知将として名高い石田三成ですが、三成といえば三献茶によって出世した武将、というイメージがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この三献茶のエピソードはとても有名で、地元の長浜市では三献茶のシーンの銅像まで建てられています。
今回は、三献茶の意味、三献茶の真偽、三献茶の読み方などについての記事です。
三献茶の逸話
まず三献茶とはどのような逸話だったのでしょうか。
江戸時代の歴史書である『武将感状記』』(『砕玉話』)に書かれていますが、『武将感状記』を基に現代語に分かりやすく直します。
石田三成は、ある寺の童子でした。
当時、織田信長の家臣として長浜城主であった羽柴秀吉(豊臣)は、鷹狩をした帰りに喉が渇いて、途中にあったお寺に立ち寄ってお茶を頼んだと云います。
そのとき対応した寺の童子は、若き日の石田三成です。
石田三成が、最初に持ってきたのは、大きな茶碗七・八分に入ったぬるめのお茶です。
秀吉は喉が渇いていたので、お茶を一気に飲み干し、舌を鳴らします。
心地よいので、もう一杯お茶を頼むことにしたそうです。
そして三成は、さっきより、少し熱いお茶を半分ほど入れて持ってきました。
秀吉はそれをまた飲み干し、三度目の茶を所望します。
そして最後に、小姓が出したお茶は、小ぶりの茶碗に、より熱いお茶を少し入れたものです。
この心意気と気の利く三成の働きにとても感動した秀吉は、寺の住持に願い近習として取り立てました。
秀吉の元で才能を発揮した三成は、やがて奉公職に出世したそうです。
三献茶の意味
この三献茶とは石田三成が15歳の時に、後の主君である豊臣秀吉に、三杯のお茶を点てた際の石田三成の気配りができる様子から、豊臣秀吉が石田三成の才能を見出し、豊臣秀吉に請われて士官したと伝えられている話です。
秀吉は何故、この三杯のお茶がきっかけとなり、三成を家臣に取り立てたのでしょうか。
三献茶の意味するところを書きます。
三成が最初にぬるいお茶を沢山持ってきたのは、秀吉の喉の渇きを察して、沢山飲めるように配慮した為と云われています。
そして少しずつ熱いお茶にして、量も減らしていきます。
こうすることで、飲み過ぎずに喉を潤しながら、お茶の味も楽しめるように配慮したのではないかと思われます。
また当時、寺の小僧であった三成が、長浜城主という位の高い人に対して、物怖じせずに機転を利かせた度胸も見込まれた理由かもしれません。
石田三成といえば、武力より知略というイメージの方も多いと思いますが、三献茶の逸話は正に三成の賢さを後世に伝えるものになっているように思います。
「三献」の意味
そもそも「三献」という言葉が聞きなれないように思います。
「三献」とはどのような意味でしょうか。
「三献」とは、中世以降のお酒の席での礼法だそうです。
一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変えるそうですが、そのたびに大・中・小の杯で1杯ずつ繰り返して、9杯の酒をすすめるそうです。
この三献の礼法は戦国時代より以前から存在したものとのことですが、この礼法を基に三献茶の話を創作したかもしれません。
三献茶の読み方
三献茶の読み方について、滋賀県長浜で広く「さんけんの茶」と伝わっているそうです。
「さんげんの茶」とも呼ばれるそうですが、滋賀県のローカルCMで「さんけんの茶」と放送していましたし、「さんけんの茶」で良さそうです。
因みに、「三献」の読み方は、「さんこん」又は「さんごん」です。
三献茶の舞台候補・観音寺
三献茶の舞台になった寺はハッキリしていません。
候補の一つは、滋賀県米原市朝日にある観音寺です。
「水汲みの井戸」が残されていて、三成が秀吉にお茶を献ずる際に使用したそうです。
石柱には「太閤ニ茶ヲ献スル時石田三成水汲ノ池」と書かれています。
三成の生誕の地の石田会館、石田神社から車で10分位だったと思います。
住所:滋賀県米原市朝日1342
電話番号:(0749)58-2227
公共交通 JR長浜駅からバス「観音寺前」下車徒歩約5分
自動車 北陸自動車道長浜ICから車で約10分
駐車場 10台 定休日:無休
三献茶の舞台候補・法華寺
三献茶の舞台候補のもう一つは、法華寺三珠院(三珠院は法華寺の塔頭)で、現在は跡地になっています。
三成の母は岩田氏ではないかと見られています。
三成の母の故郷と伝わるのが、法華寺のある滋賀県長浜市木之本町古橋です。
幼少の頃の三成が法華寺で修行をしたとの伝承があるようです。
関ヶ原の戦いで敗北した三成は、古橋村を頼り匿われますが、幼少期を過ごした法華寺の住職を頼ったとも伝わるそうです。
住所:長浜市木之本町古橋
TEL:0749-65-6521(長浜観光協会)
公共交通 JR北陸本線 「木ノ本駅」 下車 車で10分
木之本インターから12分
無料駐車場有
三献茶の真偽
石田三成の「三献茶」の逸話は、創作の可能性があると思います。
この三献茶の逸話は、正徳6年(1716年)、江戸時代に刊行された『武将感状記』(『砕玉話』)が出典元とされています。
三成は慶長5年(1600年)に亡くなっていますから、亡くなって100年以上も経って出てきた話です。
また『武将感状記』自体、史料的価値は高くはないようです。
石田三成の長男が書き残した『霊牌日鑑』と呼ばれる記録があります。
三成の長男は、石田重家といい、関ヶ原の戦い後は、出家して助命されています。
その石田重家(宗享禅師)の記録には、三成が秀吉に仕えるようになったのは18歳の時という記載があるそうです。
その上、播磨姫路に在陣中に仕官したとなっています。
三献茶の舞台として有力視されているのは、滋賀県米原市ですので、士官したとされる場所も年齢も違うのではないかと思います。
また、『極楽寺系図』という石田家の記録があります。
石田三成の甥に当たるであろう家に伝わる記録ですが、『極楽寺系図』にも18歳の時に姫路で士官したと記載されています。
三成ゆかりの人が残した記録と三献茶の逸話は辻褄が合いません。
石田三成の生年は永禄3年(1560年)ですが、天正5年(1577年)10月に秀吉は播磨国に出陣しています。
数え年で三成が18歳位でしょうか。
この頃に仕えた可能性があるかもしれません。
寺に預けたのは「口減らし」の為!?
徳川家康に歯向かった三成は、江戸時代、散々の評価でした。
逆族として、歪められて人物像が伝わったともいわれます。
ですが、三献茶の逸話は、三成の賢さを表す好意的な話に思えます。
『武将感状記』から二十年後に成立した『常山記談』にも三成の出自の項目があります。
三成は近江の百姓・佐五右衛門の子であると書かれ、家が貧しかったため、寺に預けられたとなっています。
現代では、三成の才能を表す話として受け取られている三献茶の話ですが、三成の生家は「口減らし」をしなくてはならない位貧しい家であるという話だったようです。
また、石田家は坂田郡に代々存在した小土豪の家であり、三成生誕の地の屋敷跡も広く裕福な家だったと推測できます。
ですが、三成は長男ではありませんので、寺に預けられ修行をしていたとしても不思議ではありませんし、真実は不明です。
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[…] 石田三成が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に出会ったエピソードとして広く知られているのは、「三献茶」の逸話です。 […]