石田三成の肖像画

石田三成の肖像画について書いています。

津軽杉山家に伝わる三成の肖像画、田中吉政の子孫が奉納した三成の肖像画についてです。

目次

津軽杉山家に伝来した三成の肖像画

現在、石田三成の肖像画として知られているのは、津軽杉山家に伝来した肖像画です。

石田三成の肖像画
石田三成の肖像画

津軽杉山家とは、石田三成次男・石田重成を祖としています。

関ケ原の戦いでの敗報を聞いた石田重成は、三成に恩義のあった津軽氏に助けられ、陸奥国津軽に逃れたといいます。

津軽家の保護を受け、杉山源吾と改名して、やがて家臣になっています。

石田三成の菩提寺を弔う為、製作された肖像画であると伝わります。

緑色の小袖に群青色の肩衣袴姿で、腰に脇指を差しています。

小袖には「大吉大一大万」の紋所、右手は扇を握っています。

元となった絵画があったと思われますが、肖像画は江戸時代前期に模写されたと見られています。

長浜城歴史博物館によると、原本は桃山時代末期に製作されたのではないかと見立てています。

津軽杉山家の子孫が書いた『石田三成の生涯』によると、明治時代に、三成の肖像画を所蔵する津軽杉山家に歴史家の人達が訪ねてきたそうです。

しかし、当時は、三成の肖像画は、本物であると断定はされなかったようです。

津軽杉山家に伝来した三成の肖像画を初めて見た時、人の良さそうな初老の人という感想で、驚いたことを覚えています。

当時の私が知っている石田三成の肖像画とあまりに違っていた為です。

もう一つの三成の肖像画

筆者が学生として歴史を学んだのは、昭和から平成にかけてです。

当時、三成の肖像画といえば、下の写真でした。

石田三成の肖像画
石田三成の肖像画

津軽杉山家に伝来した肖像画とは別人のように感じます。

明治33年(1900年)、関ケ原の古戦場で法要が営まれた際、祀られた東西総大将の肖像画の一枚です。

三成の菩提を弔う為に、田中吉政の子孫・左門が龍潭寺に奉納したそうです。

関ヶ原の戦いで敗北した三成は、古橋村にあるオトチの岩窟に隠れていたと伝わります

おとちの洞窟
おとちの洞窟(石田会館のパネル)

追手が迫る中、匿ってくれた村人を説得して、田中吉政に捕縛されたと云われています。

その田中吉政の子孫が奉納した三成の肖像画は、絵師・岸勝の作だそうです。

なぜ田中吉政の子孫が奉納したのか

三成が捕縛される少し前に、三成の居城・佐和山城は落城しています。

落城前、佐和山城を守っていた三成の兄・石田正澄の自害(石田一族の自害とも)を条件に、佐和山城の将兵を助命する和議の交渉が成立していたそうです。

ですが、田中吉政含めた諸将は、佐和山城の大門を破って突入し、石田一族だけでなく女人、老人もことごとく自害したと伝わります。

田中吉政は、和議の交渉が進んでいたことを知らなかったそうです(『真説 石田三成の生涯 』)。

田中吉政の子孫がどうして石田三成の肖像画を奉納してくれたのかと思った時、佐和山城落城のエピソード、捕縛のエピソードを思い浮かべました。

このような経緯を田中吉政の子孫は聞いていたのかもしれないと。

田中吉政は、捕縛した三成にニラ粥を振舞うなど丁重に対応したそうです。

石田三成は、お礼に秀吉から賜った「石田貞宗」という脇差しを田中吉政に授けたと伝わります。

無銘貞宗(石田貞宗)
無銘貞宗(石田貞宗) 出典元:Wikipedia

敵になっても、二人とも、近江の出身で、元は豊臣家の家臣同士、憎み合っていたわけではないのだろうと思います。

田中吉政の子孫が奉納した三成の肖像画は、津軽杉山家の肖像画とは全然違いますね。

「龍潭寺がコッソリ保管していた三成の肖像画があり、参考にして描かれたそうですが、経年劣化で絵が分からなかった」という趣旨の情報を見た記憶があり、どの本か探しましたが見当たりません。

おそらく想像で書いた肖像画なので、津軽杉山家の肖像画とは違うのだと思います。

石田三成は鋭い目つきで、とっつきにくそうに見えます。

どうしてこの肖像画になったのか、個人的な所感ですが、「横柄」だという三成評からイメージした顔と、頭の頭巾は逸話からとったのだろうと考えます。

頭巾を被った石田三成の逸話

石田三成は、徳川家康が大坂城に登城してくるので、頭の頭巾を外して丁寧に接するよう浅野長政から指示されます。

その時、三成は暖をとっていて、浅野長政の言うことを聞きません。

怒った浅野長政は、三成の頭巾をとって火中に投げてしまいました。

石田三成の復顔肖像画

石田三成の遺骨は発掘され、遺骨を分析し描かれた肖像画もあります。

下の写真に扇子を持った三成の肖像画がありますが、科学で再現された三成の肖像画です。

長浜城歴史博物館のポスター
長浜城歴史博物館のポスター

明治40年(1907年)、大徳寺三玄院にある石田三成のお墓の発掘が行われています。

一体分の骨が揃っていましたが、頭蓋骨は損傷していたそうで、丁寧に接合して復元されています。

遺骨は写真に撮られ鑑定されており、さらに三成の頭蓋骨の石膏模型も作られています。

調査した結果、石田三成は優男の骨格であったそうです。

極端な反っ歯でもあったと見られますが、当時の人に良く見られる特徴だそうです。

三成の頭の形は長頭で、現代人では見慣れない位の長頭であったと思われます。

当時の男性の平均身長は160センチだそうですが、三成の身長は156センチ(プラス・マイナス1センチ)と推定されています。

石田三成の身長は、特別低くないと思いますが、女性かと思う位華奢な骨格な為、猛々しい戦国武将のイメージとは離れるかもしれません。

また、没年齢である41歳相当であり、虚弱体質であったようです。

関ヶ原の戦い後、石田三成は追ってから逃れ洞窟などに身を潜めていましたが、お腹を壊していたそうで、なる程そうかもしれないと思いました。

その後、石田多加幸氏の依頼により、「石田三成科学複元像」がつくられ「蘇った三成の顔」として発表されています。

三成公の複顔像
三成公の複顔像(パネルは石田会館

「蘇った三成の顔」は、眉が太くて意志が強そうな顔に見えますが、津軽杉山家の肖像画に似ているとも思います。

新聞にも掲載されていたようですが、管理人は「石田三成科学複元像」の写真を所持していません。

石田多加幸氏の『新説 石田三成 ―備中石田家との関係―』などに掲載されています。

『新説 石田三成 ―備中石田家との関係―』によると、奥様が石田三成の子孫だそうです。

昭和55年(1980年)、石膏復顔を元に石田三成の復顔肖像画が製作されています。

石田三成の復顔肖像画は、長浜城歴史博物館・大阪城天守閣・大徳寺三玄院・備中石本家が所蔵しているそうです。

参考・引用・出典一覧

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