正義の為に明智光秀は本能寺の変を起こした!?

明智光秀は、織田信長を本能寺の変にて自害に追いやったことから、「悪」として語られることがあります。

ですが、本能寺の変は明智光秀の「正義」であるとの見方もできます。

何故に明智光秀が「正義」の人として語られるのでしょうか。

その所以をみていきます。

目次

本能寺の変は光秀の正義!?

本能寺の変は「正義」であるとするならば、どのような説があるかを見てみます。

明智光秀自身が書いたとされる書状に、本能寺の変を起こした理由のヒントになる言葉が残っています。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)

本能寺の変の絵 出典元:Wikipedia

日付は本能寺の変の当日である6月2日付けですが、年の記載がありません。

ですが内容から考え、本能寺の変の直後に書かれたものではないかと見なされています。

その書状は、織田信長の家臣であった西尾光教(にしお みつのり)に宛てたものです。

「信長父子の悪虐は天下の妨げ、だから討ち果たしたのだ」と記されており、西尾光教に寝返りを勧誘をする内容が書かれています。

西尾光教は光秀の勧誘を拒絶しますが、光秀自身は「天下の妨げ」を討ち取ったのだから、「正義」はこちらにあるとし、味方して欲しいということを伝えたいのでしょうか。

それでは、「天下の妨げ」と言えるほどの信長の「悪」とは一体何なのでしょうか。

「第六天魔王」と自ら名乗ったという織田信長。

戦において多くの残忍な話も伝わっています。

たた、時は戦国時代、何をもって「悪」とするのかは、難しいところでもあります。

また、「正義」も現代人と感覚が違うかもしれず、生き残ることが正義かもしれません。

今回の記事では、信長の悪行として、現在、語られることなどを書いています。

将軍・足利義昭の追放

元亀4年(1573年)、織田信長は、室町幕府第15代・足利義昭を京都から追放しました。

足利義昭

足利義昭 出典元:Wikipedia

足利義昭は織田信長に奉じられ上洛したおかげで将軍になれた方です。

上洛の際、足利義昭に織田信長を仲介したのは、明智光秀だと云われています。

当初は信長に感謝した義昭ですが、やがて信長の対応に不満を持ち、信長と対立しました。

明智光秀は、二人の主君から知行を受け(両属)、信長の家臣であると共に、義昭の近習的な役割も果たしていたとされます。

明智光秀は、対立していた足利義昭と織田信長、両方の家臣でしたので、板挟みになっていたようです。

将軍である義昭に信長は敬意を払っていましたが、やがて信長が武力で追い詰めて、義昭を追放してしまいます。

義昭追放時の明智光秀は、既に義昭と決別して、信長と歩む道を選んでいました。

信長一人の家臣になった光秀ですが、本能寺の変の10日後に出された手紙に、驚くことが記されています。

天正10年(1582年)6月12日、信長に抵抗していた雑賀衆のリーダーである土橋重治(つちばししげはる)に宛てた書状です。

土橋重治の密書の返信と見られています。

土橋重治は、足利義昭と連携していた方ですが、書状には「入京をお受けしました」と書かれています。

書状に、「上意(将軍級の貴人)」、「御入洛」といった貴人に使う言葉が出てくることから、足利義昭の上洛を承諾する内容ではないかと推察できるようです。

信長亡き後、光秀が「上意」という言葉を使う相手は、足利義昭の他にはいないと見られている為です。

可能性の一つとして、光秀が将軍・足利義昭を奉じて、室町幕府の再興を図っていたのかもしれません。

そうすると明智光秀には、義昭追放は、信長の悪政に見えたのでしょうか。

本能寺の変を起こした後で、明智光秀が大義名分を得る為に、義昭の権威を利用したとも見えますが…。

以前、信長が義昭を追放したことを光秀がどう感じたかは分かりませんが、室町幕府の旧臣の多くが光秀の家臣団に組み込まれたことは、光秀にとってプラスであったという指摘はあります。

諏訪飛騨守、伊勢貞興、御牧景重らが、義昭から光秀の家臣になった主だった人物です。

また、本能寺の変当時、足利義昭が身を寄せていた毛利氏側は、本能寺の変直後、正確な情報を得ていないことを考慮すると、義昭と光秀が事前に手を組んでいた可能性は低そうに思います。

比叡山延暦寺の焼き討ち

信長の悪政として名高いものの一つに、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に起きた、比叡山延暦寺の焼き討ちがあげられます。

信長と対立する浅井・朝倉連合と手を組んだ、延暦寺の僧兵に脅威を感じた信長。

延暦寺に武装解除を要請するものの、聞き入れられず、延暦寺を焼き討ちにした出来事です。

比叡山延暦寺

比叡山延暦寺

危険を察知した延暦寺は、黄金の判金300を贈って、攻撃しないように嘆願していますが、明智光秀を実行部隊の中心にして行われました。

僧俗・児童・智者・上人などの数千人が滅ぼされ、この世のものとは思えない光景だったとされています。

 

しかし、織田信長は、最初は戦を回避しようとしていました。

信長は比叡山延暦寺に味方に付いて欲しいと懇願し、もし不可能なら中立を保って欲しいと伝えています。

浅井・朝倉連合と手を組むなら焼き討ちすると書状を出しましたが、返事がありませんでした。

それでも1年待ち、ついに行動に移したのです。

明智光秀は、比叡山延暦寺の焼き討ちに対し否定的で、主君の命令で仕方なく行ったと見られていましたが、新たな書状の発見により、積極的に行っていたことが分かりました。

また、発掘調査の結果、大量虐殺は、誇張ではないかという指摘もあります。

つまり、信長の非道さを伝える出来事として語り継がれていますが、規模はもう少し小さかったかもしれません。

一向一揆の戦いで多くの門徒を滅ぼす

長島一向一揆

天下統一を目指す信長は勢力を伸ばしますが、大坂(阪)には石山本願寺という厄介な敵がいました。

大坂から退去して欲しい信長と拒否する本願寺とで対立し、本願寺の門徒(信者)が立ち上がり「一向一揆」として各地で信長と衝突するようになりました。

石山本願寺との戦いは、「長島一向一揆」と呼ばれ、信長は一揆鎮圧に苦労します。

ですが、兵糧攻めに遭い一揆側が降伏を申し出ることになります。

しかし信長は許さず、逃げ出す者は始末され、最後に砦に押し込めて2万人もの人を焼き討ちにしてしまいました。

1574(天正2)年7月のことです。

越前一向一揆

また、各地で一揆が起きています。

天正元年(1573年)8月、織田信長は、越前の朝倉義景を滅ぼしました。

越前は混乱し、一向一揆が台頭。

天正3年(1575年)8月、一揆衆は滅ぼされます。

逃げる一揆衆を信長の命令で斬り捨て、一揆衆は1万2250人以上が亡くなりました。

3~4万人余りが奴隷になり、一揆の味方した豊原寺が焼き討ちにされています。

伊賀の乱

伊賀国でも伊賀惣国一揆と織田軍で、天正伊賀の乱という戦が起きます。

織田信雄を総大将にして、天正9年(1581年)に伊賀国は制圧されます。

伊賀国の人口9万に対し3万人余りが犠牲になったと云われています。

村や寺院は焼き討ちにされ、非戦闘員である住民も亡き者にされています。

 

信長だけが悪いわけではありませんが、信長の残虐さを物語る話として語られています。

これらの残忍な行為を「悪」とし、光秀が「正義」の鉄槌を下したとする解釈できるでしょうか。

信長が正親町天皇に譲位を要求

ここからは、信長と敵対勢力の話ではありませんが、光秀から見て許しがたい話であった可能性がある話です。

信長は1570年の朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年の足利義昭との戦い、1580年の石山本願寺との戦いにおける講和を正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命により実現させています。

何故、信長が天皇の権威を利用できたかというと、信長は権威の落ちかけた朝廷を守る大義名分により、京都を手中に収めたとされていますが、更に逼迫した朝廷の財政を信長の援助により回復させるなどしたため、天皇の協力を得られたのではないかとされています。

しかし、1573年頃から正親町天皇は、信長に疎まれるようになり、何度も譲位を要求されたと『孝親日記』に記載されているそうです。

※正親町天皇が譲位を希望して、信長が反対したとの説もあります。

一方の光秀は公家と交流があり、朝廷とも近い存在であったとされており、より一層、天皇に譲位を迫る信長が「悪」として映った可能性があるかもしれません。

1579年の宮中の女官の日記に正親町天皇が光秀に馬、鎧、掛袋を下賜した旨の記載があり、朝廷と光秀が近い間柄であった傍証であるとも言われています。

信長を通さずに朝廷から光秀に直接恩賞が与えられたとみなされていますが、この主君の信長を通り越して、直接家臣に恩賞を与えることは異例なことであるといい、信長も立腹した可能性があるようです。

それにしても、何故信長は譲位要求をしたのか、それは信長が「治天の君」になる為だといいます。

天治天の君とは、天皇家の実権を握った上皇か天皇のことです。

どのように信長が「治天の君」になるかというと、正親町天皇から子の誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位します。

天皇になった誠仁親王から「准三宮」の待遇を信長がうけて皇族の一員となり、そして誠仁親王から誠仁親王の子である五宮(信長の猶子)に譲位させるというものだといいます。

五宮が天皇になれば、信長は天皇の義父になり、「治天の君」になれるそうです。

しかし、この計画が実行に移される直前に本能寺の変が起きたため未遂に終わり、このことから、本能寺の変の黒幕として朝廷説が囁かれることになります。

この譲位を迫ったことや「治天の君」になろうとしたことが、光秀には信長の「悪」であると思え、実行される前に「正義」の謀反を起こした…のかもしれません。

平氏の将軍任官を阻止した光秀

信長は天下平定が見え始めた頃から、藤原氏から平氏を称するようになったと伝わります。

この当時、「源平交替思想」という平氏と源氏が交互に武家政権を握るという考えが一部で信じられていたそうで、信長もその影響を受けた可能性が指摘されています。

源氏の足利義昭に代わり、征夷大将軍になる為、信長が平氏を自称し始めたと推察した説です。

信長が武田家を滅ぼし、北条家を服従させた頃、信長が征夷大将軍、太政大臣、関白のうちいずれかに任官する提案があったことが、『晴豊公記』に記してあるそうです。

平氏である信長の将軍任官が現実味を帯びてきたのです。

一方の明智光秀の出自は、諸説ありますが土岐源氏、つまり源氏だと云われています。

明智光秀の肖像画

明智光秀 出典元:Wikipedia

過去に征夷大将軍になったのは、源氏のみのため、歴史の秩序を乱します。

教養人であった光秀「平姓将軍の出現は、世の秩序を乱す」として、平氏の将軍任官を阻止する為、本能寺の変を起こしたのではないかとも云われています。

暦について朝廷と対立

当時は年号、の決定は天皇が決めるものでしたが、信長は口出しをしていたようで、当時の公家の日記に「暦を巡り信長に無理難題をふっかけられている」旨の記載があるそうです。

この暦問題は、天正10年2月から本能寺の変まで信長と朝廷との間で対立しています。

朝廷と対立する信長を退治することは、「正義」であるとする説です。

近衛前久への暴言

勢力が衰えた武田氏を滅亡させる戦いである甲州征伐に、元関白で、太政大臣である近衛前久(このえ さきひさ)も従軍していました。

公家が従軍するのは異例ではありますが、この遠征は関東見物という目的もあったそうです。

武田家についての書物である『甲陽軍鑑』に、その時の信長と近衛前久の様子が伝わっています。

近衛前久が「私も駿河の方をまわってもよいでしょうか」と馬を下りて信長に尋ねたところ、信長は馬に乗ったまま返事をして暴言をはき、「近衛」と呼び捨てにしたとされています。

本当であれば、信長のはるか上の位である太政大臣に対して無礼であり、光秀の目に信長の「悪」として映った可能性はありそうです。

ですが、信長と近衛前久は、お互い捕獲した鷹を自慢し合うなど、とても親しい間柄であったと云われています。

親しみを込めた言葉であり無礼ではないという声もあります。

快川紹喜を焼き討ちにする

快川紹喜(かいせん じょうき)は、一説には土岐源氏であり、光秀と旧知の仲だと云われています。

快川紹喜は、武田信玄の招きにより、甲斐武田氏の菩提寺・恵林寺の僧侶となり、後に正親町天皇から国師号を賜ることになる名僧でもあります。

後に、武田家が滅亡すると武田領内は混乱し、快川紹喜は信長に敵対した勢力を恵林寺に匿ったとされています。

当時、寺院は聖域であるとする考えがあったのにも関わらず、信長に恵林寺ごと焼かれ快川紹喜は亡くなってしまいます。

光秀は国師号まで賜った名僧が滅ぼされ驚き、同族でもある為、本能寺の変の原因とも伝わります。

 

こうしたことが積み重なって、信長は「天下の妨げ」と思う位の悪人に見えて、「正義」の為に本能寺の変を起こしたのでしょうか。

仮にそうだとしても、理由の一つだと思います。

本能寺の変を起こした理由の一つとして、近年注目の「四国説」。

私も四国説が最もらしく思えます。

四国政策転換は本能寺の変の遠因だった!?~長宗我部元親と四国説~

参考・引用・出典一覧

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