筒井順慶は大和の戦国大名で松永久秀とはライバル同士です。
後に、明智光秀の仲介で織田信長に仕え、大和一国を治めます。
本能寺の変が起きると、恩人・明智光秀や藤田伝五から味方になるよう誘われますが、最後は断ります。
この時の出来事が元で、「洞ヶ峠を決め込む」という言葉ができました。
筒井順慶 2歳で家督を継ぐ
天文18年(1549年)、筒井順慶は、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生を受けました。
母は山田道安娘・大方殿。
大和国は宗教勢力が力を持つ難治の国、室町幕府は守護を置くことが出来ず、実質的に興福寺の支配下にありました。
その興福寺の塔頭・一乗院に属した宗徒が武士化(僧兵)したのが筒井氏です。
筒井氏は「大和四家」と呼ばれ、越智氏、十市氏、箸尾氏と共に、大和に勢力を持つ武士団です。
その武士団(国衆)の中でも抜きん出た存在だったのが、順慶の父・筒井順昭です。
筒井順昭は、大和の国衆を配下にして勢力を拡大、やがて大和をほぼ平定するなど、筒井氏中興の祖と言える人物です。
しかし、天文19年(1550年)、筒井順昭は病没してしまい、数え年で2歳の筒井順慶が家督を相続します。
叔父の筒井順政、順国、外祖父の福住宗職が、幼い当主・順慶の後見役を果たします。
重臣である森好之、島左近、松倉重信「筒井の三家老」も筒井順慶を支えました。
因みに、順慶とは剃髪した後に名乗ったため、最初は、将軍・足利義藤(義輝)の偏諱を受けて藤勝、藤政と名乗っています。
筒井順慶と松永久秀の対立
筒井順昭亡き後、河内国守護代・安見直政の支援を受けるなど、筒井家は弱体化していきます。
永禄2年(1559年)、中央政権に絶大な権力を持った三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻。
畿内に勢力を持っていた三好長慶は、筒井氏の弱体化を好機と見て、松永久秀に攻略を命じたのです。
この機を境に、10歳の筒井順慶は、41歳も年の離れた松永久秀とライバル関係になります。
松永久秀は、居城・信貴山城を改造して拠点にすると、永禄3年(1560年)11月にほぼ大和を平定しています。
三好長慶から大和の支配を任せられ、更に多聞山城を築城し拠点としました。
筒井順慶の居城・筒井城の西と北に松永方の城を置き、抑圧する目的があったと推測できます。
松永久秀は、筒井氏に属していた国衆の城を落とし、筒井城を孤立させることで、弱体化させる作戦だったようで、筒井城に大規模な攻撃はなかったと見られます。
永禄5年(1562年)、筒井氏に協力していた十市遠勝が松永久秀に降伏しました。
筒井家が苦境に陥る中、永禄7年(1564年)には、筒井順慶の後見を務めていた叔父の順政が病没してしまいます。
この時、筒井順慶は数え年で16歳、未だ若武者ですが、大和奪還という重責が肩にのしかかります。
三好三人衆と同盟し筒井城を奪還
松永久秀の主君だった三好長慶亡き後、久秀は長慶の重臣だった三好三人衆、三人衆に担がれた三好家当主・三好義継と対立しました。
筒井順慶は三好三人衆、三好義継と同盟を結び、松永久秀に対抗しています。
しかし、永禄8年(1565年)、松永久秀に筒井順慶の本拠・筒井城を落とされてしまい、高田当次郎など順慶から離反していく国衆も居ました。
筒井順慶は一族を頼り布施城に落ち延び、裏切った高田当次郎の高田城を襲撃し、数日後に城下町を焼き討ちにしました。
筒井城を奪われた順慶は、三好三人衆と連携を強化し、永禄9年(1566年)に、松永久秀に攻撃し筒井城奪還を試みています。
筒井城は、松永久秀、松永久通により兵糧が運び込まれており、阻止しようとした筒井軍と軍事衝突したと伝わります。
筒井順慶らは、松永方の美濃庄城を陥落させ、筒井城に迫りました。
劣勢に立たされた松永久秀は、畠山高政らと手を組み、三好三人衆の拠点・堺を包囲しています。
松永久秀は、堺の会合衆(有力商人たち)に取り次ぎを依頼し、和議を結びました。
この和議を締結している最中、筒井順慶は筒井城を奪い返しました。
出家して順慶に改名
永禄10年(1567年)、三好義継が三好三人衆の元を離れ、松永久秀を頼ると、久秀は勢いづきました。
三好三人衆は筒井順慶と共に、久秀の居城・多聞山城を攻撃しました。
筒井順慶は、多聞山城攻めの最中、大和の春日大社にて剃髪し、筒井藤政から陽舜房順慶(ようしゅんぼうじゅんけい)に改名しています。
順慶の名前を使ったのは、この時からになります。
筒井順慶は、18歳の時に、正式に興福寺衆徒になったのです。
順慶と東大寺大仏殿の戦い
この多聞山城の戦いは、永禄10年(1567年)に起きた東大寺大仏殿の戦いに繋がるため、前哨戦であるとも、別名で東大寺大仏殿の戦いであるとも云われています。
三好三人衆は、久秀の居城・多聞山城との距離を詰めるため、東大寺に進軍したいと考えたようです。
筒井順慶は、反対でしたが行き詰った状態を解消しようと、東大寺に布陣を願い出たところ、東大寺は積極的に許可をしたと云われています。
その後、三好三人衆の本陣である東大寺は、松永久秀、三好義継に奇襲を受け、東大寺大仏殿が焼失する火災になります。
三好三人衆は総崩れになりますが、後方に布陣していた筒井勢は大きな被害は出していないと見られ、筒井城に帰城しました。
僧侶でもある筒井順慶は、大仏殿の焼失に心を痛めたものと推測できます。
一方の松永久秀は、東大寺大仏殿を焼き払った悪人であると、後世に語り継がれることになります。
実際には、どのような経緯で焼失したのか、定かではありません。
信長の後ろ盾を得た久秀に苦戦する順慶
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じた織田信長が上洛を果たしました。
信長の上洛と台頭は、筒井順慶にとっても重要な出来事ですが、松永久秀に気を取られ、情報収集が遅れてしまったと云われています。
一方の松永久秀は、信長と義昭の上洛に協力し、将軍になった足利義昭の直臣に取り立てられました。
松永久秀は、畿内を平定した信長とも誼を通じ、織田軍を恐れてか、筒井順慶を見限って菅田備前守らは松永久秀に通じることになります。
松永久秀の大和の支配は、切り取り次第とされ、武力で奪い取るよう命令が下りました。
侵攻してきた松永軍に筒井軍は応戦しますが、筒井城は落城し、筒井順慶は叔父・福住順弘を頼り逃げ延びました。
せっかく取り戻した筒井城を再び奪われることになったのです。
松永久秀方として、織田信長からの2万の援軍も加わり、大和は制圧されていきました。
松永方から窪之庄城を奪還し体制を整える
元亀元年(1570年)、筒井順慶は、福住中定城(ふくすみなかさだじょう)から、松永方の城になった十市城の奪還を画策していました。
すると、松永方の十市遠勝が病没し、混乱の隙をついて、十市城落とし、窪之庄城(くぼのしょうじょう)も取り戻しました。
その後、筒井順慶は、椿尾上城を築城し、松永久秀との戦に備えています。
筒井順慶 足利義昭の養女を娶る
松永久秀は、窪之庄城を奪い返されるなど、筒井順慶に苦戦していましたが、織田信長に離反した浅井長政征伐に軍勢を割いている為、筒井軍に大軍を差し向けられなかったようです。
しかし久秀は、信長の要請があれば、柔軟に兵を用意しなくてはならないことに不満を持っていたと云われます。
元亀元年(1570年)頃から、松永久秀は不穏な動きを見せるようになります。
元亀2年(1571年)、久秀が足利義昭方の城を攻めると、久秀に不信感を持った義昭は、筒井順慶に近づき、養女にした九条家の娘を嫁がせました。
松永久秀との争いで劣勢に立たされていた筒井順慶ですが、足利義昭の接近により状況が変化し、久秀から離反する大和の国衆も出始めます。
松永久秀を大敗させ筒井城を再奪還
筒井順慶は、久秀の居城・多聞山城を攻撃する拠点にする為、辰市城(たついちじょう)を井戸良弘に築かせます。
危機感を持った松永久秀は、三好義継と共に筒井順慶攻めを開始し、辰市城で戦になります。
松永軍優勢で進んだものの、筒井軍に援軍が到着すると、松永軍を追い詰め大敗させます。
両軍に多大な被害をだしたものの、勝利した筒井順慶は、筒井城奪還に成功、240もの首級を信長の元へ送ったと云われています。
かつて松永久秀は、居城であった信貴山城から筒井城を囲むように多聞山城を築城していました。
筒井城が筒井順慶の手に渡ったことにより、久秀の信貴山城と多聞山城を繋ぐ通路は分断され、順慶が有利な状況になったのです。
筒井順慶と松永久秀の和睦
真偽不明ですが『増補筒井家記』によると、元亀2年(1571年)、筒井順慶と松永久秀は、和議を結んだことが分かります。
間に入り和睦させたのは、明智光秀と佐久間盛信であったようです。
筒井順慶は明智光秀、松永久秀は佐久間盛信の仲介で信長に臣従した為、久秀と順慶の仲裁も盛信と光秀だったということでしょうか。
松永久秀は、信長と対立するようになった足利義昭と結びますが、筒井順慶とは表面的には順調な関係を保っていました。
宿敵同士だった二人ですが、筒井順慶は松永久秀と嫡男・久通を招いて、猿楽を開催している記録があります。
松永久秀 裏切りと恭順
元亀3年(1572年)、松永久秀は武田信玄など反信長勢力(信長包囲網)に呼応し、信長と対立姿勢を明確にします。
ここで、親織田派の松永久秀に敵対する筒井順慶という立場から、反織田派の久秀に対する親織田派の順慶という立場に変わりました。
しかし、翌年、信長包囲網の要である武田信玄が病没、槙島城の戦いで敗北した足利義昭は京を追われ、浅井長政、朝倉義景も滅び、三好義継は自害に追い込まれました。
破竹の勢いの織田信長に、松永久秀も居城・多聞山城を囲まれますが、信長に降伏し城と引き換えに許されました。
この頃、筒井順慶は、松永方の城である河内私部城を攻め落としています。
順慶 信長の娘か妹を娶る
天正2年(1574年)の正月、松永久秀は、織田信長の居城・岐阜城に参上し、筒井順慶も正月に岐阜城で信長に謁見しました。
3月、筒井順慶は臣従の証として、母を人質として差し出しています。
『多聞院日記』によると、天正3年(1575年)、筒井順慶は信長の娘か妹を娶ったと云われています。
大和守護には、織田家の家臣・原田直政(塙直政)が任じられ、筒井順慶は直政の与力になりました。
織田信長と武田勝頼との戦である長篠の戦いでは、筒井順慶の鉄砲衆50余りが集められ、数ヶ月後の越前一向一揆攻めにも大和衆は参陣したといい、原田直政が率いたものと見られます。
明智光秀の与力になった順慶
天正4年(1576年)の石山本願寺戦で、原田直政は亡くなり、筒井順慶に大和の支配が任されます。
この頃、明智光秀の与力になります。
与力とは、同じ織田信長の家臣でありながら、軍事行動の際は、明智光秀の指揮下に組み込まれます。
明智光秀の重臣・藤田伝五(藤田行政)の取り次ぎにより、光秀と順慶はお互いをよく知る間柄になっていたと云われています。
そして、人質として差し出していた筒井順慶の母の帰国が許され戻ってきました。
筒井順慶は築城中であった安土城を訪ね、信長に謁見すると返礼品を献上し、信長から馬やちりめんを賜っています。
明智光秀が病に臥せると、一乗院にて祈祷を行ったと云われています。
天正5年(、1577年)、織田信忠、羽柴秀吉(豊臣秀吉)らと紀州征伐に参陣し、雑賀一揆を鎮圧していました。
信貴山城攻めの先鋒を務める順慶
松永久秀は、上杉謙信、石山本願寺、毛利輝元ら信長包囲網に呼応し、織田信長をまたもや裏切り、嫡男・久通と共に、信貴山城に籠りました。
大和の支配をライバルの筒井順慶に任せたことが、久秀謀反の大きな理由ではないかという説があります。
信長は謀反の真意を質す使者を久秀に送りますが、拒否されたことで腹を立て、織田信忠を総大将に据えて、信貴山城の戦いが始まりました。
筒井順慶は、信貴山城の戦いの先鋒を務め、明智光秀、細川藤孝(幽斎)らと共に、松永方の片岡城を攻め落としています。
松永軍は150余を討ち取られますが、筒井勢にも多くの被害が出たと伝わります。
更に信長包囲網の要である上杉謙信が上洛しないことも、松永久秀を窮地に追い込みました。
足利義昭や毛利輝元から、上洛して信長討伐に協力するよう要請を受けた上杉謙信は、応じる動きを見せましたが、何故か進軍を止め引き返していたのです。
順慶 鉄砲衆を潜伏させる
筒井順慶は、信貴山城陥落に重要な役目を果たしたと云われています。
松永久秀は、信長包囲網の一角である石山本願寺の顕如に援軍を要請する為、森好久を使者にしたところ、加賀鉄砲衆200名の援軍と共戻ってきました。
しかし、その鉄砲衆200名は、筒井順慶が送り込んだ鉄砲衆。
森好久が筒井順慶の家臣の元に駆け込み、久秀を裏切った為でした。
信貴山城攻めで、筒井順慶は最前線で攻撃し、一度は追い返されますが、三の丸辺りから火の手が上がりました。
筒井順慶が潜伏させた鉄砲衆が、切り崩しを行った為で、松永久秀の敗北は決し自害して果てました。
その後、筒井順慶は、松永久秀の亡骸を寺に葬り手厚く葬ったという説がありますが、定かではありません。
いずれにせよ、足かけ18年に渡った筒井順慶と松永久秀の争いは終わりを迎えたのです。
信長の家臣として転戦する順慶
大和の龍王山城は、信長の命令により、筒井順慶が破却しました。
天正6年(1578年)、筒井順慶は、羽柴秀吉の播磨攻めに従軍し、神吉城攻めを行った後、大和の吉野の一向衆を鎮圧しました。
織田信長に従っていた荒木村重が謀反を起こし、翌年、筒井順慶は、荒木村重が籠城する有岡城(伊丹城)攻めに参陣しています。
天正8年(1580年)、筒井順慶は水害を受けやすい筒井城から郡山城(大和国)へ居城を移します。
織田信長から本拠にする城以外は、破却するよう命じられた為、筒井城や支城を破却しています。
同年、信長朱印状で大和一円は、正式に筒井順慶に任され、大和郡山城入城が命じられました。
同時に、佐久間盛信の与力だった箸尾氏を与力とすることになりました。
その、約一数ヶ月後に坂本にいる明智光秀を訪ねたことが『多聞院日記』に記されています。
筒井順慶が、大和一国と大和郡山城を拝領する背景に、明智光秀の尽力があったと云われており、お礼に赴いたものと思われます。
天正9年(1581年)、筒井順慶は、織田信勝を総大将とする第二次天正伊賀の乱に従軍し、夜襲を受けて1000人の兵を失ったと云われています。
本能寺の変 光秀か秀吉か
天正10年(1582年)6月2日の早朝、明智光秀が織田信長と織田信忠を討ち果たす、本能寺の変が起きます。
筒井順慶は、慈明寺順国(筒井順慶の叔父・順国)、福住順弘、島左近、松倉重信などを集めて会議を行いました。
筒井順慶は、明智光秀から味方になるよう誘われていたのです。
筒井順慶が織田信長に主従する時に取り次いだのは明智光秀ですし、その後、光秀の与力に順慶はなっています。
筒井順慶と明智光秀は、茶の湯を好んだ文化人、教養人でもあり、関係は良好であったと云われています。
筒井順慶の跡継ぎで養子の筒井定次の正室は、織田信長の娘ですが、一説には実父は明智光秀という説もあります。
筒井順慶は、光秀の要請に応じて、6月5日に近江に派兵しますが、消極的な態度でした。
その後も一族や重臣で話し合いを続け、結局は兵糧を蓄えて郡山城に籠城したのが6月9日です。
筒井順慶は、6月10日には秀吉に従う決意をしたと云われています。
情報戦に長けた秀吉は、光秀に味方しそうな武将の切り崩しを行っており、筒井順慶に対しても同様に行われたようです。
羽柴秀吉は織田家重臣の丹羽長秀と連盟で、順慶に書状を出しており、信長三男・織田信孝の為に出陣を要請しています。
この書状からは織田家重臣で信孝を支えている様子が伝わってきます。
日付は6月13日のもので、光秀の与力の前に、織田家の家臣である筒井順慶の決意が揺るがないように念を押したのでしょうか。
「洞ヶ峠を決め込む」は順慶の日和見が元!?
筒井順慶が羽柴秀吉に恭順の意を示したのと同じ日に、明智光秀の重臣・藤田伝五が筒井順慶の元を訪ねています。
藤田伝五は、光秀に味方するよう催促しますが、順慶は応じませんでした。
翌日に、筒井順慶が腹を切ったとの事実でない噂が流れるなど、情報が錯綜し混乱状態にあったようです。
それでも、明智光秀は筒井順慶に期待していたようで、洞ヶ峠(ほらがとうげ)に陣を敷きます。
筒井順慶を待っていたとも、牽制であったとも云われています。
この洞ヶ峠の出来事は、後に歪められて知れ渡ることになります。
山崎の戦いの際、筒井順慶は洞ヶ峠に陣を張り、明智光秀と羽柴秀吉のどちらに味方しようかと形成をうかがってたというのです。
しかし、先に述べたように、羽柴秀吉につくことを決め、明智光秀の要請は拒否しています。
その上、洞ヶ峠に布陣したのは、筒井順慶でなく明智光秀のほうです。
筒井順慶にとっては、事実でないのに不名誉なことですが、日和見する事を「洞ヶ峠(を決め込む)」と表現するようになりました。
何故誤った解釈が広まったのかは不明ですが、筒井順慶が恩人・明智光秀を見捨てたと解釈した人が、皮肉を込めて言い出したのかもしれないというのが、個人的な感想です。
その後、明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗北し、小栗栖にて落ち武者狩りに遭い落命しました。
光秀が期待を寄せた筒井順慶、細川藤孝(幽斎)が味方しなかったことが決定打となり、秀吉との兵力の差がついたと見られています。
光秀が亡くなった翌日、筒井順慶は大和を旅立ち、秀吉に謁見しました。
『多聞院日記』によると、秀吉から参陣が遅いことを咎められ、筒井順慶が体調を崩したことが大和一体に広がって焦燥させたといます。
後に、秀吉に養子・筒井定次を人質として差し出し、忠誠を誓っています。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに病をおして出陣し、大和に帰国後に亡くなりました。
享年36歳。
筒井順慶の縁者の子孫
筒井順慶には子供がいなかったようで、筒井定次が養嗣子となり、家督を相続しています。
《筒井定次》
筒井定次は、順慶の従兄弟で母方の甥でもあります。
筒井順興→筒井順昭→筒井順慶
筒井順興→筒井順国→筒井定次(母は筒井順昭の娘)
筒井定次は、信長亡き後、豊臣秀吉に仕え20万石の大名になっています。
関ケ原戦いでは東軍について、所領は安堵されますが、慶長13年(1608年)にお家騒動が起きて改易されます。
大名としての筒井家は、一旦終わりを迎えます。
慶長20年(1615年)、大坂冬の陣で豊臣家に通じているとの疑いをかけられ、嫡男・順定と共に自害させられ、筒井氏の嫡流は断絶。
系譜を辿ることは出来ませんが、筒井定次の娘は6名確認でき、現在も子孫の方がいらっしゃる可能性がありそうです。
一方、筒井順定の妻、子供は確認出来ません。
満14歳で没しているので居ないのかもしれません。
《筒井定慶》
筒井定慶は、筒井順慶の従兄弟で、母方の甥、また筒井順斎、筒井慶之の兄です。
筒井順興→筒井順昭→筒井順慶
筒井順興→福住順弘→筒井定慶(母は筒井順昭の次女)
伝承によると筒井順慶より8歳年下だと云われています。
筒井順慶の養子になりますが、後継者の立場を筒井定次に譲ったそうです。
先に述べたように、筒井定次が改易され大名としての筒井家は無くなっていましたが、徳川家康の協力を得て家督を相続し、大和郡山城1万石を拝領します。
筒井家は元々、20万石でしたので大分減ってしまいましたが、1万石以上なので大名に返り咲いたと言えそうです。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起きると、豊臣方の大野治房軍に攻められ、多勢に無勢で大和郡山城を捨てて逃亡。
大和郡山城は落城し、自害したとも云われていますが、定かではありません。
いずれにせよ、所領は失ってしまい、大名としての筒井氏は断絶しています。
《筒井順斎》
筒井順斎は筒井順慶の従兄弟で養子、筒井慶之の弟、筒井慶之の兄でもあります。
また、筒井順斎、筒井慶之兄弟は同一人物の可能性もあります。
筒井順興→筒井順昭→筒井順慶
筒井順興→福住順弘→筒井順斎
従兄弟・筒井定次、兄・筒井定慶を亡くした筒井順斎ですが、徳川家康に仕えていた為、領地を与えられたようです。
筒井順斎の子孫は、1,000石の旗本として幕末まで繁栄したこと云われています。
江戸時代後期の旗本である筒井政憲(つつい まさのり)は、筒井順斎の子孫に当たります。
長崎奉行、南町奉行、大目付を務め、学問に優れた人物であったと云われています。
日露和親条約の交渉を行ったことで知られています。
《筒井慶之》
筒井順慶の従兄弟で養子、筒井定慶、順斎の弟でもあります。
筒井順興→筒井順昭→筒井順慶
筒井順興→福住順弘→筒井慶之(よしゆき)
先に述べたように兄・筒井定慶は、豊臣軍に攻められ落ち延びた後に、自害したと云われています。
筒井順慶は奈良へ逃げ延び、自害したと云われています。
因みに、小説『筒井順慶』の著者である筒井康隆氏は、筒井順慶の子孫との設定で、こちらの小説を執筆したそうです☟。
また、著書『ヘル』にて、ご先祖は筒井順慶家の足軽だったらしいと仰っているようですが、筒井順慶の縁者かどうかは分かりません。
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