賤ケ岳の戦いを簡単にわかりやすく解説

賤ケ岳の戦いは、本能寺の変から1年足らずで起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦です。

織田家勢力を二分するほどの大きな戦となり、賤ヶ岳の戦いを制した羽柴秀吉は、天下人への道が開かれました。

賤ヶ岳の戦いについて、なるべく簡単にわかりやすく書いています。

目次

賤ヶ岳の戦いの背景

賤ヶ岳の戦いが起きた背景には、「本能寺の変」と「清州会議」があります。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家は、共に織田信長の家臣でした。

しかし、天正10年(1582年)6月、本能寺変が起き、織田信長と信長の長男・織田信忠が明智光秀に討たれてしまいます。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)
『本能寺焼討之図』(楊斎延一作)出典元:Wikipedia

当時の織田家筆頭家老に位置していたのは、賤ヶ岳の戦いの敗軍の将・柴田勝家です。

柴田勝家は、本来であれば主君の仇討ちをするため、弔い合戦を主導すべき立場です。

しかし、柴田勝家は、本能寺の変が起きた時、織田軍の総大将として、越中で上杉軍と戦の最中でした。

その後、本能寺の変の報に接した柴田勝家は、全軍撤退して北ノ庄城へ戻り、明智光秀征伐の計画を立てています。

ですが、本能寺の変を知った上杉軍に煽られ、柴田勝家は身動きがとれなくなります。

ようやく柴田勝家が出陣し、途中まで進軍した頃、羽柴秀吉によって明智光秀は討たれています。

一方、本能寺の変当時の羽柴秀吉は、織田信長の命を受け毛利方の備中高松城攻めの最中でした。

本能寺の変を知った秀吉は、備中高松城主の切腹を条件に毛利と和睦します。

一刻も早く上洛し、信長の仇討ちをするためです。

羽柴秀吉軍は、備中国(現・岡山県)から京に向けて、脅威的な速さで移動し、本能寺の変から11日後に明智光秀を討ち果たしています(山崎の戦い)。

清州会議

そして、山崎の戦いから2週間後、織田家の後継者や領地再分配に関しての会議が開かれます(清須会議)。

本能寺の変で亡くなった信長の長男・織田信忠は、既に織田家の家督を譲られていました。

信長とその後継ぎも亡くなっていた為、織田家の後継者をどするのかという問題があったようです。

また、織田信長の次男・織田信雄、三男・織田信孝は、共に後継者であると主張しています。

そのような中、織田家宿老に位置していた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4名で会議を行っています。

通説によると柴田勝家は、三男・織田信孝を推していましたが、羽柴秀吉は織田信忠の嫡男で、織田信長の嫡孫でもある三法師(3歳)を推薦したそうです。

明智光秀を討ち果たした秀吉の功績は大きく、丹羽長秀や池田恒興も秀吉の意見に賛成したため、三法師が織田家家督を継ぎます。

豊臣秀吉の肖像画
豊臣秀吉 出典元:Wikipedia

織田信雄、信孝は三法師の後見人となり、堀秀政が傅役としてつき、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興は補佐するという体制になりました。

また、柴田勝家が信孝を推したのは創作で、三法師が家督を継ぐことに異論はなく、三法師が成人するまでの「名代」についての会議であったとする説もあります。

秀吉派と反秀吉派に二分される

いずれにせよ、羽柴秀吉は、天下人かのように振舞うようになっていきます。

織田家家中は、秀吉に従う者と秀吉に反発する柴田勝家らとで、二分されることになります。

同年10月、羽柴秀吉は、清洲会議の決定を反故にし、丹羽長秀、池田恒興と話し合いの末、織田信雄を織田家の後継者にして主従関係を結んでいます。

因みに、徳川家康も織田信雄を支持し、祝意を示しています。

柴田勝家は羽柴秀吉の違反を非難しますが、翌月には和睦しています。

秀吉 長浜城攻略

同年12月、和睦を破棄した秀吉による攻撃が始まります。

織田信孝は秀吉に反目して柴田勝家に近づき、三法師(清州会議で決めた後継者)を岐阜城に留め置いています。

三法師奪還を大義名分にして、羽柴秀吉、織田信雄は挙兵しています。

織田信雄擁する羽柴秀吉と織田信孝を後援する柴田勝家の戦です。

柴田勝家
柴田勝家 出典元:Wikipedia

羽柴秀吉は、近江・長浜城を攻撃して、大谷吉継に城将・柴田勝豊を調略させます。

柴田勝豊は、柴田勝家の養子でしたが冷遇されていたそうで、長浜城ごと羽柴方に寝返ります。

柴田勝家の領土は北陸で、既に雪深くなり出陣できずにいました。

一方、岐阜城にいた織田信孝は、わずか数日で降伏しています。

滝川一益の挙兵

天正11年(1583年)正月、柴田勝家方の滝川 一益は、挙兵して北伊勢の諸城を攻略し、伊勢国の長島城で秀吉を迎え撃ちます。

翌月、雪に阻まれ動けずにいた柴田勝家は、ようやく近江に向けて出陣します。

賤ヶ岳の戦い

同年3月、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと共に約3万人の兵で近江国柳ヶ瀬に布陣しています。

羽柴秀吉は、滝川一益が籠城する伊勢国の長島城を包囲しており、伊勢と近江の2方面に敵を抱えることになります。

そこで、織田信雄と蒲生氏郷の軍勢に伊勢国の長島城を任せた秀吉は、約5万の大軍を率いて木ノ本に布陣しています。

しかし秀吉と勝家両軍、直ぐに戦にはならず、陣地や砦を築くなどしています。

秀吉方の丹羽長秀も派兵し、戦線は膠着します。

賤ヶ岳
賤ケ岳

羽柴秀吉は、戦に備えるため、一部の兵を率いて長浜城に入ります。

同年4月、降伏していた織田信孝が滝川一益と組んで、再度挙兵したとの知らせを受けます。

羽柴秀吉は、近江、伊勢、美濃の3方面での戦を強いられ、美濃の織田信孝から潰すことを決めます。

美濃へ兵を進めた秀吉ですが、途中で河川の反乱に遭い、大垣城に入っています。

佐久間盛政が秀吉方の砦を急襲

羽柴秀吉の軍勢が近江を離れた隙をついて、柴田勝家方の佐久間盛政は、大岩山砦を急襲して陥落させ、中川清秀を討ち取っています。

その後、佐久間盛政は黒田孝高(官兵衛)隊、高山右近隊を攻撃し、孝高隊は耐えましたが、右近隊を退却させています。

柴田勝家は、成果を得て再三にわたり退却するよう命令しますが、佐久間盛政は従いません

佐久間盛政は、勇猛さから鬼玄蕃と称される程の人物ですが、羽柴秀長の陣を討とうと準備していたようです。

前線に陣取った佐久間盛政は、賤ヶ岳砦を守備する秀吉方の桑山重晴に降伏勧告をするなど、賤ヶ岳砦の陥落も近いと思われました。

しかし、秀吉方の丹羽長秀隊が現れ、降伏すると思われた桑山重晴隊と合流して、攻撃します。

美濃大返し

そして、美濃の大垣にいたはずの秀吉が猛スピードで近江国木之本の戦場まで戻ってきました(美濃大返し)。

中川清秀が守る大岩山砦が陥落したという情報を得た羽柴秀吉は、約52kmの道のりを5時間で移動したと言われています。

羽柴秀軍のあまりの速さに佐久間盛政は驚いたと伝わりますが、佐久間盛政は奮戦し激戦になります。

前田利家の離脱

柴田勝家軍3万の内、5千の兵を率いていた前田利家が、戦わないまま突然、戦線を放棄します。

佐久間盛政隊、柴田勝家本隊の士気が一気に下がり、盛政隊と勝家本隊の連絡も断たれます。

逃げ腰になったところで秀吉の軍勢に追撃された佐久間盛政隊は、ついに撃破されています。

羽柴秀吉の軍勢は、柴田勝家本隊に襲い掛かり、多勢に無勢の状況下で、勝家本隊は総崩れになります。

柴田勝家の自害

柴田勝家は、北ノ庄城に帰城するものの、羽柴秀吉の軍勢に包囲されています。

羽柴秀吉は、生け捕りにした佐久間盛政を晒し者にして、柴田勝家方の戦意を削いだそうです。

その後、燃え盛る城の中、柴田勝家は妻で信長の妹であるお市の方と共に、自害して果てています。

お市の方と浅井三姉妹の像
北ノ庄城の本丸跡地

頼りにしていた柴田勝家を失った織田信孝は、織田信雄の軍勢に岐阜城を包囲され、開城します。

織田信孝は、織田信雄の命令により自害しています。

秀吉の内々の意向により自害したともいわれますが、秀吉に対する激しい怒りを感じる辞世が残されています。

最後まで抵抗した滝川 一益の守りは強固で、伊勢の長島城に籠り孤軍奮闘した後、7月に降伏しています。

賤ヶ岳の七本槍

賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた兵の内、福島正則、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、加藤嘉明、平野長泰、糟屋 武則は、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれています。

賤ヶ岳の七本槍は、「一番槍」として称えられ、秀吉から恩賞や感状を与えられています。

賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将らは、その後、豊臣政権の有力の武将となっていきます。

羽柴秀吉は、低い身分から織田家政権下で台頭した人物で、有力な譜代家臣がいないため、自らの家臣を宣伝するためのものとも見られています。

福島正則

福島正則の母は、秀吉の叔母に当たる人物です。

賤ヶ岳の戦いの一番槍、一番首という功績により、賤ヶ岳の七本槍の中でも一番多い5千石の知行を与えられます。

後に11万3千余石を得て、豊臣氏の「准一門」として遇されています。

関ヶ原の戦いでは、東軍について安芸、備後49万8千石の大名になりますが、後に改易され失意の中没しています。

福島正則
福島正則 出典元:Wikipedia

加藤清正

加藤清正は、母を介して豊臣秀吉と親戚関係にあります。

賤ヶ岳の戦いの功績として3千石、後に19万5千石を秀吉から拝領しています。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康に味方し、肥後一国52万石の領主になっています。

脇坂安治

脇坂安治は、賤ヶ岳の戦いの功績により、山城国に3千石を与えられています。

その後、3万3千石の大名となり、関ヶ原の戦いで徳川家に寝返って、5万3,500石に加増移封されています。

片桐且元

片桐且元は、賤ヶ岳の戦いにより、摂津国内に3千石を与えられ、秀吉の直参衆になります。

豊臣家家老として秀頼にも仕え、豊臣と徳川家の調整に奔走し、大坂夏の陣の直後に病で没しています。

加藤嘉明

加藤嘉明は、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3千石の所領を与えられています。

その後も、順調に加増され、秀吉の晩年には約10万の大名となっています。

関ヶ原の戦いで家康方について、やがて会津43万5千石を得ています。

平野長泰

平野長泰は、賤ヶ岳の七本槍の中では、あまり出世していないかもしれません。

賤ヶ岳の戦いの戦功を賞されて、河内国で3千石を得ています。

その後、5千石に加増され、豊臣姓も下賜されています。

糟屋武則

糟屋武則は、賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政配下の武将を討ち取った功績により、3千石の所領を与えられています。

後に、加古川城主1万2千石の知行を得ています。

関ヶ原の戦いで西軍に属して改易されています。

賤ヶ岳の七本槍は、本当は9名だったようです。

賤ヶ岳の戦いで戦死した石川一光、豊臣秀長の家臣であった桜井家一は除外されています。

賤ヶ岳の戦いの先懸之衆

また『一柳家記』によると、最前線で武功を挙げた「先懸之衆」として石田三成大谷吉継、一柳直盛など14名の名前があるそうです。

参考・引用・出典一覧
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