築山殿(瀬名姫)は、徳川家康の正室ですが、家康の命を受けた家臣によって命を奪われています。
天下人の正室であるのも関わらず、意外な最期かもしれません。
築山殿(瀬名姫)は悪女で、徳川家康を悩ませており、その上、甲斐の武田氏と内通していたというのが広く知られた説です。
ただ、築山殿(瀬名姫)の最期については、今でも多くの謎が残っており、本当に武田と通じていたのかも定かではありません。
この記事では、築山殿(瀬名姫)の生涯について書いています。
築山殿は今川の姫
築山殿(瀬名姫)の父は、関口親永(氏純)と言われていますが、親永の兄・瀬名氏俊であるとの説もあります。
父として有力視されている関口親永は、今川氏の流れを汲む瀬名氏貞の次男で、関口家の養子になった人物です。
関口親永は、今川氏の重臣で、当主の今川氏親(義元の父)から偏諱を賜り「親永」と名を改めています。
築山殿(瀬名姫)の母は、今川義元の妹か養妹とも言われていますが、伯母との説もあります。
いずれにせよ、築山殿(瀬名姫)は今川氏一門の姫ということになりますし、義元の姪との説が広く知られているようです。
築山殿(瀬名姫)の生年は分かりませんが、徳川家康は天文11年(1543年)生まれです。
徳川家康と同い年であるとも、2歳上であるとも一廻り以上年上であるとも言われています。
また、築山殿の名前は不明で、幼名は鶴姫とも言われますが、本当か分かりません。
築山殿と呼ばれる所以は、後に岡崎市の築山(菅生郷築山)に居住したことによります。
築山に居住する前は、駿河御前と呼ばれていたようです。
また、瀬名氏の姫であることから瀬名姫、築山御前とも言われています。
西来院所が所蔵する築山殿の肖像画は、近代に描かれた創作であると思われす。
当時の姿を知ることは出来ませんが、築山殿(瀬名姫)は色白で美人な女性であったと伝わります。
築山殿 松平元信に嫁す
弘治3年(1557年)、今川氏当主である今川義元の意向により、築山殿(瀬名姫)は松平元信(後の徳川家康)と結婚しています。
松平氏は三河の岡崎城主ですが、弱体化し今川氏の支援を受け、松平元信(徳川家康)は今川氏の人質として駿府に留め置かれていました。
「元信」という名前は、今川義元の偏諱を受けて名乗っています。
築山殿(瀬名姫)の立場で見れば、人質との結婚となりプライドが傷ついたかもしれません。
何故、不釣り合いに思える結婚を今川義元は進めたのか。
今川義元は、松平一族の棟梁である元信を一族衆に入れ、三河を掌握しようとしたと思われます。
築山殿(瀬名姫)が松平元信に嫁した2年後の永禄2年(1559年)、元信の長男(嫡男)・松平信康を出産しています。
築山殿 家康の離反で窮する
永禄3年(1560年)、築山殿(瀬名姫)にとって衝撃的なことが起きます。
後ろ盾であった今川義元が桶狭間の戦いで討たれてしまったのです。
その約2週間後、築山殿(瀬名姫)は、夫不在の中、駿府で亀姫を生んでいます。
また、松平元康(元信から改名)は駿府に戻らず、松平氏の拠点であった岡崎城に帰還しています。
築山殿(瀬名姫)は、今川義元を亡くした上に、駿河国に残され今川氏の人質のような状態になってしまいます。
一説には、今川氏真が父・義元の仇を討てるよう、今川と織田の間に壁をつくる意図があったとも言われています。
松平元康(徳川家康)は、今川義元の嫡子・今川氏真に敵討ちを進言するものの、氏真に動く様子がなく、見捨てたとも言われています。
この話が本当なのか、それとも今川義元が討たれた混乱に乗じて、今川氏から独立を目指したのか分かりません。
いずれにせよ、松平元康(徳川家康)、今川氏から離れています。
松平元康(徳川家康)は、今川氏と同族である吉良氏に攻撃を仕掛けるなどし、今川氏真を怒らせています。
永禄4年(1561年)、松平方の人質11人から14人を処刑しており、串刺しにしたとも言われています。
また、松平元康(徳川家康)は、叔父・水野信元を仲介役として、敵対していた織田信長と和睦し、同盟を結んでいます。
先に述べたように、築山殿(瀬名姫)は、今川氏の姫ですが、今川の人質状態の身になってしまいます。
更に、夫である元康が、今川氏の宿敵である織田信長と結んだことで窮地に陥っています。
永禄5年(1562年)3月、築山殿(瀬名姫)の父である関口親永は、家康(元康から改名)の去就に腹を立てた今川氏真から切腹を命じられ、正室と共に果てたと言われています。
築山殿と人質交換
松平家康は、今川氏の重臣・鵜殿長照が籠る上ノ郷城を攻撃して長照を討ち取り、子の鵜殿氏長・氏次を捕らえています。
家康の家臣・石川数正が今川氏真と交渉し、生け捕りにした鵜殿氏長・氏次と築山殿(瀬名姫)らの人質交換を認めさせています。
ただ、築山殿(瀬名姫)と家康の子供である松平信康・亀姫も人質状態であった為、一人足りません。
家康は、母・於大の方に頼んで、自身の子である松平康俊(家康の異父弟)を人質に出させています。
人質交換により、築山殿(瀬名姫)は岡崎へ移りますが、岡崎城内ではなく岡崎城郊外の築山で幽閉状態の身になります。
岡崎城に居住しなかった理由として、松平家康から離縁されたとも言われています。
松平家康に服属していた松平家忠が記した『家忠日記』に、築山殿(瀬名姫)を示す敬称が「信康御母さま」となっているそうです。
「御前さま」という正室を示す敬称ではないことから、今川氏から離反した家康に離縁されたとの説があります。
徳姫のいる岡崎城に居住する
永禄10年(1567年)5月、息子の信康が信長の娘・徳姫を娶ります。
9歳同士の結婚ですが共に岡崎城で暮らし、信康は同年7月に元服しています。
信康の名前を使ったのは、元服した後ですが、「信」の字は信長から偏諱を受けています。
元亀元年(1570年)、信康が正式に岡崎城を譲られ、築山殿(瀬名姫)は嫡男の生母として岡崎城に入城しています。
また、徳川家康(徳川に改正)は遠江国へ移り、浜松城を築いて拠点としています。
天正2年(1574年)、築山殿(瀬名姫)は、家康の妾として承知していなかったお万の方(小督局)が於義伊(のちの結城秀康)を身ごもったことで、浜松城内から退去させています。
築山殿(瀬名姫)は正室として、側室を承知するか権限を持っています。
一方、徳川信康と徳姫は、当初は仲睦まじかったようで、天正4年(1576年)に登久姫、天正5年(1577年)に熊姫が生まれています。
しかし、男子に恵まれないことを案じた築山殿(瀬名姫)は、武田家旧臣の娘2人を信康の側室として迎えています。
築山殿(瀬名姫)と徳姫の仲は、悪かったようです。
築山殿(瀬名姫)から見れば、後ろ盾であった今川義元を討ち取った信長の娘です。
また、徳姫の立場に立てば、築山殿(瀬名姫)は宿敵である今川の血をひく人物であり、更に嫁姑の立場もあります。
築山殿(瀬名姫)と徳姫は、仲が悪くても仕方ないかもしれません。
築山殿 武田と内通を疑われる
天正3年(1575年)、松平信康の家臣・大岡(大賀)弥四郎が武田勝頼に内通する事件が起き、弥四郎が鋸引きの刑に処せられます(大岡弥四郎事件)。
築山殿(瀬名姫)は、大岡弥四郎事件の裏で暗躍したとも言われますが、定かではありません。
天正7年(1579年)、徳姫は築山殿(瀬名姫)と信康の罪を訴える十二ヶ条の訴状を父・信長に送ります。
また、『家忠日記』によると、徳川信康と徳姫の仲も悪かったようです。
徳姫は、築山殿(瀬名姫)の愚痴や信康の非道さなどを伝えていますが、信長にとって無視できないことも書かれています。
甲斐の武田勝頼が徳川信康に味方し、織田・徳川を滅亡に追い込み、信康を主に据えるということです。
武田勝頼の元へ送られた使者は、減敬という甲州浪人医師で、築山殿(瀬名姫)の密通相手だそうです。
築山殿(瀬名姫)は、徳川家康が今川氏を離反し、両親が亡くなるキッカケをつくったとして、家康を恨んで武田と内通したと言われています。
ですが、築山殿(瀬名姫)に武田と通じる外交力があったのか、疑問視もされています。
少なくとも、確かな文献に減敬との密通や武田との内通を示すことは書かれていないそうです。
織田信長は、徳川家の重臣で使者である酒井忠次を問いただしますが、忠次は信康を庇わず認めた為、信長は信康の自害を求めたと言われています。
一方、築山殿(瀬名姫)の処分について、信長は何も要求していません。
築山殿の最期
築山殿(瀬名姫)は、岡崎城から浜松城に向かう途中で、命を落としたと言われていますが、最期については定かではありません。
一説には、築山殿(瀬名姫)は、徳川家康に命じられた野中重政によって、自害を求められますが拒んだそうです。
築山殿(瀬名姫)が応じなかった為、中野重政に首を斬られたという説があります。
一方、覚悟を決めていた築山殿(瀬名姫)は、死装束に身を包んでおり、自ら命を絶ったとも言われています。
築山殿(瀬名姫)の生年は不明ですので、享年も分かりません。
遠江国の佐鳴湖付近にある小藪村にて築山殿(瀬名姫)を暗殺した野中重政は、この地にあった池で刀についた血を洗ったと伝わり、「太刀洗の池跡」として碑石が建っています。
築山殿(瀬名姫)の首は、織田信長の元に届けられており、後に、息子である信康は二俣城で自害しています。
真実は分かりませんが、築山殿(瀬名姫)は冤罪であるとも言われます。
徳川家康と信康の対立が原因であるとも、築山殿(瀬名姫)・信康親子が、徳姫と仲たがいしたことを問題視されたとも言われています。
つまり、築山殿(瀬名姫)と信康を亡き者にしようとしたのは、徳川家康であるとも言われています。
信康は信長にとって娘婿になりますので、家康が信長の承認を得たとも言われています。
築山殿 首塚
築山殿(瀬名姫)の首は、安土城にいる信長に見せた後に岡崎に埋められています。
当初、罪人である築山殿(瀬名姫)に墓所はなく、榎を目印にした塚があったようです。
その後、築山殿(瀬名姫)の霊を慰める為、岡崎市の祐傳寺境内に築山神明宮が建てられています。
江戸時代に、岡崎市の八柱神社に合祀され、現在、築山殿(瀬名姫)の首塚は、祐傳寺と八柱神社にあります。
また、築山殿(瀬名姫)の胴体は、殺害現場であった御前谷に埋められますが、江戸時代になって掘り起こした遺骨を浜松市の西来院に移してお墓が建てられています。
築山殿の子孫
築山殿(瀬名姫)の息子である松平信康(死後に松平に格下げ)には、登久姫・妙高院(熊姫)・萬千代、3名の子供の存在が確認できます。
登久姫と妙高院(熊姫)の生母は、織田信長の娘ですので、お二方の子孫は築山殿(瀬名姫)の子孫であり、信長や家康の子孫でもあります。
【小倉藩主】
登久姫は、父・信康が没した後に、徳川家康や側室(西郡局)に育てられ、秀吉の仲介で小笠原秀政(信濃守護大名の孫)に輿入れしています。
その後、徳川方として、関ヶ原の戦いで武功を挙げた小笠原秀政は、信濃国に8万石を領しています。
家督を継いだ次男の小笠原忠真は、豊前国小倉に加増移封され、小倉藩の初代藩主になっています。
その後、何度も養子を迎えていますが、いずれも登久姫の血を引いていることから築山殿(瀬名姫)の子孫でもあります。
小倉藩主として明治維新を迎えた小笠原忠忱は、知藩事職を経て貴族院議員となっています。
【平八郎家 (忠勝の家系)】
松平信康の次女・妙高院は、本多忠勝の嫡男である本多忠政に嫁しています。
本多忠政は、忠勝系本多家宗家2代目ですが、忠勝系本多家宗家は何度も養子を迎えています。
6代目の本多忠国は、水戸松平氏からの養子ですが、母が小笠原忠真の娘です。
先に述べたように、小笠原忠真の生母は登久姫は信康の娘ですので、築山殿(瀬名姫)の子孫でもあります。
その後、7代目の時に断絶の危機を迎えますが、幕命により養子を迎え系譜をつないでおり、築山殿(瀬名姫)の子孫は続きます。
8代目の本多忠良は老中職を務め、10代目は信濃国松代藩主・真田家から本多忠盈を養子として迎えています。
本多忠盈は、本多忠勝の来孫ですが、築山殿(瀬名姫)の子孫ではなさそうです。
11代目も養子ですが、本多忠敞の長男で築山殿(瀬名姫)の子孫でもあります。
12代目は、本多忠盈の次男が養子として家督を継承しており、築山殿(瀬名姫)の子孫ではありません。
本多家宗家は、播磨国・大和国・下総国など転封を繰り返しており、12代の頃は財政難に悩んだようです。
13代と14代も築山殿の子孫ではなく、15代目の本多忠民は築山殿(瀬名姫)の子孫です。
本多忠民は高松松平家からの養子ですが、登久姫(築山殿の孫)の息子・小笠原忠真の娘の血を引いています。
16代目である本多忠直は、信濃小諸藩主・牧野氏からの養子ですが、築山殿(瀬名姫)の娘・亀姫の血を引いており、築山殿の子孫になります。
本多忠直は、明治時代に貧しい民の救済、文武の奨励をした人物です。
17代目が岡崎藩最後の藩主・本多忠敬も養子ですが、祖先は徳川家康や紀州徳川家で、築山殿の子孫ではなさそうです。
また、本多家宗家ではありませんが、平八郎家の本多忠籌も築山殿(瀬名姫)の子孫です。
江戸幕府の老中格で寛政の改革を推進した人物でもあります。
養子問題で本多家宗家に争いが起きた際、調停もしています。
【本多忠刻(千姫の夫)】
豊臣秀頼の正室は千姫(家康の孫)ですが、秀頼没後、千姫は本多忠刻と結婚しています。
本多忠刻は妙高院の長男ですので、築山殿(瀬名姫)の曾孫になります。
本多忠刻は美形であったと伝わりますが、千姫が一目惚れしたとの逸話があります。
寛永3年(1626年)、本多忠刻は病没しており、弟の政朝が忠勝系本多家宗家を継いでいます。
【15代将軍・徳川慶喜】
本多忠刻と千姫の娘・円盛院(勝姫)の子孫に、徳川治紀(7代水戸藩主)と徳川斉昭(9代水戸藩主)がいます。
徳川斉昭の七男が江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜です。
大政奉還や江戸無血開城などで知られる徳川慶喜は、築山殿(瀬名姫)の子孫になります。
【奥平松平家】
家康と築山殿(瀬名姫)の長女・亀姫は、奥平信昌の正室です。
奥平信昌と亀姫の4男・松平忠明は、家康の孫で養子でもあり、松平姓を許され名乗っています。
松平忠明は、奥平松平家を興した人物です。
奥平松平家は、摂津大坂藩・大和郡山藩・播磨姫路藩・出羽山形藩主など転封を切り返しながら、武蔵忍藩主として明治維新を迎えています。
途中、奥平松平家6代目・松平忠功は、紀州徳川家から迎えた養子で、7代目もその弟になり築山殿(瀬名姫)の子孫ではなさそうです。
その後、8代目から11代目の松平忠国(江戸時代後期の藩主)までは、築山殿(瀬名姫)の子孫です。
【奥平忠昌】
また、亀姫の長男は奥平家昌という人物で、家昌の長男は奥平忠昌です。
「忠」の字は、大叔父・徳川秀忠から偏諱を賜ったものです。
奥平忠昌は築山殿(瀬名姫)の曾孫にあたり、下野宇都宮藩主、下総古河藩主を務めた人物です。
築山殿(瀬名姫)は、罪人とされましたが、長女の亀姫や孫らは徳川一門衆として遇されていたことが分かります。
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