津田信澄(織田信澄)の父は、織田信長に背き始末された織田信勝(信行)です。
その境遇を感じさせない位、信澄は信長から厚遇を受けました。
しかし、明智光秀の娘を妻に迎えていたことで、本能寺の変の首謀者とみなされ非業の最期を迎えます。
津田信澄(織田信澄)とはどのような人物か、生涯について書いています。
信長に背いた信勝の嫡男・津田信澄
津田信澄(織田信澄)は、織田信長の弟・織田信勝(信行)の嫡男として末森城で生まれました。
生母は和田備前守の娘・高島局、幼名は坊丸。
生年は弘治元年(1555年)か永禄元年(1558年)だと云われています。
織田信長の嫡男・織田信忠(1557年生まれ)、次男・信雄(1558年生まれ)らと、ほぼ同年代になるようです。
天文21年(1552年)、信長と信勝(信行)の父である信秀が没すると、家督争いもあり両者は対立します。
稲生の戦いにて、父・信勝(信行)は敗北。
この時は許されるものの、直ぐに再度謀反を企てると自身の家老・柴田勝家に密告され、信長の家臣によって亡き者にされました。
父・信勝が亡くなった永禄元年(1558年)、津田信澄(織田信澄)は3歳か0歳児でした。
信勝(信行)の子供達は、助命され柴田勝家に養育されています。
嫡男の津田信澄(織田信澄)も亡き者にされてもおかしくない状況ですが、信長と信勝の生母・土田御前の助命嘆願により許されたと云われています。
信澄の弟である津田信糺、津田信兼と共に許されました。
津田信澄、磯野員昌の養子になる
元亀2年(1571年)、津田信澄(織田信澄)は、磯野員昌の跡継ぎのための養子として迎えられています。
磯野員昌は、浅井氏の家臣でしたが、信長の軍門に下った人物です。
磯野員昌は、織田家の宿将と同等の領地を与えるという破格の待遇を得ましたが、信長の甥である津田信澄(織田信澄)を跡継ぎにすることと引き換えでした。
磯野姓を名乗っていたかは分かりません。
天正2年(1574年)2月、織田信長主催の茶会に御通衆の「御坊様」として参加、3月にも「津田坊」という小児の愛称で呼ばれているのが確認できます。
このことから、養子入りの約束のみだった可能性も指摘されています。
信澄の初陣は越前一向一揆征伐
津田信澄(織田信澄)は、天正3年(1575年)の越前一向一揆征伐で、磯野員昌らと共に参陣しています。
越前一向一揆攻めが信澄の初陣ではないかと云われていますが、一揆攻めの前には元服を済ませていたと見なされています。
織田信長は、越前の大名・朝倉義景攻め滅ぼし、桂田長俊(前波吉継)を越前の守護代にしました。
しかし、桂田長俊(前波吉継)を排除しようとした朝倉家旧臣や、越前の有力者によって一揆が起きたのです。
津田信澄(織田信澄)は、柴田勝家、丹羽長秀と共に、鳥羽城を攻め陥落させています。
同年、信長の取次役として、公家の吉田兼見をもてなしました。
吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、天正4年(1576年)に養父・磯野員昌の所領である近江の高島郡から上洛していることが書かれているため、当時、磯野領に住んでいたと見なされています。
磯野員昌の領土を拝領し大溝城を築城
『信長公記』によると、天正4年(1576年)に、明智光秀の丹波国の黒井城攻めの加勢に赴いています。
明智光秀が丹波の赤鬼・赤井直正の黒井城を攻めていたところ、丹波の大名・波多野秀治に裏切られ、窮地に追い込まれた明智軍の援軍に向かったようです。
しかし明智軍は敗北し、光秀は一旦退却しています。
天正6年(1578年)、津田信澄(織田信澄)の養父・磯野員昌が信長に怒られ、高野山へ逃げ出しました。
信長や信澄に家督を譲るように迫られ、拒んだことが理由とも云われますが、定かではありません。
磯野員昌の領土・高島郡は、津田信澄(織田信澄)に与えられ、高島郡に大溝城を築城して信澄の居城としました。
大溝城の縄張り(設計)は、築城の名手・明智光秀です。
織田信長に重宝される信澄
天正6年(1578年)4月、織田家の家督を譲られた織田信忠に従い、、石山本願寺攻めに従軍しました。
同年8月、信長の趣味でもありますが、人材発掘の意味合いもあった相撲興行で奉公、9月には、茶人・津田宗及(そうぎゅう)宅に信長のお供として訪問しています。
津田信澄(織田信澄)は、智勇に優れた武将だったと云われていて、信長に重宝されたようです。
荒木村重征伐に従軍する信澄
織田信長の家臣・荒木村重が謀反を起こした為、村重の征伐に従軍します(有岡城の戦い)。
天正6年(1578年)7月 に起きた戦ですが、天正7年(1579年)9月に荒木村重は有岡城を脱出し、嫡男の尼崎城へ元へ移ってしまいました。
11月に有岡城を守っていた荒木久左衛門は、ついに開城を決めたのです。
荒木方の城である尼崎城と花隈城を明け渡せば、人質を助けるという約束を信長とした為でした。
有岡城には、津田信澄(織田信澄)が入城し、有岡城の戦いは終焉しています。
信長との約束を取り付けた荒木久左衛門は、荒木村重の説得を試みましたが、上手くいきませんでした。
困った荒木久左衛門は、自身の妻子を見捨てて逃亡してしまったのです。
激怒した信長は、荒木村重や荒木久左衛門らの人質を刑に処することにしました。
有岡城の女房衆122人、その後は、村重一族と重臣の家族37名です。
37名は津田信澄(織田信澄)に京に護送させ、京都市中引き回しの上、六条河原にて執行されました。
ただ、執行されたのは36名のようで、1名はどうしたのか分かりません。
その後も、荒木一族は見つけ次第亡き者にされたそうです。
他にも家臣の人質、本丸にいた人質など合計で670名もの命が奪われる惨状になっています。
明智光秀の娘を妻にする
津田信澄(織田信澄)の正室(妻)は、明智光秀の娘ですが、この頃(または天正2年)に娶ったという説があります。
妻に迎えた光秀の娘は、「京子」だとする説がありますが、俗説の域を出ず定かではありません。
また、織田信長の命令により娶ったようです。
イエズス会に「大坂の司令官」と呼ばれる
天正7年(1579年)、浄土宗と法華宗の間で宗教を巡る論争が行われると、寺内の警備役として津田信澄(織田信澄)らが派遣されました(安土宗論)。
天正8年(1580年)、織田信長と石山本願寺(大坂本願寺)の間で和議が成立し、本願寺教団が退城する際に大坂に行きます。
石山本願寺受け取りの検使を務めた矢部家定の警護をした津田信澄(織田信澄)は、そのまま大坂に常駐し、治安維持に努めました。
津田信澄(織田信澄)は、イエズス会(耶蘇会)の宣教師に「大坂の司令官」と呼ばれるまでに成長しています。
津田信澄の待遇は破格
天正9年(1581年)2月、京都御馬揃えに参加し、信澄の叔父・信包、従弟・信孝と同格の扱いを受けます。
津田信澄(織田信澄)の織田家での序列は、信長の嫡男・信忠、次男・信雄、信長の弟・信包、信長の庶子・信孝に次いで第5位です。
津田信澄(織田信澄)の後には、信長の弟・有楽斎(長益)と長利です。
津田信澄(織田信澄)の父は、織田信長を二度も謀反を起こした信勝ですが、信澄の信任は厚く破格の待遇を受けました。
施福寺(槇尾寺)を検分する
同年4月、織田信長は和泉国の検地を堀秀政に命じ、その一環として秀政が和泉にある施福寺(通称で槇尾寺)の寺領を調べようとしたら拒否されました。
それに怒った信長の命令で、堀秀政が施福寺(槇尾寺)の僧侶800名を亡き者にしようと、兵を差し向けたところ、僧侶は寺から退去したのです。
施福寺(槇尾寺)の伽藍は、津田信澄(織田信澄)、堀秀政、丹羽長秀、蜂屋頼隆、松井友閑が検分して、使用できそうな木材は没収しました。
その他の堂塔、僧坊、寺庵、径巻は、堀秀政が検分し焼き払いました。
後に施福寺(槇尾寺)は、豊臣秀頼、徳川家の援助を受けるなどして再興されています。
伊賀攻め、甲州征伐に従軍する
天正9年(1581年)9月、織田信雄が総大将を務める伊賀攻めに参じました。
天正6年(1578年)に織田信雄が伊賀攻めをした際は敗北した為、今回は津田信澄(織田信澄)らを従え5万の大軍で攻め込み撃破しています。
伊賀攻めが終わって直ぐの10月、信忠と共に信長自身が伊賀国を検分し、津田信澄(織田信澄)も同行しています。
この時、津田信澄(織田信澄)は大和国の拝領を希望したと云われていますが、認められなかったようです。
一説によると、大和国に携わった者が非業の死を遂げたことから、縁起が悪いと思っていたとも云われています。
天正10年(1582年)、甲斐の武田氏を滅亡へ追い込む甲州征伐が起きます。
津田信澄(織田信澄)は、織田信忠を総大将とする「信忠軍団」には入らず、信長に従い後から従軍したようです。
本能寺の変の首謀者と疑われ非業の最期
織田信長は、明智光秀を仲介役に土佐の長宗我部元親と良好な関係を築いていましたが、関係が悪くなり、三男の織田信孝を総大将に四国征伐を命じました。
この長宗我部元親の件は、本能寺の変の遠因ではないかと囁かれている「四国説」です。
津田信澄(織田信澄)は、丹羽長秀、蜂屋頼隆と共に四国遠征軍の副将になり、四国に渡海する準備をしました。
しかし6月2日、本能寺の変が起き、織田信長と嫡男・織田信忠が亡くなる大事件が起きたのです。
翌日、四国遠征に出発予定でしたが、諸将は急遽中止になりました。
津田信澄(織田信澄)は、明智光秀の娘婿の為、首謀者であるとする噂が流れていました。
無実の罪を着せられた津田信澄(織田信澄)ですが、疑心暗鬼になった織田信孝と信孝を補佐した丹羽長秀に襲撃されます。
津田信澄(織田信澄)は、防戦しましたが、信澄の多くの兵が城外にいたこともあり、丹羽長秀の家臣・上田重安によって討たれてしまいました。
その上、織田信孝の命令で、堺の町外れで獄門に懸けられる辱しめを受けたのです。
享年は25歳か28歳。
津田信澄(織田信澄)の妻である明智光秀の娘の消息は分かりません。
津田信澄(織田信澄)の嫡男・織田昌澄は、一時期父の家臣だった藤堂高虎に仕えます。
その後、豊臣家の家臣になり、豊臣秀頼に仕え大坂冬の陣で藤堂高虎隊と戦い活躍します。
自害しようとするものの、藤堂高虎の取り成しで許され、後に徳川家の旗本になり2000石を拝領しました。
大坂の陣にて昌澄(光秀の孫)は長男を亡くしていますが、次男・信高は旗本として存続します。
津田信澄(織田信澄)の次男・津田元信(光秀の孫)は、織田信雄に仕えた後、豊臣秀頼に仕えたそうですが、詳細は分かりません。
津田信澄(織田信澄)の子孫については少しですが、明智光秀や細川ガラシャ(明智玉子)の子孫について書いています。
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