織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康、石田三成、朝倉義景、浅井長政、今川義元、上杉謙信など戦国武将達は何歳まで生きたのでしょうか。
有名戦国武将の享年についての記事です。
戦国武将の生涯を簡潔に書いてから、享年をあいうえお順に書いています。
明智光秀の享年
明智光秀の前半生は謎だらけで諸説あるものの、享禄元年3月10日(1528年3月30日)に生まれたとする説があります。
美濃の齋藤道三に仕えますが、斎藤家の内戦により、美濃を追われて越前へ逃れたと伝わります。
朝倉義景、足利義昭に仕え、最終的には織田信長の家臣になります。
その後、坂本城主になり、丹波の平定など目覚ましい活躍を見せ、織田家の重臣に登り詰めます。
しかし、本能寺の変を起こし、織田信長を討ちます。
ですが、わずか11日後に豊臣秀吉に敗れ、天正10年6月13日(1582年7月2)、敗走中に自害して果てます。
享年55(満54歳)。
下の写真は、「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」という明智光秀の辞世の句です。
本当に光秀が残した句か疑問視されていますが、明智一族のお墓のある西教寺に碑石が建てられています。
この辞世の句によると55歳で亡くなったそうですが…、明智光秀の生年は複数の説がありますので、それぞれの享年を書きます。
1516年生まれの場合の享年67(満66歳)。
1526年生まれの場合の享年57(満56歳)。
1540年生まれの場合の享年43(満42歳)。
浅井長政の享年
浅井長政は、浅井久政の嫡男として、天文14年(1545年)に生まれます。
浅井長政が15歳の時に、主従していた六角氏と決別、六角軍を相手に奮戦し家臣の支持を得ます。
父・久政を隠居させ家督を相続し、勢力を拡大させて戦国大名としての地位を確立します。
その後、織田信長と同盟を結成し、信長の妹・市を娶ります。
しかし、信長が「朝倉への不戦の誓い」を破り、浅井家の古くからの同盟相手の朝倉家を討つために越前へ侵攻します。
ここで、浅井長政は織田信長との同盟を解消し、朝倉に加勢して信長を窮地に追い込むも、撤退を許してしまいます。
その後、姉川の戦いにて、浅井・朝倉連合と織田・徳川連合は対決しますが、浅井・朝倉連合は敗北します。
以降も反信長勢力と連携し、信長打倒を試みますが、徐々に追い込まれます。
そして、天正元年9月1日(1573年9月26日)、小谷城の戦いにて自害して果てました。
享年29(満28歳)。
朝倉義景の享年
朝倉義景(あさくら よしかげ)は、越前の戦国大名・朝倉孝景の長男として、天文2年9月24日(1533年10月12日)に生まれます。
16歳の若さで家督を相続した後、足利将軍家との密接な関係を築き、足利義昭を擁(よう)して上洛を求められるものの応じず、好機を逃します。
その後、朝倉義景は織田信長と対立し、元亀元年(1570年)6月28日に起きた姉川の戦いでは、織田・徳川連合に敗北し、多くの支城を失い追い込まれていきました。
天正元年8月(1573年9月)、朝倉義景は再度織田信長と戦になり、一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)が起きます。
この頃には、朝倉義景は家臣の信頼を失いつつあり、ついてこない家臣もいました。
そして朝倉義景は、敗戦濃厚になり一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れていたところ、一族衆の朝倉景鏡(あさくら かげあきら)の裏切りに遭い、天正元年8月20日(1573年9月16日)に自害し生涯を閉じます。
享年41(満40歳)。
越前朝倉氏第11代にて最後の当主になりました。
石田三成の享年
石田三成は、石田正継の次男として永禄3年(1560年)に生まれます。
土豪の出自から、豊臣秀吉に見いだされた石田三成ですが、歴史の表舞台に登場するのは賤ヶ岳の戦いから。
その後、秀吉の出世に伴い三成も出世し、秀吉の天下統一の総仕上げの小田原征伐では、忍城の水攻めを決行しますが失敗に終わります。
頭脳明晰であったという石田三成は、豊臣政権の奉行として活躍し、佐和山城主19万4,000石の大名になります。
豊臣秀吉亡き後は、五奉行の一人として、豊臣政権を支える一方、徳川家康など豊臣政権内で対立が表面化します。
そして、関ヶ原の戦いにて徳川家康方に敗北し、後に捕縛され慶長5年10月1日(1600年11月6日)に亡くなります。
享年41(満40歳)。
今井義元の享年
今川義元は、「海道一の弓取り」、「戦国の雄」と恐れられ、今川氏の全盛期を築き上げた人物です。
駿河・遠江守護大名・今川氏親の子として、永正16年(1519年)に生まれるものの兄がいた為、寺に預けられます。
その後、兄たちが亡くなり、異母兄との争いを制して、家督を継ぎます。
その後、相模の北条氏綱、尾張の織田信秀と領土争いを繰り広げます。
三河の土豪・松平家から人質として竹千代(徳川家康)を迎え入れ、武田氏・北条氏と婚姻関係を結び同盟を結成します。
尾張進出への足掛かりを築き、尾張侵攻を本格化させますが、桶狭間の戦いにて織田信長の急襲を受けて、永禄3年5月19日(1560年6月12日)無念の最期を遂げます。
享年42(満41歳)。
上杉謙信の享年
上杉謙信(長尾景虎)は、享禄3年1月21日(1530年2月18日)、越後守護代で春日山城主・長尾為景(ながお ためかげ)の子として生まれます。
四男であったため、寺に預けられますが、14歳の時に春日山城に戻ると軍略の才能を発揮します。
反乱を鎮圧することで初陣を飾った上杉謙信(長尾景虎)は、越後の国人の信頼を得て、守護・上杉定実の働きかけもあり、後に守護代になります。
その後、上杉定実が亡くなると、将軍・足利義輝から越後守護の代理を命じられ、越後国主としての実権を握ります。
そして、北条氏康、武田信玄から侵攻を受けた勢力に助けを求められ、多くの戦に出陣。
中でも、5回に渡り繰り広げられた川中島の戦いは、12年間に及び「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信の名前を高めました。
その後、関東管領職を譲り受け、越後を平定し、戦において無類の強さを見せるものの、天正6年3月13日(1578年4月19日)病に倒れ亡くなります。
享年49(満48歳)。
織田信長の享年
織田信長は、天文3年5月12日(1534年6月23日)、又は天文3年5月28日に生まれます。
織田信秀の嫡男として生まれ、幼少期は「うつけ者」と呼ばれ、周囲からは風変わりな少年だと思われていました。
しかし父亡き後、弟・信勝との戦いを制して家督を相続します。
永禄3年5月19日(1560年6月12日)には、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)にて、戦国の雄・今川義元を討ち取り、一躍全国に名を轟かせます。
永禄11年(1568年)に、足利義昭を奉じて上洛を果たし、京の事実上の支配者になります。
その後、信長の反対勢力を容赦なく攻撃し、天正3年5月21日(1575年6月29日)に長篠の戦にて、戦国最強と恐れられていた武田家を壊滅状態に追い込みます。
1576年(天正4年)に、天下一の名城とも云われた安土城の築城を開始し、天下統一あと一歩。
しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の謀反により本能寺の変が起きます。
暫く戦った後、肘を負傷し、退くと「女はくるしからず、急罷出よ」と女房衆を逃がし、火をかけて自害して果てます。
享年49(満48歳)。
辞世の句は「敦盛」の一節が伝えられており、「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか 」。
なお、織田信長の遺体は見つかっていません。
徳川家康の享年
徳川家康は、天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日)に生まれ、弱小勢力故に人質生活を余儀なくされます。
しかし、桶狭間の戦いにて今川義元が織田信長に討たれると、岡崎城を奪い返し、今川家から独立を果たします。
その後、織田信長と同盟を結び、家臣のような扱いをうけるものの、着実に領土を拡大させていきます。
織田信長自害後は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対立しますが、最終的には服従し関東へ本拠移転を命じられます。
豊臣秀吉亡き後は、天下人になる野望を達成するため、豊臣恩顧の大名の切り崩しに着手。
そして、関ヶ原の戦いに勝利し、覇権を掌握します。
その後、江戸幕府を開き、将軍職を徳川秀忠に譲った後も、大御所として実権を握り続けます。
ついに、大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、戦国の世に終止符を打ちます。
その後、元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日)に亡くなります。
享年74(満73歳)。
天ぷらによる食中毒により亡くなったと伝わっていましたが、胃癌ではないかとされています。
東照大権現の神号で東照宮に祀られていて、日光東照宮で眠っています。
豊臣秀吉の享年
豊臣秀吉の生年は、天文6年2月6日(1537年3月17)が有力で、天文5年1月1日(1536年2月2日)という説もあります。
確かな史料はありませんが、豊臣秀吉は身分の低い出自というのが通説。
その後、真偽不明ながら、7歳で実父を亡くし、8歳で寺に預けられるものの飛び出し、後に松下之綱に仕えたと云います。
この時、今川家の家臣の家臣の家臣。
その後、織田信長に見いだされ、戦功を挙げて長浜城主になり出世街道を歩みます。
明智光秀、柴田勝家を討伐し、天下人の足掛かりをつかみます。
そして徳川家康と和睦、豊臣性の獲得を経て天下を統一。
その後、中国大陸進出の足掛かりとして、朝鮮に出兵するものの結果を見届けることなく、慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなります。
天文6年2月6日(1537年3月17)生まれなら、享年62(61歳)。
天文5年1月1日(1536年2月2日)生まれなら、享年63(満62歳)。
諸説あるものの病没と見なされています。
死期が近いと悟った秀吉は、豊臣秀頼、豊臣家に行く末を案じ、五大老らに起請文を提出させ、徳川家康に秀頼の後見を依頼し、この世を去りました。
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