近衛前久は、足利将軍の従兄弟で関白でありながら、戦に従軍する破天荒ぶりでも知られています。
上杉謙信と血書の起請文を交わし、島津氏に古今伝授をしたり、織田信長と仲良く鷹狩りし、家康の徳川姓の創姓に関わり、豊臣秀吉を猶子にもしています。
輝かしい人生ですが、本能寺の変の黒幕として疑われたり苦労もする近衛前久の生涯の話です。
近衛前久 18歳の若さで関白に就任
近衛前久は、藤原道長の流れを汲む近衛稙家の長男として、天文5年(1536年)に京都で生まれました。
近衛家は、公家の五摂家の中でも筆頭に位置する家柄です。
母は、和泉下守護・細川高基(ほそかわ たかもと)の娘、叔母は室町幕府・12代将軍足利義晴の正室。
この輝かしい家系のためか、18歳の若さで関白や左大臣、藤氏長者(藤原氏の代表者)に、翌年には従一位になりました。
関白とは公家の最高位の立場にあり、天皇を補佐する官職です。
皇族を除いて一番家柄が良い人ということになります。
当時の近衛家の本宅があった場所は、現在の同志社大学 新町キャンパスがある場所であると伝わります。
天皇の御所から程近い場所に、1万6000平方メートルという広大な広さを持つ近衛屋敷跡が残されています。
ここまでは、エリートなお坊ちゃまという感じですが、近衛前久は中々面白い人物でもあります。
元服した頃の名前は、足利将軍家から「晴」の字をもらい「晴嗣」と名乗っていました。
ですが後に、「晴」の字を捨てて、前嗣(さきつぐ)と改めるという…勇気のある人物です。
盟友・上杉謙信と血書の起請文を交わす
また公家でありながら、戦国武将との交友関係もありました。
その一人が長尾景虎(後の上杉謙信)で、親しい付き合いがあったと伝わります。
上杉謙信は、朝廷や幕府を敬う姿勢を示していたので、近衛前久(前嗣)と懇意になるのも頷けます。
永禄2年(1559年)、上杉謙信は、関東平定の許しを得る為に上洛します。
上洛した際、近衛前久(前嗣)と将軍・足利義輝の三人で、朝までお酒を酌み交わした記録が残っています。
翌日も上杉謙信と足利義輝は、お酒を共に楽しんだようですが、近衛前久は二日酔いの為、誘いを断っています。
意気投合した近衛前久(前嗣)と上杉謙信は、血書の起請文を交わして盟約を結んでいいます。
自身の血で文字をしたため、神仏に誓うことで決意を示した物です。
関東平定に同行したいと願う近衛前久(前嗣)は、血書の起請文に上杉謙信に二心を持たないことを誓っています。
上杉謙信には、強力な軍事力があり、近衛前久(前嗣)には関白という権威があります。
上杉謙信に関白がつくことで、関東平定がスムーズに進むと考えたと見られます。
上杉謙信が関東を平定したら、前久は謙信と共に上洛し、室町幕府を立て直す計画があったのではないかという説があります。
近衛前久は、天下の安寧を願っていたと云われていますので、有り得る話だと思います。
当時、武士が台頭し、所領を奪われた公家は没落していた時代ですので、公家の存在感を示す意味もあったでしょうか。
それにしても、朝廷の最高位である関白在任中の公家が、京を離れ東国に行くこと自体、前代未聞のことです。
その上、頼まれてもいないのに前久の意思で下向したのですから、正に型破りな関白と言えそうです。
近衛前久の関東下向
近衛前久(前嗣)を擁する上杉謙信は、関東の城を次々攻略し、次第に軍勢も膨れ上がれ破竹の勢いで進軍します。
近衛前久(前嗣)は、上杉謙信の関東平定を助ける為に、越後(新潟)、上野(群馬)、下総(千葉)に赴くなど積極的に活動しています。
ですが、関東平定を目前にしたところで、甲斐の武田信玄が侵攻してくるとの情報を得た為、上杉謙信は越後に帰還してしまいます。
上杉謙信が、越後に戻っている間、前久は危険を承知で下総の古河城に残り、情勢を報告しており…なんとも勇敢な公家だと思います。
しかし、上杉謙信という後ろ盾を失った前久は、多くの寝返りに遭い、関白という権威だけでは何も出来ない現実を思い知ることになります。
その後、上杉謙信と武田信玄の間で起きた、第四次川中島の戦いが起き、謙信の活躍は近衛前久(前嗣)の耳に入ります。
上杉謙信にお祝いの書状を送りますが、この頃に名前を「前嗣」から「前久」にしたようです。
度胸のある公家は、珍しいと思いますが、花押まで公家様式から武家様式に変更しています。
近衛前久の心は武士だったのでしょうか、謙信以外の武士にも信頼される人物だったようです。
近衛前久は半年もの間、古河城にいて、謙信の関東平定を助けましたが、謙信の関東平定は成果が得られず、帰洛を決意します。
上杉謙信は慰留したようですが、永禄5年(1562年)、近衛前久は謙信の承諾がないまま京へ帰ってしまい、謙信は腹を立てたと伝わります。
近衛前久は期待が外れ、失望して帰京したと云われています。
近衛前久 事実上の追放
永禄8年(1565年)、近衛前久の人生を左右する、永禄の変が起きます。
三好家の実権を握る重臣・三好三人衆は、将軍の権威を利用しようとしていましたが、将軍・足利義輝は操り人形になりませんでした。
そこで足利義輝を亡き者にし、義輝の従兄弟・足利義栄を次の将軍に据えようとしていたのです。
足利義輝を滅ぼしたものの、罪に問われることを恐れた三好三人衆は、近衛前久を頼ることにしています。
先に述べたように、近衛前久と足利義輝は、朝まで酒盛りをしたこともある仲で、従兄弟でもあります。
また幕府を支える為に前久は、義輝の元を頻繁に訪れていたようで、内心は協力したくなかったかもしれませんが、前久は受け入れます。
近衛前久の姉が足利義輝の正室でしたが、姉を保護してくれたことが理由で、前久は味方になったと云われています。
逆らえず協力したのかもしれませんが、三好三人衆の望み通り、前久は足利義栄が将軍になる許可をしたのです。
しかし、この許可が元で、足利義栄の後に将軍になった足利義昭から、あらぬ疑いをかけられます。
足利義栄の味方をした前久は、足利義輝の死にも関わっているのではないか、と思われてしまいました。
近衛前久が三好三人衆らに逆らえば、おそらく身の危険があり、足利義昭もそう理解していただろうと思われますが、近衛家のライバルである、前関白・二条晴良が足利義昭に接近し、前久の追い落しを謀ったとも云われています。
近衛前久は京を去り、子の明丸(近衛信尹)に家督を譲り、義昭の怒りを抑えようとしたそうです。
そして、正親町天皇や織田信長も執り成しますが、前久は事実上の追放処分になりました。
近衛前久 赤井直正らを頼る
近衛前久は、妹婿の赤井直正を頼り、丹波国・黒井城の麓にある下館に身を寄せたと云われており、現在の興禅寺が下館跡であると見られています。
後に本願寺の顕如を頼り、身を寄せますが、前久は関白を解任されて、足利義昭の推薦により、二条晴良が再度関白に就いています。
この頃、信長の回りは敵だらけで、「信長包囲網」が形成され、近衛前久も参加しています。
ただ、近衛前久の目的は、信長ではなく、幕府や朝廷での対立により、足利義昭と二条晴良を排することにあったと云われています。
当時、近衛前久が頼っていた本願寺は、信長と敵対し包囲網の一角を担っていましたので、仕方なかったかもしれません。
実際に、元亀4年(1573年)、足利義昭が京を追われ、二条晴良が信長から疎んじられると、再び赤井直正の元に戻った前久は、信長包囲網から抜けています。
因みに、赤井直正の居城・黒井城の麓にある興禅寺には、近衛前久が設計したと云われている庭が現存しています。
「心」の字を型取った池だそうで、「心字池」と呼ばれています。
島津氏に古今伝授を行う
天正3年(1575年)2月、織田信長の手助けにより、近衛前久は京に戻ることを許されました。
足利義昭は既に追放され、近衛前久と対立していた、関白・二条晴良が織田信長を怒らせたこともあり、前久の帰京を邪魔する者もいません。
織田信長は広い人脈を持ち、交渉能力も高い近衛前久を評価し、見込んでいたそうで、前久にとっても信長という後ろ盾を得るのは、絶好の好機ではないでしょうか。
また、近衛前久は、信長なら天下を太平に出来るのではないかと期待していたと云われています。
同年9月、信長に依頼された近衛前久は、薩摩の島津義久の元へ下向しています。
畿内を平定した信長は、中国地方の毛利輝元を討つ計画を立てており、大友宗麟・義統父子の協力を得て挟撃しようと考えていました。
しかし、薩摩の島津氏と豊後などを治める大友氏は、戦の最中であり、両者の和睦が目的で前久が赴いたのです。
近衛前久は、島津氏からは歓待されたものの、交渉は難航しました。
ですが、近衛前久が島津氏に、和歌の「古今伝授」(こきんでんじゅ)を行うと一転します。
古今伝授とは、『古今和歌集』の解釈を師から弟子に秘伝として伝えるもので、公家の中でも限られた者にしか伝授されない和歌の奥義です。
公家文化として知られる和歌は、当時は武士の嗜みであり、島津の武士も好んで和歌を詠んでいました。
古今伝授を受けた島津氏は、近衛前久の要望に応え、大友氏と和睦しました。
また、島津氏と相良氏を和睦させ、伊東氏と大友氏の戦も停止させています。
天正5年(1577年)、役目を果たした前久は、事実上の追放以来、ようやく帰洛したのです。
織田信長とは鷹を自慢し合う仲
かつて、上杉謙信と肝胆照らし合った近衛前久ですが、織田信長とも仲良しだったようです。
鷹狩りという共通の趣味があり、信長に鷹を贈ったり、お互い捕まえた鷹を自慢し合ったそうです。
少しの供を連れ、前久と鷹狩りを楽しんだ信長は、その場で1,500石の加増を決めたとか。
公家の領土としては、破格の待遇だそうです。
近衛前久は、『鷹百首』という専門書を記す程鷹に詳しかったようで、信長との話も弾んだのではないでしょうか。
天正6年(1578年)、近衛前久は、准三宮(じゅさんごう)という朝廷で高い待遇を受けます。
信長と本願寺を和睦させる
天正8年(1580年)には、織田信長が大喜びする功績をあげます。
織田信長の天下統一を阻んだ石山本願寺、住職の顕如とは10年以上にわたって争っていました。
本願寺を滅亡させるのは難しいと判断した信長は、講和を望んでいましたが、信長を恨む本願寺は応じません。
近衛前久は、織田信長と本願寺の仲介を名乗り出ます。
織田信長は、近衛前久が本願寺と交渉したことを必ず守るという朱印状を書いています。
近衛前久は住職・顕如の信頼を得ている人物で、約束を破らないという前久を信じた本願寺は、信長と和睦し開城しました。
この手柄を喜んだ信長は、天下を統一したら、近衛家に一国を献上すると約束したそうです。
天正10年(1582年)2月、近衛前久は太政大臣に任じられます。
当時の太政大臣は、長年朝廷で高位を担った人に授ける名誉職でした。
ですが何故か、同年5月には辞任しています。
一説には、織田信長に太政大臣を譲るつもりだったとも云われています。
信長の甲州征伐に従軍する
その後、織田信長は甲州征伐という武田勝頼を滅亡へ追い込む戦をします。
その中でも、1582年(天正10年)3月は、天目山の戦いにて武田勝頼が自害した戦いです。
その3月の甲州征伐に、近衛前久は織田信長と同行したそうです。
このように、公家で従軍する近衛前久は珍しく、「変わり者」とも云われ、「破天荒」なイメージに繋がっています。
長宗我部元親を擁護する
また信長は、四国の長宗我部元親に戦で勝って領土を得ることを認めていましたが、勝ち取った領土を三好氏に返すように迫りました。
長宗我部元親は明智光秀と関係が深く、本能寺の変を起こした一因「四国説」に結びつくと近年、注目されています。
近衛前久は、明智光秀とも親しかったと云われていますが、一緒に長宗我部元親の擁護をしていたことが、前久自身の書状から判明しました。
この件については、別の記事に書いています。
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四国政策転換は本能寺の変の遠因だった!?~長宗我部元親と四国説~
近衛前久は本能寺の変の黒幕!?
1582年(天正10年)6月、本能寺の変が起き、前久の願った太平の世が遠のいてしまいます。
近衛前久は、信長を失ったばかりでなく、ここでもあらぬ疑いをかけられます。
近衛邸から明智軍が本能寺を銃撃したという噂が流れ、織田信孝や羽柴秀吉(豊臣秀吉)に問い詰められています。
また、明智光秀は信長を自害に追い込んだ後、二条新御所にいた織田信忠を襲撃していますが、近衛前久邸の屋根から攻撃したと『信長公記』に書かれています。
吉田兼見の日記『兼見卿記』によると、近衛前久成敗の噂が流れ、剃髪して嵯峨に隠れたそうです。
このように、近衛邸が使用されたことで、近衛前久を本能寺の変の黒幕と疑う説があるようです。
また、本能寺の変の直後に、近衛前久は出家して京を出たこと、本能寺の変の5日後に宴会を開いたことが、黒幕説を後押ししています。
ですが、織田信長と親しい間柄であり、徳川の世になってからも、信長の命日に追悼句会を開催していることからも、黒幕説は否定的な見方が多いようです。
前久自身の書状によると、佞人(よこしまな者)に仕組まれたようです。
しかし、近衛前久は居場所を失い、榊原康政の仲介を得て徳川家康を頼り、遠江国浜松に行きます。
翌年、徳川家康の取り成しにより、秀吉の誤解が解いてもらい、京に帰りますが秀吉に許されてはいませんでした。
近衛前久が秀吉に許されるのは、後に起きる小牧・長久手の戦いの頃です。
因みに、永禄9年(1566年)、徳川家康は、朝廷の許可を得て、松平から徳川に改姓していますが、近衛前久が徳川姓の創姓に関わっています。
秀吉を猶子にする
また、この頃、島津義久にいずれ薩摩に行く旨、書状を書いています。
近衛前久は島津家に、織田信長や徳川家康に献上する鷹、自身が所有する鷹を譲り受けていたようで、鷹を催促する書状が残されています。
義久の弟・島津義弘が、近衛前久に猫を贈ったという話もあるそうです。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康が対立すると奈良へ逃れ、二人が和睦をしてから京へ戻りました。
多くの戦国武将と交流のあった近衛前久ですが、豊臣秀吉とも親子関係を結びました。
豊臣秀吉は近衛前久の猶子になり、関白という公家の最高位になることで、天下を手中に収めたのです。
形式上とはいえ、前久は天下人の父という立場になりました。
前久の子・近衛信尹の反対を押し切って秀吉を猶子にしたのは、実力者の秀吉が権威を持つことで天下が治まると期待した為だといいます。
秀吉は暫くしたら、関白職を返す約束をしたそうですが、後に甥の豊臣秀次に譲っています。
その後、天下を平定した秀吉ですが、2年後、朝鮮出兵が行われ数万人の犠牲者を出します。
関白職が武士に移った上、日本が平定されても海外で血を流すという現実に前久は、何を思ったでしょうか。
徳川氏と島津氏を和睦させる
豊臣の世は長く続かず、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ケ原の戦いが起きると、前久は中立の立場を取ります。
関ヶ原の戦いを制した徳川家康と親交もあった近衛前久ですが、今度こそ穏やかな世を期待したのではないでしょうか。
しかし、家康に敵対した島津義久の弟・義弘は、徳川家康に徹底抗戦の構えを見せます。
強力な軍事力を持つ島津氏と徳川家康の戦となれば、多くの犠牲者が出かねません。
近衛前久は井伊直政とら共に仲介役を担います。
前久の子・近衛信尹も島津氏と懇意にしており、信尹を通じて島津義久に手紙を出すと、態度を軟化させます。
先に述べたように前久自身も島津と懇意にしており、古今伝授を授けた際の絆もあり、近衛前久からも島津の所領安堵されるよう動くことも伝えています。
1年交渉した後、無事に和議が結ばれました。
島津氏は近衛前久に恩義を感じ、後に近衛家を支援しています。
近衛家の栄華を見届けて没す
その後、徳川家康は幕府を開き、関白職は前久の嫡男・近衛信尹が就きました。
一時は、関白職は代々豊臣家が継いでいくかに思ったかもしれませんが、近衛家が任官する嬉しい知らせです。
慶長16年(1611年)、前久の娘で、後陽成天皇女御になっていた近衛前子が生んだ皇子が即位して後水尾天皇になりました。
近衛前久は天皇の祖父になったのです。
この様に近衛前久は、武士のような心を持った人ですが、五摂家筆頭の貴族だけあり優れた文化人でもありました。
和歌、連歌、暦学、書道、馬術、有職故実(ゆうそくこじつ)、放鷹(ほうよう)などにも才能を発揮しています。
慶長17年(1612年)、享年77歳でその生涯を閉じました。
近衛前久の子孫については別の記事にかきました☟。
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