近衛前久の子孫について書いた記事です。
関白の職につくことの多い近衛家。
その子孫は、天皇、和宮など内親王、徳川の正室・天英院、水戸黄門の正室など凄い系譜です。
近衛前久の子孫
近衛前久は、自身も父や祖父も関白の職に就いています。
関白とは、公家の最高位で、皇族を除くと一番良い家柄ということになります。
また、准三后(じゅさんごう)という皇族に准じた処遇も与えられています。
近衛前久は、公家の高い立場にありながら、織田信長、上杉謙信ら戦国武将とも仲良しで、戦に従軍までする破天荒な面もあります。
近衛前久自身のことは別で記事にしていますので、今回は前久の子孫を辿ってみたいと思います。
関白職に就くことが多い近衛家の子孫は、天皇、皇子、皇女、将軍正室など、凄い子孫が沢山いらっしゃいました。
前久の子孫・欣子内親王
近衛前久の子孫に、1779年3月11日(安永8年)に生まれた欣子内親王(よしこないしんのう)がいます。
欣子内親王が誕生する系譜を書きます。
近衛前久の子・近衛信尹(のぶただ)も関白で、近衞信尋(のぶひろ)という養子を迎えることになりますが、前久の孫です。
母は近衛前久の子・前子、父は後陽成天皇。
前久の孫・近衞信尋(関白)(天皇の子)→近衞尚嗣(ひさつぐ)(関白)→近衞基熙(もとひろ)(従一位)→近衞家熈(いえひろ)(関白)→近衛家久(いえひさ)(関白)→近衛内前(うちさき)(関白) →近衛維子(これこ)(皇太后)→欣子内親王
近衛維子が後桃園天皇の女御となり、欣子内親王(よしこないしんのう)の生母になりました。
欣子内親王は、温仁親王(ますひとしんのう)を出産し、親王宣下を受けるものの、誕生と同じ年に崩御。
悦仁親王の生母でもあるそうですが、詳細は不明です。
仁孝天皇の養母。
前久の子孫・水戸黄門の正室
近衛前久の子孫に水戸黄門の正室もいますので、どうつながるかを書きます。
先ほど述べた前久の孫で、天皇の子である近衞信尋に近衛尋子(ちかこ)という娘がいます。
尋子の通称は泰姫(たいひめ)。
常陸水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(通称、水戸黄門)の正室です。
尋子は体調不良と赤痢により亡くなり子供はいません。
享年21。
前久の子孫・天英院(徳川家宣の正室)
先に述べましたが、前久の孫・近衞信尋(関白)(天皇の子)の孫に近衞基熙がいます。
基熙の娘に近衛熙子(ひろこ)がいて、6代将軍・徳川家宣の正室になります。
母は後水尾天皇の娘・常子内親王。
徳川家宣が甲府藩主だった頃に縁組しましたが、父・近衛基熙は武家との縁組は承諾できないとしながらも、断れず不本意ながら承諾したそうです。
近衛熙子(天英院)は、近衛家から権中納言である平松時量の養女になり嫁いでいます。
近衛家より格下の家の養女になり嫁いだことは、徳川家には秘密にされたそうです。
夫婦関係は良好であったと思われます。
家宣亡き後、落飾して天英院(てんえいいん)と名乗ります。
大奥ご覧になっていた方は、直ぐわかるかもしれませんが、側室の月光院(7代将軍・徳川家継の生母)と対立したと云われています。
天英院(近衛煕子)には、豊姫という子供がいましたが、2ヵ月で早世しています。
長男もいたようですが、夢月院という名前のみ分かっていて、子孫は続いてないようです。
前久の子孫・近衛脩子(閑院宮直仁親王妃)
近衞 基熙の娘・近衛脩子(しゅうし)は、閑院宮直仁親王妃になりました。
天英院(近衛煕子)の妹に当たる人物です。
二人の王女を出産するものの子孫は続いていません。
前久の子孫・近衛尚子、天皇生母で天英院の姪
近衞家熈(このえ いえひろ) の娘・近衛尚子(ひさこ)は、中御門天皇の女御になり、桜町天皇を生みました。
天英院の姪に当たります。
始めは、徳川家宣と月光院の子・徳川家継と婚約する方向だったようですが、年齢差がある為、天皇に入内したそうです。
桜町天皇の生母になっています。
前久の子孫・桜町天皇、皇女が最後の女性天皇
桜町天皇は、第一皇子・桃園天皇に譲位して院政を行いますが、約3年後に桜町天皇は崩御してます。
その後、譲位された桃園天皇も崩御し、桃園天皇の皇子は5歳だった為、姉(後桜町天皇)が天皇になりました。
桜町天皇の皇女で、皇室史上、最後の女性天皇です。
後に後桜町天皇は、甥である後桃園天皇に譲位しています。
分かりずらいので、まとめると、近衛前久の子孫に桜町天皇がいて、桜町天皇には皇子・桃園天皇、女性天皇・後桜町天皇がいます。
天皇になった順番は、桜町天皇→桃園天皇(弟)→後桜町天皇(姉)→後桃園天皇(桃園天皇の皇子)です。
後に、後桃園天皇と近衛維子の間に、欣子内親王(よしこないしんのう)が生まれています。
欣子内親王と近衛維子は、先に書いたように、近衛前久の子孫です。
つまり、近衛前久の子孫同士の間にできた子が、欣子内親王ということです。
また、桃園天皇には第二皇子に伏見宮貞行親王(ふしみのみや さだもちしんのう)もいますが、子孫はいないものと思われます。
近衛前子の子・後水尾天皇
近衛前久の娘に近衛前子(さきこ)がいます。
近衛前久は豊臣秀吉を猶子とし、親子関係を結ぶことで秀吉が関白になれる手順を整えました。
関白になることで天下人になった豊臣秀吉は、近衛前子を猶子にしています。
その後、近衛前子は後陽成天皇に入内しています。
近衛前子の子に後水尾天皇がいて、今上天皇の直系祖先になります。
二つの系譜があります。
①近衛前久→近衛前子→後水尾天皇→霊元天皇(れいげんてんのう)→東山天皇→閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)→閑院宮典仁親王(すけひとしんのう)→光格天皇→仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇→大正天皇→昭和天皇→上皇(明仁)→今上天皇(徳仁)
②近衛前久→近衛前子→後水尾天皇→霊元天皇→福子内親王(伏見宮妃)→伏見宮貞建親王(ふしみのみや さだたけしんのう)→伏見宮邦頼親王→伏見宮貞敬親王(さだよししんのう)→伏見宮邦家親王→久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう)→久邇宮邦彦王(くによしおう)→香淳皇后→上皇→今上天皇
14代将軍・徳川家茂の正室になり、幕末に朝廷と徳川家の間を取り持った和宮 親子内親王は、仁孝天皇の皇女ですので、近衛前久の子孫でもあります。
近衛、徳川、織田の子孫
前久の孫・後水尾天皇の中宮(妻)は、徳川和子です。
徳川秀忠と江(織田信長の姪)の子供です。
後水尾天皇と徳川和子の間に高仁親王(すけひとしんのう)がいて、天皇の即位が期待されましたが、わずか3歳で薨御してしまいます。
その後、高仁親王の姉に当たる興子内親王が即位し、明正天皇(めいしょうてんのう)になりました。
時の将軍・徳川家光の姪にあたり、近衛、徳川、織田の子孫です。
ただ、後水尾上皇による院政が敷かれていた為、明正天皇に実権は無かったと云われています。
後に紹仁親王(後光明天皇)に皇位を譲っています。
後光明天皇の父は後水尾天皇ですが、母は徳川和子ではありません。
前久の子孫・高松宮初代の高松宮好仁親王
近衛前子が産んだ皇子・高松宮好仁親王(たかまつのみや よしひとしんのう)は、有栖川宮家(高松宮)初代になりました。
有栖川宮家の系譜です。
初代:高松宮好仁親王→2代:明子女王(高松宮好仁親王の王女)の婿・良仁親王(後の後西天皇)(後水尾天皇の皇子なので近衛前久の子孫)→3代:有栖川宮
幸仁親王(ありすがわのみや ゆきひとしんのう)→4代:有栖川宮正仁親王(ただひと しんのう)→5代:有栖川宮職仁親王(養子)(霊元天皇が父なので近衛
前久の子孫)→6代:有栖川宮織仁親王(おりひとしんのう)→7代:有栖川宮韶仁親王(やつなひとしんのう)→8代:有栖川宮幟仁親王(たかひとしんのう)→9
代:有栖川宮 熾仁親王(たるひとしんのう)→10代:有栖川宮 威仁親王(たけひとしんのう)
有栖川宮 威仁親王が薨去したため、有栖川宮は断絶が確定しましたが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承しています。
宣仁親王の父は、大正天皇ですので、近衛前久の子孫です。
前久の子孫・八条宮長仁親王
近衛前子の孫・明子女王の別の系譜です。
近衛前子→高松宮好仁親王→明子女王→八条宮長仁親王(はちじょうのみや おさひとしんのう)→養子・八条宮尚仁親王(なおひとしんのう)(後水尾天皇の皇
子・後西天皇が父の為、近衛前久の子孫)→養子・作宮(霊元天皇が父の為、近衛前久の子孫)→養子・京極宮文仁親王(きょうごくのみや あやひとしんのう)
(霊元天皇が父)→京極宮家仁親王(やかひとしんのう)→京極宮公仁親王(きんひとしんのう)→養子・桂宮盛仁親王(かつらのみや たけひとしんのう)(光格天皇
の皇子、近衛前久の子孫)→養子・桂宮節仁親王(かつらのみや みさひとしんのう)(仁孝天皇の皇子、近衛前久の子孫)→養子・桂宮 淑子内親王(かつらのみ
や すみこないしんのう)(仁孝天皇の皇女、近衛前久の子孫)
淑子内親王の薨去をもって桂宮家は断絶になりました。
途中で養子を迎えても、近衛前久につながるのは凄いですね。
また、幕末に活躍した皇女・和宮は、桂宮 淑子内親王の異母妹に当たります。
前久の子孫・近衞文麿(内閣総理大臣)
近衞文麿(ふみまろ)元総理は、1891年(明治24年)に生まれ ています。
第34・38・39代の内閣総理大臣を務め、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣なども歴任した政治家です。
近衛前久の他、後陽成天皇の子孫でもあります。
1945年(昭和20年)、終戦後、A級戦犯として裁かれることが決まって自殺しています。
先に紹介しましたが、後陽成天皇と近衛前久の子・前子の子孫に、欣子内親王がいて系譜を記載しています。
その系譜で近衛前子から近衛内前までは同じですが、その後の系譜が違いますので書きます。
近衛内前→近衛経熙(つねひろ)(従一位)→近衛基前(もとさき)(従一位)→近衛忠煕(関白)→近衛忠房→近衞篤麿( あつまろ)(貴族院議長、学習院院長)→近衞文麿
また、近衞文麿の次女・細川温子は、細川護貞(もりさだ)(旧熊本藩主細川家)に嫁いで、細川護熙元総理を生みます。
第79代の内閣総理大臣です。
細川護熙元総理は、系図上では細川忠興(細川幽斎の嫡男)と細川ガラシャ(明智光秀の娘)の子孫ですが、途中で養子を迎えている為、血縁上の子孫ではありません。
近衛前久は、細川護熙元総理、近衞文麿元総理二人の総理大臣の子孫がいることになります。
細川ガラシャから細川護熙元総理につながる系譜は別で書いています☟。
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