石田三成の次男・石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽へ逃れました。
そして、杉山源吾と改名し、深味村に隠棲したそうです。
杉山源吾(石田重成)の生涯、子孫について書いています。
関ケ原の戦いの時の石田重成
石田重成は、石田三成の次男で生母は正室・皎月院です。
生れた年は、定かではありません。
寛永18年(1641年)、享年53歳という記録があるそうです。
数え年だとしたら、天正17年(1589年)生まれということでしょうか。
通称は隼人正か木工頭、別名で吉成などが知られています。
石田重成の幼少期のことは分かりません。
慶長4年(1599年)、豊臣秀頼に小姓として仕えたそうです。
秀頼の小姓として順風満帆な人生だったかもしれません。
しかし、慶長5年(1600年)に関ケ原の戦いが起き、父・三成が敗北したことで重成の人生が大きく変わってしまいます。
関ケ原の戦い後、三成の居城である佐和山城落城を知ると、重成は大坂から逃れたと云います。
この時、石田重成を助けてくれたのは、津軽信建です。
三成が懇意にしていた弘前藩主・津軽為信の長男で、三成が烏帽子親も務めていました。
津軽信建自身は京や大坂に留まりましたが、石田重成、津山甚内らを若狭国からの蝦夷貿易ルートで津軽へ逃しています。
津山甚内とは三成の家臣で、甚内の娘が重成の乳母 を務めたという間柄です。
石田重成を保護した津軽為信
この先の石田三成の子供や子孫の多くは、弘前藩・津軽家に支えられ生きていきます。
ここで、石田三成と津軽為信の関係について記します。
豊臣秀吉が天下を治めようとしていた頃、津軽家は南部家と領土問題で対立していました。
津軽為信は豊臣秀吉に征伐の対象にされかけてしまい、お家の危機を迎えますが、石田三成などの執り成しにより危機を免れます。
一方で、同じように南部家と対立していた九戸(くのへ)家は、一家で滅ぼされてしまいました。
このような経緯で、三成は津軽家の恩人として感謝され、長男・津軽信建の烏帽子親は石田三成が務めたそうです。
また、後の話ですが、石田三成の三女(辰姫)が津軽為信の跡継ぎに嫁ぎ、弘前藩三代目藩主(津軽信義)の生母となっています。
その縁もあり、三成子孫は津軽家から支援を受けています。
木造豊太閤坐像
弘前城内には、江戸時代には開けることのない開けずの宮があったそうです。
後に明治時代を迎え、ようやく開かれた開けずの宮には、木造豊太閤坐像が秘かに祀られていました。
石田重成が献上したものと伝わります。
津軽家は徳川の世になっても、津軽家を大名として認めてくれた豊臣秀吉に感謝し、秘かに座像を祀っていたそうです。
開けずの宮に秘かに祀られていた木造豊太閤坐像は、現在では津軽為信の菩提寺である革秀寺(かくしゅうじ)に安置されています。
津軽家は恩のある石田三成の子供を必死に守ってくれた家でもあり、津軽家の義理堅い一面が見えるように思います。
石田重成から杉山源吾に改名
石田重成の兄(石田重家)と弟(佐吉)は、出家して助命されています。
しかし、石田重成は、逃げ延びましたので、堂々と暮らせなかったようです。
大坂から逃げ延びた重成は、杉山源吾と改名し、深味村(現在の北津軽郡板柳町)に隠れ住んだと云います。
杉山源吾(石田重成)の随行者は、一説には総勢21名(男18、女3)と伝えられ、この中の多くの人達は、深味周辺に住み、開拓に従事したそうです。
杉山と名乗った経緯について、秀吉が三成の戦歴を賞し、肌着の守護神を授けた場所が、近江の国杉山(現在の甲賀郡信楽町杉山)であったことから、ゆかりの地名を名乗ったそうです(『みーな これぞ石田三成』)。
また、石田重成は杉山八兵衛と改名し、津軽家の侍大将になったともいう説もあるようです。
因みに、八兵衛は杉山源吾(石田重成)の長男(杉山吉成)と同じ通称で、杉山八兵衛(吉成のこと)は侍大将になっています。
その後、杉山源吾(石田重成)は三人の男の子に恵まれます。
正室の朽木氏が上二人の子の生母で、次男誕生間もなく亡くなったそうですが、どの書籍に書いてあったか分からなくなりました。
分かったら追記します、ごめんなさい。
杉山源吾(石田重成)の後妻は、柘植平干左衛門の娘と伝えられていますが、名前、生没年不明です。
いつ後妻を迎えたのかもわかりません。
その後の杉山源吾(石田重成)の足取りは定かではありません。
慶長15年(1610年)4月28日に亡くなったという説もありますが、先に述べたように寛永18年(1641年)に53歳で死去した説もあります。
重成(源吾)と辰姫
杉山源吾(石田重成)が亡くなったとされる時期に、津軽家にとって大きな出来事がありました。
慶長15年(1610年)頃、杉山源吾(石田重成)の妹で三成の三女である辰姫が、弘前藩2代藩主・津軽 信枚に正室として輿入れしました。
杉山源吾(石田重成)が亡くなったとされる時期と、辰姫が輿入れした時期が、ほぼ同じ位ではないかと推察できます。
義理堅い津軽家が、兄の杉山源吾(石田重成)が亡くなった頃に、結婚の儀を行うのは不自然にも感じます。
つまり、杉山源吾(石田重成)は亡くなったことになっていますが、辰姫の側役を任されていたのではないかとも考えられます。
慶長18年(1613年)、徳川家康の養女・満天姫が津軽信枚に輿入れし、辰姫は側室に降格になります。
辰姫は、津軽家が関ヶ原の戦いの功績で得た飛び地である上州大館(現在の群馬県大田市尾島町)に移されます。
上州大館に兄の杉山源吾(石田重成)も付き添っていた可能性があるのではないかと思います。
また、『奥羽・津軽一族』によると、慶長15年(1610年)、杉山源吾(石田重成)は津軽の隠棲地(深味)から上州大館に移されているそうです。
この後、満天姫により幽閉状態の生活を送ることになった辰姫は、32歳の若さで没します。
杉山源吾(石田重成)江戸へ
辰姫が亡くなった後の、杉山源吾(石田重成)は、後妻となった拓植氏との間に生まれた3男の成保とともに、津軽家から400石の合力米を支給されて、江戸早稲田に移り住んだとも伝わります。
新宿区早稲田町の建勝寺の過去帳に、杉山源吾の戎名である「道光院殿覚扇了関大居士」の名が残っているそうです。
これは、やはり生きていたのかなと思いましたが、戒名が同じで別人の方の可能性もあるのでしょうか?
分かりません。
豊臣の姓が刻まれる
また、杉山家の菩提寺は、弘前市にある宗徳寺だそうですが、その墓には豊臣の姓が刻まれています。
石田三成が豊臣姓を名乗ることを許されていたという記録はないですが、豊臣姓が与えられたと伝えられているそうです。
因みに、石田三成の兄・正澄は、豊臣姓を下賜されています。
杉山源吾(石田重成)を初代とする、杉山家の2代目から11代目までの明治より前の墓標には、「豊臣」の文字が刻まれています。
杉山源吾(石田重成)自身のお墓は、お墓らしきものはあるそうですが、よくわかりません。
徳川家から隠れて暮らしましたので、堂々とお墓が建てられないのかもしれません。
重成(源吾)の謎
杉山源吾(石田重成)は、謎の多い人物で未だに分からないことが多くあります。
この謎の理由は、三成の3人の女性の子供を、三成の子でなく杉山源吾(石田重成)の子と偽り、素性を隠す為の隠蔽工作を行ったことが、大きな原因だそうです(『石田三成の生涯』)。
杉山源吾(石田重成)の杉山家、山田家(三成長女の嫁ぎ先)、岡家(三成次女の嫁ぎ先)、津軽家(三成三女の嫁ぎ先)、共に杉山源吾の子とする為、家系図の改ざんがされていたそうです。
なので、子孫の方が家系図等を見ても、分かりずらいようです。
それにしても、杉山源吾(石田重成)は素性を隠し、ひっそりと暮らしていますので、大変だったことは容易に想像できます。
せめて、津軽家の飛び地である上州大館の地で、家族と辰姫と幸せに暮らした時があって欲しいと願います。
石田重成(杉山源吾)の子孫
杉山源吾(石田重成)の子孫についても記しておきます。
先に述べましたが、杉山源吾(石田重成)は、三人の男子に恵まれます。
前妻との間に長男・杉山吉成、次男・石田掃部を授かっています。
後妻との間に三男・杉山成保(嘉兵衛)がいますが、長男以外のことは分かりません。
嫡男の吉成は、弘前藩主・津軽信枚の娘を正室に迎えています。
この縁もあってでしょうか、この先の吉成の家系は、幕末まで弘前藩の家老や重臣として続きます。
また、杉山吉成は、「早道之者」(はやみちのもの)という忍者集団を結成し、吉成の子孫は忍者を統率していたと云われています。
杉山吉成の次男は武助豊臣(ぶすけ とよおみ)というそうですが、満天姫の曾孫と結婚します。
満天姫は徳川家康の養女ですので、徳川家の縁者との結婚です。
改名までして暮らさなければならなかった重成(源吾)ですが、子孫は栄ましたね。
重成(源吾)が三成の縁者であると、徳川家も気がついていたようですが、黙認されたようです。
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