関ヶ原の戦いで敗北した三成は、どのような最後を迎えたのかを書いています。
古橋村で匿われていたところを、田中吉政に捕まり、徳川家康のいる本陣まで連れて行かれます。
その後、六条河原にて最後の時を迎えます。
石田三成の最後に至る過程
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、伊吹山辺りで、少数の家臣と潜伏していたと伝わります。
同年、9月18日、三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄らは自害しています。
佐和山城を落とした後、徳川家康は、田中吉政に三成の捜索を命じます。
田中吉政は、近江の出身で地の利に明るく、三成とも旧知の間柄です。
田中吉政は、三成が潜伏しそうな場所にお触れを出し、情報を募ります。
一方、石田三成は大坂城に入り、再起を図るつもりでいたと伝わり、家臣らと一緒では目立つので、家臣らと別れることにします。
ですが、磯野平三郎、渡辺甚平、塩野清助は、三成に付き従いたいと強く求めたそうで、小谷山の谷口辺りまで行動を共にしたようです。
田根村の小谷山の谷口(長浜市谷口町)には、三成が古橋に逃れる際に、立ち寄ったという伝承があり、谷口の庄屋が三成を匿ってくれたと伝わります。
おそらく、ここまで、一緒だったということだろうと思います。
磯野平三郎、渡辺甚平、塩野清助との別れ、大坂城での再会を約束して涙ながらに別れたとも、涙ながらに暇乞いをしたともいわれます。
こうして家臣らと別れた三成は、一人逃亡を続けることになりました。
しかし、その後の三成の足取りを見ると、大坂入りはできず、近江の古橋村で匿われています。
小谷山の谷口から古橋まで向かう尾根道があるそうで、力をふり絞り、山道を越えたのでしょうか。
古橋は三成の領内であった場所で、一説には、母・瑞岳院の故郷でもあります。
三成を匿った古橋
古橋村にある法華寺の塔頭・三珠院で、三成は匿われたそうです。
法華寺の塔頭・三珠院は、一説には、三成が幼いころ預けられていたお寺とも云われている場所です(三献茶)。
しかし、三成が匿われていることは、村中に知れ渡ることになります。
そこで、三成を案じた与次郎太夫は、山奥にある洞穴「オトチの岩窟」に匿います。
与次郎太夫は、三成に恩義のあった百姓であるとも伝わりますが、定かではありません。
与次郎太夫は、石田三成に毎日食事を運んだそうです。
一説には、石田三成は19、20日の二日間岩窟で過ごしたとも、食事を運んだのは女性だったなど、古橋には三成の伝承が多く残っています。
新暦では10月末か11月初旬に当たる時期、岩窟ではかなり寒く、満身創痍の身には堪えたものと思われます。
又左衛門は、三成を匿うのは危険であるとし、捕らえて田中吉政に引き渡すよう、与次郎太夫に説得したと伝わります。
また、説得したのは、村の名主とも云われいます。
与次郎太夫は、三成の元へ行き逃げるよう勧めますが、三成は逃亡により身体を壊し、起き上がれない程、弱っていたようです。
田中吉政に捕縛される
天運尽きたと感じたのか、三成は田中吉政に引き渡すよう与次郎太夫を説得します。
こうして、関ヶ原の戦いから6~7日後に、三成は、田中吉政の家臣・田中吉忠によって捕らえられます。
田中吉忠は、三成を籠に乗せ、田中吉政の元へ連れて行きました。
石田三成と田中吉政は、幼い頃から親しかったようで、三成は「他の者に捕まるよりお前に捕らえられた方がいい」という趣旨のことを言ったそうです。
三成は、田中吉政のことを「田兵、田兵」と呼んだとも伝わっています。
田中吉政は、三成の為に静養させたり、ニラ粥を勧めたりしたそうです。
丁重に対応してくれた田中吉政にお礼として、豊臣秀吉から賜った石田貞宗という脇差しを授けたと伝わります。
また、明治時代に三成の菩提を弔う為、田中吉政の子孫は、龍潭寺に三成の肖像画を奉納しています。
徳川家康と対面する
慶長5年(1600年)9月25日、三成は田中吉政に連れられ、徳川家康の本陣・大津に到着しています。
徳川家康の側近・本多正純がいて、三成はいわれなき戦を起こし、敗れて辱しめを受けていると罵られているそうです。
その上、自害もせず捕らえられたのは、何故かと。
石田三成は、源頼朝の話を挙げて、反論したとも伝わります。
自害をするのが美徳であった時代ですが、三成の頭にあったことは、中国晩唐の詩人・杜牧の「題烏江亭」(うこうていにだいす)だったかもしれません。
つまり、恥辱に耐えて、再起を図ってこそ、真の男児というものだという心境かもしれません。
そして、三成と対面した徳川家康は、「いかなる武将であっても、このようになることは、昔よりのためしであり、恥じることではない」と言います。
石田三成は「天運のなせるわざである、早く首を刎ねられよ」と返したと伝わります。
その後、家康は三成を「流石、大将の器である。(命乞いをし、嘲笑されたという)平宗盛とは大いに異なる」と評したそうです。
石田三成の最後
小西行長、安国寺恵瓊と共に、大津から大坂に連行され、首に輪を付けられて、乗り物に乗せられます。
大坂、堺の町を引き廻され、京都に送られた後、京都所司代・奥平信昌に引き渡されます。
慶長5年(1600年)10月1日、石田三成の最後の日です。
冷たい木枯らしの吹く日であったそうです。
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は、白帷子を着せられ、一人ずつ檻のような牛車に乗せられて、洛中を引き廻され、六条河原へやってきました。
最初に到着したのは、石田三成で、顔色を変えることなく刑場に引き出されます。
石田三成らの心を和らげる為、黒衣の僧が念仏を唱えようとしますが、三成は拒否しています。
三成はそれ以上何も語らず、刑に臨んで生涯を閉じます。
その後、三条河原に晒されています。
享年41歳。
石田三成の辞世「筑摩江(ちくまえ)や 芦間に灯(とも)す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」
その後、生前の三成が帰依した春屋宗園、沢庵宗彭ら大徳寺の高僧に亡骸が引き取られて、供養されています。
現在も、石田三成は、京都大徳寺の三玄院で眠っています。
古橋の伝承
石田三成は、領内に善政を敷いていた為、古橋でも大変慕われています。
なんとか生き延びたいと思い、古橋村を頼ってきた三成を、守れなかったという無念の思いが古橋にはあるようです。
与次郎太夫の養子が村の名主に訴えたため、三成が捕まったという古橋の伝承があります。
食べ物を運んだ女性の養子婿が嫉妬して、密告したとも云われているそうですが。
その為、古橋では養子を嫌う風習があり、他村から養子を取らない、これは終戦頃まで暗黙の了解であったそうです。
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