石田三成の次女は、「小石殿」と呼ばれていたそうです。
小石殿は、北政所に仕えて、蒲生家の家臣である岡重政に嫁いでいます。
今回の記事は、小石殿と岡重政についての記事です。
石田三成次女・小石殿は岡重政の正室
石田三成と正室である皎月院(こうげついん)との間に生まれた二人目の子供は次女です。
次女の名前は伝わっていませんが「小石殿」と呼ばれていたと伝わります。
『石田三成とその子孫』によると、小石殿は、文禄2年(1593年)9月以前から慶長4年(1599年)8月の間、北政所の元に仕えていたそうです。
また、過去帳に光岳院殿妙和??と記載されていることから、「光岳院」と呼んでいます。
小石殿の詳細は分かりませんが、岡 重政の正室です。
岡重政の足取りと共に、小石殿についてみていきます。
まず岡重政とは、どのような人物が記載します。
岡重政は、若狭国守護大名・武田信豊の曾孫であると伝わります。
武田信豊は、武田信玄の甥で、武田勝頼の従弟に当たる人物です。
岡重政が仕えたのは、名将と名高い蒲生氏郷です。
しかし、文禄4年(1595年)、蒲生氏郷は病没し、13歳の嫡男・秀行が家督を継ぐと、家中が乱れお家騒動が起きます。
お家騒動は、文禄4年(1595年)~慶長3年(1598年)まで続き、蒲生家は会津若松92万石から宇都宮18万石に左遷減封されてしまいます。
大幅に石高が減ったことで、蒲生家では、今までのように家臣を召し抱えられなくなってしまいます。
岡重政に嫁ぐ
一説には、岡重政は上杉景勝の元へ転じ、関ヶ原の戦いの後、蒲生家に復帰したそうです。
上杉家にいた慶長4(1599年)、小石殿が岡重政に嫁いだという説がありますが、定かではありません。
また岡重政は、北政所の筆頭上臈・孝蔵主(こうぞうす)の義理の甥にあたります。
関ケ原の戦い後、三成の居城・佐和山城が落城する時、小石殿の姉(三成長女)夫婦は、孝蔵主によって助けられることになります。
岡重政 蒲生家の家老に
関ヶ原の戦いを経て、蒲生秀行は60万石を拝領し、会津に復帰します。
蒲生家に仕える家岡重政は、津川城代2万石の筆頭家老に、岡重政の父は1万石の長沼城代に起用されたとも伝わりますが、定かではありません。
いずれにせよ、家老を務めたようです。
石田三成の次女・小石殿の詳細は分かりませんが、岡重政と共に会津に居たものと思われます。
その後、岡重政の主君であった蒲生秀行が亡くなり、嫡子である忠郷が家督を継承します。
蒲生忠郷は若干10歳であった為、徳川家康の三女で母親の振姫が後見人となりました。
岡重政は、家老で仕置奉行でしたが、後見人・振姫とそりが合わず、対立するようになります。
そして、蒲生氏郷が没した後のように、蒲生騒動が再び起きそうになります。
振姫は、徳川家康の娘で、徳川秀忠の妹です。
蒲生の家中騒動を心配した徳川家は、法度を示したり、目付を派遣するなど沈静化を図っています。
ですが、岡重政と振姫の争いは続きます。
岡重政の死去と小石殿
慶長18年(1613年)、徳川家康に駿府城に召還された岡重政は、切腹を言い渡されます。
一説には、享年35歳。
後に、振姫は、徳川家康の命により会津から出されることになります。
一方の小石殿は、子供を連れて、会津を離れ若狭国(福井県)へ移り住み、小浜で亡くなったと伝わります。
この時、若狭国に連れて行かなかった子供に岡吉右衛門(おか きちうえもん)という人物がいます。
岡吉右衛門は、当時蒲生家の家臣であった町野幸和夫婦に、保護されていたそうです。
後に、岡吉右衛門は、町野幸和の娘である於多阿(おたあ)と夫婦となります。
産まれた娘は、後に三代将軍・徳川家光の始めての側室・お振りの方(自証院)となります。
その後、寛永14年(1637年)、徳川家光とお振りの方の間に千代姫が生まれ、千代姫は、尾張徳川家の三代・徳川綱誠を産み、その血は現在の皇室にも流れます。
岡一族のその後は、小石殿の妹(辰姫)の縁で弘前藩主・津軽家の保護を受け暮らしたと伝わります。
また、会津若松『極楽寺過去帳』に「無量院殿一相寿卯大禅定尼」という戒名が残されています。
小石殿の母で、三成の正室・皎月院の戒名ではないかと見られています。
小石殿の母は、関ヶ原の戦い後、生存したのか定かではありませんが、生き延びて岡重政のいる会津若松にいたのではないかと推測する説があります。
そうだとすれば、一緒にいたであろう小石殿は、母と共に会津若松で暮らせていたのかもしれません。
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[…] 関ケ原の戦い後は蒲生家に帰参しますが、三成の次女婿である岡重政と対立したことがきっかけとなり、蒲生家を去り藤堂高虎の家臣になったそうです。 […]