加藤清正は、豊臣秀吉の縁者で、始めは小姓として仕え、やがて頭角を現していきます。
有能な官僚として期待される一方、武将としても優れていて朝鮮出兵では多くの武功を挙げています。
秀吉没後は、徳川家康に近づいて忠勤に励み、家康の婿にもなった清正の生涯について書いています。
加藤清正は秀吉の親戚
加藤清正の父は、加藤清忠といい斎藤道三に仕えた後に、鍛冶屋の娘を娶り刀鍛冶となった人物です。
母は、鍛冶屋清兵衛の娘・伊都、豊臣秀吉の生母・なかの従妹(親戚とも)であると伝わります。
加藤清正の通称は虎之助、その他、地震加藤、肥後の虎などとも称されます。
加藤清正は、永禄5年(1562年)6月、尾張国愛知郡中村にて生を受けていますが、数え年で3歳の永禄7年(1564年)、父が亡くなります。
その後、津島に母と共に移っています。
加藤清正 秀吉に仕える
天正元年(1573年)、北近江の戦国大名・浅井長政が滅亡し、浅井氏の旧領北近江三郡を与えられた秀吉は、長浜城主になります。
羽柴秀吉が長浜城主になった直後、加藤清正の母・伊都の縁により、清正は秀吉の小姓となっています。
天正4年(1576年)、170石を拝領しています。
北近江の名門で、宇多源氏佐々木氏の流れを汲む山崎片家の娘を正室として迎えます。
加藤清正の記録上の初見は、天正8年(1580年)、秀吉の知行宛行状です。
天正10年(1582年)、加藤清正は、備中高松城の戦いの前哨戦にあたる、冠山城攻撃の先駆けとなって活躍し、竹井将監という人物を討ち取ります。
同年6月、本能寺の変にて秀吉の主君・信長が亡くなり、弔い合戦である山崎の戦いに清正も従軍しています。
天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いでは、秀吉方として参じながら寝返った山路正国(柴田勝豊の家老)を討ち取ります。
武功を挙げたことで「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石を拝領していますが、清正自身は「賤ヶ岳の七本槍」の話題を嫌ったようです。
賤ヶ岳の戦いにて、織田家筆頭家老・柴田勝家を自害に追い込み、天下人に近づいた秀吉ですが、譜代家臣がいません。
そこで、自身の家臣を大げさに宣伝したと思われ、当時から違和感のようなものがあったのかもしれません。
天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康との間で戦になり、小牧・長久手の戦いが起きると、わずか150名の手勢を連れて参陣しています。
羽柴秀吉から期待されていた清正の役割は、豊臣政権の財務官僚であり、その後の戦も後方支援などに尽力しています。
天正13年(1585年)、羽柴秀吉(翌年に豊臣賜姓)は近衛前久を説得して猶子となり、従一位関白に就任しています。
羽柴秀吉の関白就任に伴い、加藤清正は従五位下・主計頭に叙任するものの、未だ大名ではなく秀吉の旗本武将という位置づけであったと思われます。
翌年、秀吉の要求を拒否した九州の島津攻めが始まり、加藤清正も従軍し平定しています。
肥後半国の大名になる
天正15年(1587年)、肥後国人一揆を招いたとして、肥後一国を与えられていた佐々成政が失脚します。
加藤清正は、肥後国人一揆に上使として派遣されています。
佐々成政の跡を受け、加藤清正は肥後北半国19万5,000石を秀吉から与えられます。
かつて加藤清正は、和泉国などの代官に任命され、統治業務を経験していたこともあり、大名に抜擢されたのかもしれません。
因みに、肥後南半国を与えられたのは、小西行長です。
加藤清正と小西行長は、境界線をめぐり争ったともいわれ、後の朝鮮出兵などでも対立が見られます。
大名になった加藤清正は、聚楽第城下に屋敷を与えられています。
その後、佐々成政から受け継いだ隈本城を、天守を備えた城郭に整備して熊本城としています。
加藤清正は優れた政治手腕を発揮しており、熊本城下を幾度となく襲った白川の治水事業に着手し、城下町を洪水から守っています。
また、水を貯える堰を築くなどし、田畑を白川の水で潤しています。
産品化した田麦は、南蛮貿易の決済に当てられたり、道づくりににも尽力しています。
加藤清正は、熊本の礎をつくた偉人として現在でも地元で愛され、清正公さん(せいしょうこうさん/せいしょこさん)と呼ばれています。
天正17年(1589年)、小西行長領で天草五人衆が反乱を起こすと、加藤清正は小西行長と共に平定しています。
武功を挙げた文禄の役(朝鮮出兵)
豊臣秀吉は、明に代わり東アジアの中心的存在になろうと、明国征服を計画します。
明国侵攻の先導役を朝鮮に命じますが、拒否されたため、日本軍は朝鮮半島に上陸して侵攻していきます。
また、加藤清正、小西行長、黒田長政ら九州の大名には、朝鮮出兵の拠点となる肥前国名護屋城の築城などの負担も課せられています。
文禄元年(1592年)、文禄の役(朝鮮出兵)と呼ばれる朝鮮での戦争が勃発します。
加藤清正が大名に出世し、大軍を率いるようになってから、初めての大きな戦です。
加藤清正は二番隊(先鋒第二軍)主将として出兵し、相良頼房、鍋島直茂らを配下に置いています。
朝鮮半島の釜山に上陸した加藤清正勢は、先鋒第一軍を率いて先に上陸した小西行長勢と競うように慶州を落とします。
朝鮮国の首都・漢城攻略
その後、小西行長勢と朝鮮国の首都・漢城攻略を競い、南大門から漢城に入城します。
北大門から攻め入った小西行長勢と共にを漢城(現在のソウル)を占領しています。
漢城を放棄した朝鮮軍は体勢を立て直し、加藤清正隊の前哨部隊を包囲します。
知らせを聞いた加藤清正は、素早く隊の主力部隊を率いて駆けつけると挟み撃ちにし、ほぼ単独で大勝しています。
朝鮮王子2名を生け捕る
加藤清正は、共に北上していた小西行長ら一番隊、黒田長政ら三番隊と別れ咸鏡道(北朝鮮)に向かい、海汀倉の戦いに勝利しています。
また、加藤清正は、咸鏡道で朝鮮王子2名を捕らえています。
しかし、連戦連勝を続けた日本軍の快進撃も陰りを見せ、明から援軍を得た朝鮮軍による反撃が始まります。
明・朝鮮軍の攻撃に、一番隊や三番隊は苦戦します。
反撃により一番隊や三番隊の進撃が止まる中、加藤清正ら二番隊の進んだ道は敵軍が少なく、順調に侵攻しています。
日本本国では、一番隊や三番隊の苦戦が伝わっていたため、加藤清正の報告を嘘ではないかと疑念を持ったようです。
当然、加藤清正は反発し、朝鮮出兵の奉行を務めた石田三成や、小西行長に不信感を持った可能性が指摘されています。
加藤清正は、朝鮮の国境を越えて女真族(満州)のオランカイまで侵攻します。
「オランカイ(女真族)」の戦力を試す目的があったようで、日本軍は優位に戦を進めるものの、報復攻撃に悩まされて撤退しています。
加藤清正は明への侵攻ルートを探っていたと思われ、オランカイから明に侵攻するのは無理であると秀吉に報告しています。
オランカイに行っていた加藤清正は、日本軍の軍評定に参加できませんでした。
小西行長ら一番隊の退却の報を聞いた三成ら朝鮮出兵の奉公衆(秀吉の名代)は、加藤清正ら二番隊に咸鏡道からの撤退を命じています。
加藤清正は、朝鮮王子2名を連れて、仕方なく漢城へ撤退します。
この時、日本軍がいなくなった咸鏡北道で朝鮮人の義兵が蜂起しますが撃退しています。
和平交渉
加藤清正は、朝鮮王子を連行して秀吉に謁見させようと考えていたようです。
しかし、後に王子は和平交渉の材料とされ、あっさりと朝鮮側に返還されることになります。
文禄2年(1593年)6月、第二次晋州城の戦いで加藤清正は、黒田長政と共に第一隊に属します。
加藤清正配下の家臣と黒田長政配下の家臣らが一番乗りを競い晋州城を落としています。
日本軍は深刻な兵糧不足に陥り、日明間で和平交渉が行われています。
秀吉の提示する講和条件では、明、朝鮮共に受け入れ難く、小西行長は秀吉の命令に背いてでも、和議を結ぼうとします。
小西行長と対立
この頃、加藤清正は、小西行長との対立も表面化していて、仲たがいした際に、行長のことを「卑しい商人」と罵っています。
加藤清正の存在が和平交渉の妨げになると判断した小西行長は、清正の朝鮮出兵での罪を秀吉に訴えています。
加藤清正の罪とは、勝手に豊臣姓を名乗り「豊臣朝臣清正」と署名したこと、加藤清正の家臣が和平交渉の妨害になったことなどです。
加藤清正 蟄居
小西行長の訴えに石田三成も同調し、加藤清正は朝鮮から召還されています。
加藤清正は、朝鮮出兵にて華々しい戦功を挙げていますが、罪状行為はあったため、帰国後は蟄居の身となってしまいます。
この時、加藤清正は切腹や改易の可能性もあったともいわれています。
増田長盛が清正と三成を和解させようとしましたが、清正は拒否したようで、三成に恨みを抱いたと見られています。
このように、加藤清正と石田三成・小西行長の対立が、後の関ヶ原の戦いに繋がったといわれています。
文禄5年閏7月13日(1596年9月5日)、慶長伏見地震が発生し、伏見で蟄居していた加藤清正は、一番乗りで伏見城の秀吉を救い、謹慎を解かれたという「地震加藤」の逸話があります。
ですが近年の研究で当時、加藤清正は伏見や京には居なかったと思われるようになり、少なくても「一番乗り」で駆け付けたのではなさそうです。
加藤清正が大坂にいた可能性はあるので、大坂から秀吉のもとへ向かい、逸話のように秀吉との関係を修復した可能性はあるようです。
慶長の役(朝鮮出兵)
日明の和睦交渉は決裂し、再出兵し慶長の役が始まります。
慶長2年(1597年)、小西行長は左軍の先鋒、加藤清正は右軍の先鋒となります。
小西行長は、清正の上陸予想地点を秘密裏に敵に教えて、清正を討つよう仕向けたようですが、罠だと考えた敵は動かなかったようです。
加藤清正と小西行長の対立は深刻だったことが窺えます。
慶長の役(朝鮮出兵)は、朝鮮半島南部を押さえ、拠点となる城郭を建設する目的があったといわれています。
侵攻した加藤清正らは、目的通り慶尚南道蔚山で蔚山倭城の築城を開始します。
蔚山城の戦い
蔚山倭城完成が近くなった12月、加藤清正が出張の中、明・朝鮮軍57,000人に蔚山倭城が包囲されます。
浅野幸長・太田一吉が反撃して苦戦する中、急報を聞いた加藤清正は蔚山に帰還し、蔚山倭城内に籠ります。
当時、明・朝鮮軍は、加藤清正を日本軍の中で最強の武将であると認識していて、清正を捕らえれば日本軍の戦意を削げると考えたようです。
蔚山倭城は完成前の城で兵糧・水共に少なく、餓死者がでるなど過酷な戦いでしたが、加藤清正は援軍到着まで約10日ほど耐えて、勝利に導きます。
慶長3年(1598年)9月、再度、蔚山倭城は攻撃に晒されます。
篭城準備ができていたため、一度目よりは苦戦せずに撃退しています。
加藤清正は、朝鮮の民衆から「鬼上官」と恐れられ、朝鮮出兵の際に虎を退治をしたという伝説まで生まれています。
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は、豊臣秀頼の行く末を顧みながら、その生涯を閉じました。
豊臣秀吉の死を隠しながら、豊臣政権の五大老・五奉行のもと、朝鮮半島から日本軍の撤退が進められます。
加藤清正らは、朝鮮で飢えや寒さに耐えながら、命を賭けて戦をしていますが、何の恩賞もなく疲労感や喪失感の残る戦になったようです。
清正 前田利家に見方する
秀吉没後の豊臣政権は、伏見城を拠点に五大老・五奉行の合議制で政権が運営されています。
秀頼に対する忠節は上辺だけの徳川家康は、秀吉の遺命に背いて福島正則・蜂須賀家政・伊達政宗と縁組を強行し、前田利家・石田三成らから非難されています。
家康・利家の両屋敷に諸大名が集結する騒動に発展しますが、加藤清正は前田利家の元へ駆けつけています。
前田利家は、豊臣秀頼の傅役を務めていて、家康と並ぶ大老の上首でもあり、豊臣政権の要といえる人物です。
しかし、慶長4年(1599年)3月28日、前田利家が病没すると勢力の均衡が崩れます。
大阪で執り行われた利家の葬儀の後、加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政ら七将が石田三成襲撃を企てます。
朝鮮出兵における査定などで、三成に恨みを持っていた武断派武将らが三成を討ち取ろうとした事件です。
危険を察知した三成は、伏見にある自身の屋敷に籠るなどしたため、討ち果たすことはできませんでした。
徳川家康の調停により、石田三成は奉公職を罷免の上、佐和山城に隠居の身となります。
清正 徳川家康の婿となる
同年4月、加藤清正は、徳川家康の養女で水野忠重の娘・清浄院(かな姫)を継室として迎え、家康の婿となります。
秀吉の死後、権力闘争が渦巻く中、徳川方につく決意をしたものと解釈できそうです。
次の天下人を見定めて近づき、加藤家や家中の家族の生活を守ろうとしたのかもしれません。
加藤清正は、豊臣家の忠義を終生忘れなかったともいわれますが、忠義だけでは自らの身の上は保証されない厳しい時代ですね。
ですが、加藤清正が徳川家康の勘気に触れる出来事が起きます。
島津氏の重臣・伊集院氏が主家である島津氏に反旗を翻し、島津家中最大の内乱に発展しています(庄内の乱)。
徳川家康が事態の収拾を図っていましたが、反乱を起こした伊集院氏に加藤清正が物資の援助を行っていたことが発覚しました。
怒った徳川家康は、加藤清正に上洛を禁じ、その後の上杉征伐への従軍も認めませんでした。
ただ、加藤清正の懇願により、清正の家臣を上杉征伐に派遣しています。
上杉征伐に向かう道中、石田三成らが挙兵した為、上杉征伐は中止なり、徳川家康は加藤清正の加勢を認めています。
その後、加藤清正は関ヶ原の戦い本戦には参加していませんが、黒田軍と共に出陣し、西軍(敵)についた小西行長や立花宗茂の城を開城させるなどし、西軍勢力を破り勝利に貢献しています。
関ヶ原の戦い後、加藤清正は小西行長領であった肥後南半を加増され、肥後一国の大大名に出世しています。
豊臣清正になる
慶長8年(1603年)、加藤清正は、豊臣姓を下賜されます。
先に述べたように、加藤清正は、朝鮮出兵の際に勝手に豊臣姓を名乗り、咎めを受けています。
その為か、豊臣秀吉は、羽柴姓も豊臣姓も清正に与えることはありませんでした。
皮肉なことに、征夷大将軍となった徳川家康の奏上により、豊臣姓を与えられたようです。
榊原家と政略結婚
慶長11年(1606年)、加藤清正は、徳川四天王の一人・榊原康政の嫡男・康勝へ、長女のあまを輿入れさせます。
加藤清正と榊原康政は、徳川家康が三河に居た頃から懇意にしていた間柄です。
しかし、榊原康政が急逝し、跡を継いだ康勝の後見人に清正がなっています。
榊原家を自身の家かのように守ろうと心を砕く、加藤清正の書状が残されています。
慶長14年(1609年)、徳川家康の十男・徳川頼宣と加藤清正の娘・八十姫の婚約が決まります。
加藤清正はとても喜んだようで、翌年、名古屋城の普請に協力する際、重要な天守閣の石垣を単独で完成させています。
加藤清正は、名古屋城以外にも相次ぐ徳川家の普請に従事し、要望以上の役目を果たしているそうです。
費用は大名側の負担となるものですが、将軍家の信任を得て、加藤家を残したいという気持ちの表れかもしれません。
二条城の会見
慶長16年(1611年)、二条城において徳川家康と豊臣秀頼の会見がつき従います。
加藤清正は、娘の婚約者・徳川頼宣の護衛役としてつき従い、両者の和解を斡旋しています。
二条城会見が終わり、熊本に帰る途中の船内で発病し、そのまま回復せず熊本で没しています。
享年50歳。
病気であったとも、二条城の会見で料理に毒を盛られたともいわれますが、定かではありません。
また、家康の命令を受けた平岩親吉が豊臣秀頼の饅頭に毒を盛って、加藤清正が秀頼を庇って饅頭を食したとの逸話もあります。
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