茶々(淀殿)はどんな人?波乱万丈な人生について

浅井茶々(淀殿)は、はどんな人でしょうか。

戦国の世とはいえ波乱万丈な生涯を歩んだ女性で、小谷城落城で父・浅井長政、北の庄城落城で母・お市の方を亡くします。

その後、親の仇である豊臣秀吉の側室となり、豊臣鶴松と秀頼を生んでいます。

秀吉亡き後、人生三度目の落城となる大坂城落城で、その生涯を閉じています。

この記事では、浅井茶々(淀殿)の波乱に満ちた生涯について書いています。

目次

浅井茶々(淀殿)の出自

浅井茶々(淀殿)は、北近江の戦国大名・浅井長政お市の方の長女であると伝わります。

一説には、浅井長政の実子ではないともいわれていますが、定かではありません。

お市の方は、織田信長の妹であるといわれますが、従妹との説もあります。

浅井茶々(淀殿)の生年は、永禄10年(1567年)や永禄9年(1566年)説もありますが、現在では永禄12年(1569年)説が有力視されています。

大蔵卿局(大野治長の母)、饗庭局(浅井一族)、大局(前田利家の弟の正室)が、浅井茶々(淀殿)の乳母を務めたことでも知られています。

名称について、一般的に淀殿として知られていますが、本名は浅井茶々であり、浅井菊子という名前も伝わっています。

淀殿(浅井茶々)
浅井茶々 出典元:Wikipedia

小谷城落城と父との別れ

お市の方を娶っていた浅井長政は、織田信長と友好関係を結んでいました。

元亀元年(1570年)、織田信長は越前の朝倉義景を討つ為に、京から越前方面へ進軍します。

浅井氏は朝倉氏に恩義を感じていおり、同盟相手でもあります。

織田信長軍は、朝倉方の天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城を開城させ順調に進軍していましたが、朝倉氏の本拠に侵攻しようとした時、浅井長政とその父・久政が信長を裏切り信長の進路を絶ちます。

浅井長政の肖像画
浅井長政 出典元:Wikipedia

挟み撃ちに遭った信長は、命辛々、京へ逃げ延びますが、こうして浅井茶々(淀殿)の父と叔父は敵対関係になります。

その後、浅井長政は姉川の戦いで信長に敗北し、浅井氏に属していた土豪らの説得工作もあり、劣勢に立たされていきます。

天正元年(1573年)、朝倉氏を滅亡に追い込んだ信長は、浅井氏の居城・小谷城に総攻撃をしかけます。

小谷城攻めに木下秀吉(豊臣秀吉)も従軍しており、浅井久政・長政父子を繋ぐ曲輪を分断させすなどし、久政(淀殿の祖父)を自害に追い込んでいます。

小谷城落城の際、浅井茶々(淀殿)は、母・お市の方、妹・初、妹・江と共に、藤掛永勝に救出され織田家に引き取られています。

お市の方の嘆願により、織田信長は、浅井長政に再従順をするよう最後の情けをかけましたが、拒絶されています。

織田信長の肖像画
織田信長 出典元:Wikipedia

浅井長政は自害し、裏切りから足掛け4年で、戦国大名としての浅井氏は滅亡しました。

また、浅井長政の嫡男・ 万福丸は、信長の命令により秀吉が探し出し、亡き者にされています。

浅井茶々(淀殿)は、お市の方や妹と共に、叔父・織田信包に保護されていたといわれていましたが、叔父で尾張守山城主の織田信次に預けられていたようです。

北の庄城落城 母と今生の別れ

織田信次亡き後、浅井茶々(淀殿)らは、織田信長の岐阜城に移ります。

天正10年(1582年)、本能寺の変が起きて、後ろ盾であった信長が自害して果てました。

お市の方が織田家筆頭家老・柴田勝家の元へ嫁ぐと、浅井茶々(淀殿)ら姉妹も勝家の居城・越前国北の庄城に移ります。

やがて柴田勝家と羽柴秀吉の対立が避けられなくなり、賤ヶ岳の戦いが起きます。

賤ヶ岳の戦いで敗北した柴田勝家は、北の庄城に籠って再起を図ろうとしますが、北の庄城は秀吉軍に取り囲まれます。

天正11年(1583年)、母・お市の方は、柴田勝家と共に自害する道を選び、北の庄城は落城します。

お市の方の肖像画
お市の方 出典元:Wikipedia

お市の方が柴田勝家と再婚してから、わずか半年ほどしか経っていませんでした。

浅井茶々(淀殿)は、二度目の落城で母を失ったことになりますが、義父も亡くしたといえるか分かりません。

柴田勝家が浅井茶々(淀殿)ら三姉妹と養子縁組をして、正式な親子になっていたのか分からない為です。

浅井茶々(淀殿)ら三姉妹は、遥の谷に匿われた後に、羽柴秀吉に知らされたそうです。

その後、浅井茶々(淀殿)らの所在には、諸説ありますが安土城か京に居たと思われます。

一説には、浅井茶々(淀殿)らは、織田信雄の後見を受けたともいわれます。

この間一年ほどですが、浅井茶々(淀殿)は、信長やお市の方の妹・お犬の方に面倒をみてもらったそうです。

また、叔父・織田有楽斎(長益)の保護を受けたとも、浅井長政の姉・京極マリアを頼り、京極竜子に預けられたともいわれています。  

茶々 豊臣秀吉の側室になる

天正17年(1589年)5月、浅井茶々(淀殿)は、秀吉との間の子である捨(鶴松)を生みます。

そこから逆算したのか、側室になった時期は天正16年(1588年)頃ではないかといわれています。

ただ、天正16年説ですと、妹二人の方が先に嫁いでいることにもなり、疑問視する声もあります。

いずれにせよ、豊臣秀吉は捨(鶴松)の懐妊を喜んだと伝わります。

豊臣鶴松の肖像画
豊臣鶴松 出典元:Wikipedia

ルイスフロイス『日本史』によると、秀吉には子種がないと多くの人が思っていて、捨(鶴松)は秀吉の子供ではないと信じていたそうです。

確かにルイスフロイス以外にも、そう思っていた者はいたようで、同年2月、聚楽第落首事件を引き起こしています。

豊臣秀吉を批判する落首が聚楽第の表門にあたる南鉄門に貼り出された事件ですが、浅井茶々(淀殿)の懐妊を揶揄した落首もあったようです。

落首事件により番衆らは残忍な方法で死罪になり、更に本願寺を巻き込んだ騒動に発展しています。

懐妊中の浅井茶々(淀殿)が気兼ねなく過ごせるようにか、秀吉は聚楽第から遠ざけるように、直轄地であった茨木に茶々を呼び寄せていた為、落首事件を茶々が知っていたかは分かりません。

やがて、豊臣秀長の普請により淀古城の改修が終わると、秀吉は産所として淀古城を浅井茶々(淀殿)に与えています。

妙教寺の山門/淀古城の石碑がある
妙教寺の山門/淀古城の石碑がある

現在、浅井茶々が淀殿と呼ばれる所以は、淀古城に因み「淀の方」と呼ばれていたことにあります。

捨(鶴松)は、秀吉の世子として、浅井茶々(淀殿)と共に大坂城に迎えられますが、数え年3歳で病没しています。

両親の菩提を弔う

時間が前後しますが、鶴松を出産した頃、浅井茶々(淀殿)は、長政の十七回忌、お市の方の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせ奉納しています。

豊臣政権に配慮して、浅井茶々(淀殿)の名前は記さなかったようです。

文禄3年(1594年)、浅井茶々(淀殿)は、父・浅井長政、祖父・浅井久政らの二十一回忌に、父母らの供養のため養源院(長政の戒名)を創建しています。

養源院(桃山御殿)
養源院(桃山御殿)

父を偲び、浅井一族である成伯を開祖に建立したと伝わることから、やはり浅井茶々(淀殿)の実父は長政ではないだろうかと思います。

豊臣秀頼の生母となる

文禄2年(1593年)8月、浅井茶々(淀殿)は捨(豊臣秀頼)を出産します。

豊臣秀吉57歳の時の子供で、既に甥・豊臣秀次を後継者と定めていました。

豊臣秀吉は、秀頼と秀次の娘を婚約させ、やがては秀頼に政権が継承されるよう道を模索しています。

豊臣秀頼と秀次の婚約を喜ぶ浅井茶々(淀殿)の書状が残されています。

ですが、文禄4年(1595年)7月、謀反の疑いをかけられた豊臣秀次は、秀吉の命令により自害しています。

豊臣秀次自害の理由は、定かではありませんが、豊臣秀頼を後継者にする為と思われます。

係累の根絶をはかった秀吉は、秀次の子供、継室、側室の他、侍女や乳母まで亡き者にしています。

浅井茶々(淀殿)が生んだ豊臣秀頼が発端となり、痛ましい事件が起きたことは、茶々にとっても耐えがたい出来事だったのではないでしょうか。

因みに、秀頼・鶴松共に、父親は秀吉ではないとする意見があります。

親(浅井氏)の仇である秀吉の側室になったのは、秀吉の子供でない茶々の子(浅井氏)を天下人に据えたかったのではないかという考えもあるでしょうか。

豊臣秀吉
豊臣秀吉 出典元:Wikipedia

浅井長政の生年は天文14年(1545年)で、豊臣秀吉の生年は天文6年(1537年)です。

豊臣秀吉は、茶々の父・浅井長政より年上ということになり、茶々と秀吉は年の差があります。

一説には、32歳差ですが、浅井茶々(淀殿)の生年が定かではない為、不明です。

浅井茶々(淀殿)は、秀吉にどこまで愛情があったのだろうかと疑問ではありますが、本心もまた分かりません。

醍醐の花見

慶長3年(1598年)3月、豊臣秀吉は、京都の醍醐寺三宝院裏の山麓にて、花見の宴を開催しています。

豊臣秀吉の妻子だけでなく、諸大名や女中など1,300人程が集った盛大な花見です。

醍醐寺の桜
醍醐寺の桜

醍醐の花見での輿の順番は、高台院(北政所)・浅井茶々(淀殿)・京極竜子・三の丸殿(織田信長の娘)・摩阿姫(前田利家の娘)・まつ(前田利家の正室)です。

この時、豊臣秀吉の正室・高台院(北政所)の次に杯を受ける順番を巡って、浅井茶々(淀殿)と京極竜子が争ったそうです。

浅井茶々(淀殿)と京極竜子は側室、つまり妾ですが、二人とも秀吉の妻としての待遇を得ていたともいわれています。

特に、浅井茶々(淀殿)は世子の生母として、高台院(北政所)に次ぐ扱いを受けていたようです。

浅井茶々(淀殿)は、豊臣秀頼の生母であるため、優先権があると主張したといわれますが、もっともらしく思います。

一方、京極竜子は浅井氏の主筋であった京極氏の出自であり、秀吉の側室となった時期が茶々よりも早かったことを挙げたと伝わります。

戦国時代の女性は、生家が大事だといわれますが、生家を背負って生きていたことが伝わるエピソードに思えます。

かつて、北の庄城が落城し母を亡くした際、浅井茶々(淀殿)らは、京極竜子に保護されたともいわれています。

そう考えると、浅井茶々(淀殿)は、従姉妹で姉貴分の京極竜子をたてて、順番を譲っても良かったのかもしれません。

いずれにせよ、前田利家の正室・まつが機転を利かせ、その場を収めたそうです。

茶々と関ヶ原の戦い

同年8月、豊臣秀吉は伏見城にて没します。

その後、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、秀吉の遺命により五大老・五奉行が秀頼を補佐する合議制となります。

五大老筆頭は徳川家康ですが、豊臣秀頼の後見を任されています。

豊臣秀吉は生前、秀頼と徳川秀忠の娘・千姫を婚約させており、徳川家康に秀頼の祖父として、盛り立てて欲しいと願っていたと思われます。

徳川家康と唯一、対抗し得る立場にいた五大老の一人・前田利家は、秀吉の盟友でもあり秀頼の傳役を務めています。

しかし、豊臣政権の調整役でもあった前田利家が病没すると、豊臣家中での対立が表面化していきます。

また、豊臣政権を支える五大老・五奉行は、四大老・三奉行となっていきます。

石田三成と浅野長政が奉行職を解かれて三奉行となり、大老であった前田利家は亡くなっていますが、跡を継いだ利長はやがて家康に屈服する為です。

慶長5年(1600年)6月、台頭していく徳川家康は、会津の上杉景勝を討つために諸将を伴って会津に向けて進軍します。

この頃、石田三成と大谷吉継が、打倒徳川家康を唱え決起します。

石田三成ら挙兵の報を受けて、浅井茶々(淀殿)と三奉行(増田長盛・前田玄以・長束正家)は、事態を鎮静化するため、家康に上洛するよう求める書状を送っています。

浅井茶々(淀殿)は、豊臣秀吉の遺命通りに、大老筆頭の徳川家康を主軸に、奉行らの合議により豊臣政権を運営する意思があったことが読み取れます。

その後、三奉行は石田三成らに同調し、四大老の一人・毛利輝元を担いで西軍(石田方)の総大将とし、秀頼は輝元の保護下に置かれています。

四大老の一人である宇喜多秀家と上杉景勝も、西軍(石田方)に与します。

これにより、徳川家康は、豊臣公儀から逆臣に転落したともいわれます。

しかし、浅井茶々(淀殿)からは、徳川家康を中心に政権運営を是認する旨を覆す言葉はありません。

この頃の浅井茶々(淀殿)は、高台院(北政所)と共に両御台様と呼ばれ、豊臣家の女主人であったと見られます。

浅井茶々(淀殿)が諸将に与える影響は、大きなものであったのではないでしょうか。

一方の徳川家康は、豊臣秀頼様の為であるとの大義名分を掲げるなどし、見方するよう諸将に働きかけていきます。

西軍(石田方)は、家康討伐が秀頼の名前で命じられたり、秀頼自身が戦場に出陣すると期待していたといわれますが、浅井茶々(淀殿)は許さず事の成り行きを見守っていたようです。

豊臣秀頼
豊臣秀頼 出典元:Wikipedia

周知の通り、関ヶ原の戦いは、徳川家康方東軍の大勝で終わります。

徳川家康は大野治長を介して、浅井茶々(淀殿)と秀頼は、西軍(石田方)に与してないことを信じていると述べさせ、茶々は感謝を伝えています。

どうやら、浅井茶々(淀殿)は、徳川家康が秀頼の父親代わりとなり、盛り立ててくれると期待していたようです。

徳川家康は、関ヶ原の戦いで見方した諸将らに、豊臣家の蔵入地を恩賞として勝手に与えており、豊臣家の支配地は大きく減っています。

千姫の輿入れ

浅井茶々(淀殿)は、豊臣秀頼の後見人として、大坂城の主導権を握り、政治に介入しています。

大坂城(復興天守)
大坂城(復興天守)

慶長8年(1603年)2月、徳川家康は、征夷大将軍の官職を獲得し、徳川政権の構築を始めます。

豊臣秀頼は、天下人の座が遠くなりますが、一定の影響力は保持していたようです。

同年7月、生前の秀吉が決めた通り、豊臣秀頼は、徳川秀忠の娘・千姫(茶々の妹・江の娘)と結婚しています。

豊臣秀頼と千姫の婚儀に賀使を送ろうとした細川忠興に対し、家康側近は無用であると指示を出しています。

徳川家は、千姫輿入れに複雑な思いがあったのかもしれません。

また、千姫に対し浅井茶々(淀殿)が冷たく接したともいわれますが、俗説であると思われます。

翌年、浅井茶々(淀殿)は、猶子・豊臣完子(江の娘)を九条忠栄(幸家)に嫁がせています。

豊臣完子は、千姫の異父姉妹です。

二条城の会見

徳川家康は、豊臣秀頼に上洛を求めていましたが、浅井茶々(淀殿)が拒否していたといわれています。

ですが、慶長16年(1611年)3月、豊臣秀頼は、ついに上洛を決め二条城で家康と会見します。

徳川家の親族になっていましたが、豊臣恩顧の大名でもある加藤清正と浅野幸長が警護にあたっていたようです。

浅井茶々(淀殿)と大坂の陣

豊臣家は、一時中断していた方広寺大仏殿の再建を開始しています。

慶長19年(1614年)、大仏殿に掲げる予定の梵鐘に「国家安康」、「君臣豊楽」という文字があり、家康呪詛の意図があるのではないかと問題視されてしまいます(方広寺鐘銘事件)。

国家安康の梵鐘
国家安康の梵鐘

弁明の為に片桐且元が駿府へ下り、本多正純らを介して家康に釈明しています。

片桐且元は約1カ月駿府に留まることになり、待ちわびた浅井茶々(淀殿)は、侍女の大蔵卿局らを駿府に派遣しています。

大蔵卿局らは、徳川家康からもてなしを受けています。

大蔵卿局らと片桐且元で、家康の意図解釈に食い違いがあり、齟齬がキッカケとなり大坂冬の陣に発展していきます。

浅井茶々(淀殿)ら大坂方は、豊臣恩顧の大名らの加勢を期待しましたが、見方した大名はいませんでした。

真田信繁(幸村)・後藤基次(又兵衛)・長宗我部盛親ら元大名など浪人衆を召し抱えています。

大坂城における意志決定は浅井茶々(淀殿)が握っていたようで、茶々自身も武具を着用し、激励していたと伝わります。

真田信繁(幸村)ら浪人衆の活躍などで、豊臣方は善戦しています。

しかし、徳川方が放った大筒の玉が、浅井茶々(淀殿)の御座所に落ち、侍女の身体を粉砕したことで大騒動になります。

震え上がった浅井茶々(淀殿)は、和議を受け入れることになります。

この時、豊臣方の使者として奔走し、和議の成立に尽力した一人は、浅井茶々(淀殿)の妹・初(常高院)です。

ですが、和議の条件であった大坂城の堀の埋め立てを、徳川方が手伝い城郭の一部も破壊されてしまいます。

難攻不落といわれた大坂城は、本丸のみを残した裸城同然となり、防御力を失ってしまいます。

その後、浅井茶々(淀殿)ら豊臣方は、徳川方の要求を拒否した上、堀を掘り返し始めます。

徳川家康は、和議が破られたと主張して、大坂夏の陣が勃発し、戦争が再開になります。

浅井茶々(淀殿)ら大坂方は、徳川軍を浪人衆で迎え撃ち、奮戦しています。

ですが、多勢に無勢で有力な武将が次々に討ち取られ、ついに真田信繁(幸村)も討ち死にしてしまいます。

裸城となった大坂城は、攻め寄せる徳川軍を防ぐ手立てはありません。

大坂城に次々徳川軍が乱入し、豊臣方は裏切り者もでて、大坂城は落城しています。

大野治長は使者を遣わし、浅井茶々(淀殿)と豊臣秀頼の助命嘆願を行っていますが、認められず茶々(淀殿)・秀頼・治長は共に自害しています。

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地
豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地

因みに、大野治長は浅井茶々(淀殿)と密通していたという記録があり、豊臣秀頼の実父説がある人物です。

慶長20年5月8日(1615年6月4日)、生涯で三度の落城を経験した浅井茶々(淀殿)は、大坂城と共に没したのです。

浅井茶々(淀殿)の生年が永禄12年(1569年)だとしたら、享年47歳です。

淀殿のお墓(太融寺)
淀殿のお墓(太融寺)

豊臣秀頼同様に、浅井茶々(淀殿)が絶命した瞬間を目撃したとの記録は見つかっていません。

浅井茶々(淀殿)は、実は生きていたとの説があり、薩摩国や上野国に落ち延びたともいわれますが、伝説の域を出ないようです。

豊臣秀頼の父親は秀吉なのか考察してみよう

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