。

戦国時代の背景を考えると、加藤清正は、秀吉が信長亡き後に豊臣家の天下を築いたように、徳川家の天下になっても豊臣家が存続できるなら、それでも仕方ないと思っていたのかもしれません。

 

また、三成や兄の石田正澄は藤原惺窩 (ふじわらせいか)の儒学に傾倒したと伝わります。

儒学の教えに従ったことが、三成が豊臣家の天下を諦めなかった理由の一つでしょうか。

徳川家康も藤原惺窩から儒学を学んでいますので、三成が豊臣家を守るために決起した心情は理解できたと思います。

理解できたから、徳川家自ら保護した三成の遺児がいたのではないでしょうか。

 

三成の遺児についてはこちらから

👇

石田三成の正室・側室の子供~まとめ編~

 

関ケ原の戦いで、福島正則が家康方についたのは何故か、見解を記事にしています。

清正もこの福島正則の理由と殆ど同じに思います。

記事はこちらです。
👇

石田三成と福島正則~関ケ原の戦いで何故、敵対したのか~

 

江戸時代の清正の逸話

 

福島正則が、家康の九男・徳川義直(よしなお)の居城となる、尾張名古屋城の普請を命じられたとき

正則:「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対し

清正:「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。

 

このような有名な逸話があります。

どこまで真実かわかりませんが、徳川家に逆らいたくても逆らえない様子が伝わってきます。

清正は、徳川家康を恐れていたとも伝わりますし、豊臣家への恩義と徳川の世で加藤家を存続させなくてはならず、苦しんでいたのではないでしょうか。

 

加藤家改易

加藤家と豊臣家の安泰を願っていたことと思いますが、清正の死後、三男・忠広(ただひろ)が跡を継いだもの加藤家は改易になり、堪忍分1万石を与えられて出羽庄内藩(でわしょうないはん)(山形県)に配流(はいる)にとなり、妻である徳川秀忠の養女(徳川家康の孫)は京都で暮らしたそうです。

改易理由は諸説ありはっきりしませんが、豊臣氏恩顧の有力大名のため、徳川家に警戒された為とも言われています。

 

 

加藤家改易後の肥後(熊本)

加藤家旧領の次の領主は、細川忠利(ただとし)でした。

加藤清正は農地開拓などにより、領民の生活を豊かにしたことから、とても領民に慕われていましたので、その土地の領主になることはプレッシャーもあったかもしれません。

細川忠利は、清正の位牌 (いはい)を先頭にかざして、清正の旧領である肥後に入ったと伝わります。

また、熊本城に入る際も「あなたの領地をお預かりします」と言って、清正の廟所(びょうしょ)に向かって拝礼し、終始清正を敬う態度を示したそうです。

 

後の江戸時代中期頃には、清正は「清正公(せいしょこ)さん」と尊称、神格化され、現代でも熊本県中心に絶大な人気があります。

 

石田三成と黒田長政は不仲か~羽織の話とは~

 

石田三成と黒田官兵衛は不仲であったのか

 

参考・引用・出典一覧

 

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