明智光秀は、主君・信長を本能寺の変にて自害に追いやったことから「悪」として語られることがあります。

ですが、本能寺の変は明智光秀の「正義」であるとの説もあります。

何故に明智光秀が「正義」の人として語られるのでしょうか。

その所以をみていきます。

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光秀の想い「正義」はこちらにある

明智光秀自身が書いたとされる書状に、本能寺の変を起こした理由のヒントになる言葉が残っています。

日付は本能寺の変の当日である6月2日付けですが、年の記載がありません。

ですが内容から考え、本能寺の変の直後に書かれたものではないかとされています。

その書状は、織田信長の家臣であった西尾光教(にしお みつのり)に宛てたもので、光秀からの寝返りを勧誘をする内容の書状です。

 

『西尾光教宛光秀書状』
信長父子の悪逆は天下の妨げ、討ち果たし候、
其の表の儀御馳走候て、大垣の城相済ますべく候、
委細山田喜兵衛尉申すべく候、恐々謹言。
六月二日          惟任日向守光秀(花押)

この書状には、「信長父子の悪虐は天下の妨げ、だから討ち果たしたのだ」と記されており、「正義」はこちらにある、味方して欲しいということを伝えたいのではないでしょうか。

それでは、討ち果たすのが「正義」と言えるほどの信長の「悪」とは一体何なのでしょうか。

 

 

将軍・足利義昭の追放

複数ある中の一つに、室町幕府第15代・足利義昭(あしかが よしあき)を京都から追放したことがあげられます。

足利義昭の像

足利義昭

義昭追放の過程ですが、信長と義昭はお互いに利用し合う関係であったものの、やがて対立し信長が武力で追い詰めて義昭を追放してしまいます。

一方の光秀は信長と足利義昭の二人に「両属」していた時期があり、信長の家臣であると共に、義昭の近習的な役割も果たしていたとされます。

その後、光秀は義昭と決別し信長と歩む道を選びます。

信長を選んだ光秀ですが、本能寺の変の10日後に出された手紙に驚くことが記されています。

天正10年(1582年)6月12日に光秀が、織田信長に抵抗した雑賀衆(さいかしゅう)の一人である土橋 重治(つちばししげはる)に宛てた書状に、「上意(将軍級の貴人)」が「御入洛」する、つまり京都に入ると記載してあるといいます。

この上意とは、義昭のことであると考えられ(他にいないそうです)、光秀が将軍・足利義昭を奉じて室町幕府の再興を図っていたのではないかとされています。

一度は信長を選んだ光秀ですが、何等かの理由で室町幕府に望みをかけたのでしょうか。

この義昭追放は、室町幕府の再興の有無に関わらず、信長の悪政とされています。

 

比叡山延暦寺の焼き討ち

信長の悪政として名高いものの一つに、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の焼き討ちがあげられます。

信長の比叡山の横領や、比叡山側の浅井・朝倉連合と手を結ぶなどの反信長行動により、比叡山と信長が対立します。

延暦寺の僧兵に脅威を感じた信長が、延暦寺に武装解除を要請するものの、聞き入れられず、延暦寺を焼き討ちにし、信長の非道さを伝える出来事として語り継がれています。

僧俗・児童・智者・上人などの数千人が滅ぼされ、この世のものとは思えない光景だったとされています。

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一向一揆の戦いで多くの門徒を虐殺

天下統一を目指す信長は勢力を伸ばしますが、大坂(阪)には大坂本願寺(石山本願寺)という厄介な敵がいました。

大坂から退去して欲しい信長と拒否する本願寺とで対立し、本願寺の門徒(信者)が立ち上がり「一向一揆<いっこういっき>」として各地で信長と衝突することになり、石山本願寺との戦いを「長島一向一揆<ながしまいっこういっき>」と呼びます。

信長は「長島一向一揆」を鎮圧することに苦労しますが、後に「一長島向一揆」側が降伏を申し出ることになります。

しかし信長は許さず兵糧攻めにし、逃げ出す者は始末され、最後に砦に押し込めて2万人もの人を焼き討ちにしてしまいました。

長島一向一揆以外の一向一揆にも攻め滅ぼした史実が残されています。

信長だけが悪いわけではありませんが、信長の残虐さを物語る話として語られています。

 

その他、家臣であった荒木村重(あらき むらしげ)が謀反を起こし、村重の家族や家臣が惨殺された話などもあります。

これらの残忍な行為を「悪」とし、光秀が「正義」の鉄槌を下したとする解釈もあるようです。

 

 

 

信長が正親町天皇に譲位を要求したとする説

ここからは、信長と敵対勢力の話ではありませんが、光秀から見て許しがたい話であった可能性がある話です。

信長は1570年の朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年の石山本願寺との戦いにおける講和を正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命により実現させたと伝わります。

正親町天皇の肖像画

正親町天皇

何故、信長が天皇の権威を利用できたかというと、信長は権威の落ちかけた朝廷を守る大義名分により、京都を手中に収めたとされていますが、更に逼迫(ひっぱく)した朝廷の財政を信長の援助により回復させるなどしたため、天皇の協力を得られたのではないかとされています。

しかし、1573年頃から正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、信長に疎まれるようになり、何度も譲位を要求されたと『孝親日記』に記載されているそうです。

※正親町天皇が譲位を希望して、信長が反対したとの説もあります。

 

一方の光秀は公家と交流があり、朝廷とも近い存在であったとされており、より一層、天皇に譲位を迫る信長が「悪」として映った可能性が指摘されています。

1579年の宮中の女官の日記に正親町天皇(おおぎまちてんのう)が光秀に馬、鎧(よろい)、掛袋を下賜(かし)した旨の記載があり、朝廷と光秀が近い間柄であった傍証であるとも言われています。

信長を通さずに朝廷から光秀に直接恩賞が与えられたとみなされていますが、この主君の信長を通り越して、直接家臣に恩賞を与えることは異例なことであるといい、信長も立腹した可能性があるようです。

それにしても、何故信長は譲位要求をしたのか、それは信長が「治天の君<ちてんのきみ>」になる為だといいます。

天治天の君とは、天皇家の実権を握った上皇か天皇のことです。

どのように信長が「治天の君」になるかというと、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から子の誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位し、天皇になった誠仁親王から「准三宮<じゅさんぐう>」の待遇を信長がうけて皇族の一員となり、そして誠仁親王から誠仁親王の子である五宮(信長の猶子<ゆうし>)に譲位させるというものだといいます。

五宮が天皇になれば、信長は天皇の義父になり、「治天の君」になれるそうです。

しかし、この計画が実行に移される直前に本能寺の変が起きたため未遂に終わり、このことから、本能寺の変の黒幕として朝廷説が囁かれることになります。

この譲位を迫ったことや「治天の君」になろうとしたことが、光秀には信長の「悪」であると思え、実行される前に「正義」の謀反を起こしたのかもしれません。

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源氏(光秀)が平氏(信長)の将軍任官を阻止した説

信長は天下平定が見え始めた頃から、藤原氏から平氏を称するようになったと伝わります。

この当時、「源平交替思想<げんぺいこうたいしそう>」という平氏と源氏が交互に武家政権を握るという考えが一部で信じられていたそうで、信長もその影響を受けた可能性が指摘されています。

しかし、将軍になったのは全て源氏であり平氏ではおらず、学識のあった光秀もそのことは承知していたことと推察できます。

信長が武田家を滅ぼし、北条家を服従させた頃に、信長が征夷大将軍、太政大臣(だいじょうだいじん)、関白のうちいずれかに任官する提案があったことが、公家の日記である『晴豊公記』に記してあるそうです。

平氏である信長の将軍任官が現実的になっていたようで、異説があるものの光秀は、美濃源氏土岐氏の一族、つまり源氏でありますが、光秀はどのように思ったでしょう。

織田信長が将軍になる可能性がある中、明智光秀は、「平姓将軍の出現は、世の秩序を乱す」として、信長が前例のない平姓将軍に任官しようとしているのを源氏である光秀が阻止したとする説があります。

世の秩序を乱さぬよう、本能寺の変を起こした光秀に「正義」があるという…。

そのようなことで人を自害に追い込んで、全く正義でないように思いますが…、源氏の立場から見たら正義になるのでしょうか。

 

 

暦について朝廷と対立

当時は年号、の決定は天皇が決めるものだったそうですが、信長は口出しをしていたようで、当時の公家の日記には「暦を巡り信長に無理難題をふっかけられている」旨の記載があるそうです。

この暦問題は、天正10年2月から本能寺の変まで信長と朝廷との間で対立しています。

朝廷と対立する信長を退治することは「正義」であるとする説ですが、いかかでしょうか。

 

 

近衛前久への暴言

勢力が衰えた武田氏を滅亡させる戦いである甲州征伐(こうしゅうせいばつ)には、現役の太政大臣である近衛前久(このえ さきひさ)も従軍していたとされています。

公家が従軍するのは異例ではありますが、この遠征は関東見物が主な目的であったため従軍したそうです。

武田家についての書物である『甲陽軍鑑<(こうようぐんかん)>』に、その時の信長と近衛前久の様子が伝わっています。

近衛前久が「私も駿河の方をまわってもよいでしょうか」と馬を下りて信長に尋ねたところ、信長は馬に乗ったまま返事をして暴言をはき、「近衛」と呼び捨てにしたとされています。

信長のはるか上の位である太政大臣に対して無礼であり、光秀の目に信長の「悪」として映ったとする説があります。

ですが、信長と近衛前久は親しい間柄であったとされており、親しみを込めた言葉であり無礼ではないとの説もあり真偽は不明です。

 

 

快川紹喜を焼き討ちにする

快川紹喜(かいせん じょうき)は、武田信玄の招きにより、甲斐武田氏の菩提寺として知られる恵林寺(えりんじ)の僧侶となり、後に正親町天皇から国師号を賜ることになる名僧です。

後の武田家滅亡により武田領内は混乱しますが、快川紹喜は信長に敵対した勢力を恵林寺に匿ったとされています。

当時、寺院は聖域であるとする考えがあったのにも関わらず、信長に恵林寺ごと焼かれ快川紹喜(かいせん じょうき)は焼き討ちしてしまいます。

快川紹喜は美濃源氏土岐氏の一族とする説があり光秀と同族です。

同族で国師号まで賜った名僧を滅ぼされたことが、本能寺の変の原因とも伝わります。

 

謀反人とされた光秀が、正義の人に評価が変わってきている理由は、信長の数々の悪政を阻止したという説が提唱されるようになった為ではないでしょうか。

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参考・引用・出典一覧

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