永禄の変とは室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好義継、松永久通、三好三人衆らに襲撃された事件です。
剣術の達人として知られる足利義輝自身も激しく応戦しますが、多勢に無勢で滅び去りました。
永禄の変が起き時代背景と共に経緯や、永禄の変の後どうなったかなどを書いています。
永禄の変が起きた時代背景
足利義輝が将軍に就いた頃、既に室町幕府の権威は低下していました。
1467年から1477年もの間戦が続き(応仁の乱)、足利将軍家は弱体化。
将軍家弱体化に乗じて権力を握ったのは細川晴元、室町幕府の管領を務めた人物です。
しかし、細川晴元の家臣・三好長慶が晴元を裏切って戦になります。
戦に敗れた細川晴元は、足利義輝とその父(前将軍)を伴い、近江国坂本に身を隠します。
その後、細川晴元は没落し、三好長慶は足利義輝と和睦しました。
将軍は足利義輝、管領には細川氏綱を据えましたが、実権は三好長慶が握ったのです。
しかし、三好政権は長くは続きませんでした。
三好家を支える一族衆が相次いで亡くなり、ついに三好長慶まで没した為です。
三好長慶の嫡男も没した為、甥の三好義継が跡を継ぐことになりました。
三好家衰退を好機と見た足利義輝は、幕府の権力を復活したいと願い活動しようとします。
しかし、将軍を操り人形にして、実権を握りたいと考える勢力にとって義輝は邪魔な存在でした。
永禄の変の首謀者で、三好家の家臣・三好三人衆と松永久通は、次期将軍に足利義栄(義輝の従兄弟)を推しましたが、朝廷は聞いてもらえませんでした。
一方、義輝が頼っていた六角氏はお家騒動で、領土から離れられない状態でした。
永禄の変勃発
永禄8年(1565年)5月19日、三好義継(三好家当主)、三好三人衆、松永久通は、清水寺にお参りするという名目で1万の兵を引き連れて、義輝に要求があると言って二条御所に侵入しました。
宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』によると、永禄の変の前日に、御所を出て難を逃れようとした旨書かれています。
ですが、将軍の権威失墜を案じた義輝の側近らが反対し、共に戦う強い覚悟を示した為、御所に戻ったそうです。
足利義輝は、今まで何度も京を追われ、近江国坂本や朽木へ逃れていましたので、有り得る話だと思います。
室町幕府と三好家は、何度も戦をしていますので、義輝は三好、三好の重臣・松永らを警戒し、二条御所の土塁や堀などを強固にしていました。
御所の改修が終わる前に、義輝を包囲しようと永禄の変が起きたのです。
三好らは義輝に訴訟(要求)ありと言って取次を求めた為、三好氏、松永氏の取次を室町幕府奉公衆の進士晴舎が務めました。
しかし、進士晴舎が取次の為に往復している隙に、三好、松永勢に侵入を許してしまい、幕府軍は激しく応戦したと伝わります。
侵入を許し責任を感じてか、進士晴舎は詫びて切腹していました。
三好、松永軍10000万に対し、幕府軍は数百の手勢だったと伝わり、足利義輝は落命を覚悟したと思われます。
足利義輝は、最後の盃を側近ら一人一人と交わし、30名ほどで出て行くと奮戦しました。
多勢に無勢とはいえ、幕府軍の士気は高く、全員が亡くなるまで戦ったと云われています。
剣豪として名を馳せた塚原卜伝に兵法を学んだ足利義輝は、剣豪将軍として知られますが、薙刀を振るい、その後は刀で応戦しました。
『日本史』によると、より敵に近づく為、薙刀から刀に変えたようです。
信長の家臣が書いた『信長公記』では、永禄の変での義輝の奮戦ぶりを「公方様御働き候」と伝えています。
永禄の変の時に、足利義輝は数本の名刀を持ち出して、切れ味が落ちると交換し戦ったという説があります。
そして、最後に手にしていた刀は「童子切安綱」、源頼光が鬼を退治した時に使用した伝説のある刀です。
足利義輝の最期については諸説ありますし「童子切安綱」を本当に使用したかも定かではありません。
公家の日記『言継卿記』には、「生害」されたと書かれているそうです。
「生害」は自害の場合、他者に滅ぼされた場合どちらでも使うそうで、これだけでは状況がわかりません。
その他、傷つき地面に伏せているところを襲われた、槍で足を払われて刺された、敵が畳を盾にして四方から刺してきた、自害したなど複数の説があります。
享年30歳。
室町時代、将軍の御所を軍勢で取り囲む「御所巻(ごしょまき)」という行為がありました。
御所巻によって要求を通したり、異議申し立てをしていたのです。
永禄の変の時も、御所巻のつもりだったのではないかとも云われています。
三好三人衆らは、義輝の側近達の処刑を求めましたが、義輝は受け入れず争いになったようです。
義輝を滅ぼすつもりは無かったのかもしれません。
永禄の変のその後
義輝の正室は、関白を務めたこともある近衛稙家(このえ たねいえ)の娘で、当時の関白・近衛前久(さきひさ)の兄妹です。
義輝の正室は、近衛家に送られ無事でした。
義輝の生母は、慶寿院(けいじゅいん)といい、前将軍の正室で近衛稙家の妹です。
永禄の変が起き、火の中に身を投じて自害してしまいました。
義輝の寵愛を受けた側室に小侍従局という進士晴舎の娘がいました。
義輝の次女と三女の生母ですが、小侍従局の命を絶つことが、三好、松永らの要求の一つでした。
御所を脱出しましたが、捕らえられ亡き者にされてしまいました。
『日本史』によると妊娠中だったことから、男子が生まれることを懸念した旨が書かれているそうですが、永禄の変直前に三女を生んだばかりなので真実ではなさそうです。
永禄の変の直後、義輝の異母弟・周暠(しゅうこう)は、三好三人衆、松永久通らによって命を絶たれました。
義輝の同母弟・覚慶(かくけい)(後の足利義昭)は、松永久秀によって幽閉され、後に脱出しています。
後に、三好三人衆らが将軍に擁立したい足利義栄(よしひで)(義輝の従兄弟)と、朝倉義景の支援を受ける覚慶(足利義昭)とで将軍後継争いが起きます。
足利義栄が14代将軍に、足利義昭は後に織田信長に擁されて上洛し15代将軍に就きます。
また、足利義輝の死は天皇、朝廷、義輝を慕う大名、一般庶民など多くの人を悲しませました。
義輝に従一位・左大臣を追贈し、天皇も政務を3日間休み弔っています。
織田信長は、この頃(同年9月頃)から、平和な世に姿を見せる想像上の動物「麒麟」の「麟」を表した花押を使うようになったそうです。
「麟」の花押を使うキッカケは、永禄の変での足利義輝の非業の死だと云われており、信長にも思うことがあったように感じます。
永禄の変の首謀者は、松永久秀かのように語られることがありますが、当時久秀は大和にいて、少なくても直接関与はしていません。
また永禄の変で、幕府軍は全員が亡くなったと云われていますが、進士晴舎の息子・進士藤延は、生存説があります。
しかも進士藤延は、明智光秀と名前をかえて生き延びたそうです。
この説については別で書いています。
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コメント
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[…] 永禄8年(1565年)、近衛前久の人生を左右する、永禄の変が起きます。 […]