久松俊勝(長家)は、尾張の織田信秀に属する坂部城(阿久比城)主ですが、桶狭間の戦い後から徳川家康に従っています。
また、久松俊勝(長家)は、徳川家康の母・於大の方の再婚相手として知られています。
徳川家康の継父・久松俊勝とはどのような人物でしょうか。
久松俊勝の出自
久松氏は、尾張の守護である斯波家に仕える知多郡の国人領主でした。
戦国時代になると斯波家は没落し、久松氏は新興勢力であった尾張の織田信秀(信長の父)に属すようになったと考えられます。
久松俊勝(長家)が産まれたのは、戦国時代の真っ只中である大永6年(1526年)です。
父は久松定義、又は定義の弟である定益であるとも言われていますが、生母については分かりません。
久松俊勝の初名は、長家や定俊で、後に俊勝と改名しています。
通称は弥九郎であるとの説があり、佐渡守を名乗っていたことも分かっています。
また、久松氏は、尾張の大野城を拠点とする佐治氏と対立していましたが、久松俊勝は庶長子である信俊の妻に佐治対馬守の娘を迎えて和睦しています。
『寛政重修諸家譜』によると、佐治氏との和睦は松平広忠(徳川家康の父)の仲立ちがあったようです。
久松俊勝(長家)は、尾張国知多郡の坂部城(阿久比城)主で、尾張の織田信秀に属しながら、松平広忠とも連携していたようです。
家康の母・於大の方と再婚
久松俊勝(長家)は、水野氏の娘を娶っていましたが、後室にも水野氏の娘を迎えています。
天文16年(1547年)には、尾張の豪族・水野忠政の娘である於大の方と再婚しています。
於大の方も再婚で、前の夫は三河の岡崎城主・松平広忠です。
また、松平広忠と於大の方の間に生まれた子供が竹千代(徳川家康)です。
於大の方は、竹千代3歳の時に松平広忠から離縁されて、竹千代と生き別れ、その後に久松俊勝(長家)と再婚しています。
その後、永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を討ち取ります。
同年、久松俊勝の坂部城(阿久比城)において、於大の方と松平元康(徳川家康)母子は、再開を果たしています。
桶狭間の戦い後、松平元康(徳川家康)は今川氏から独立し、織田信長と同盟を結びます。
久松俊勝 徳川家康に従う
於大の方を母として迎えた松平元康(徳川家康)は、久松俊勝や俊勝と於大の方の息子3名を家臣として招いています。
松平元康(徳川家康)は、異父弟に当たる久松俊勝の次男・松平康元、三男・松平康俊(久松勝俊)、四男・松平定勝に松平姓を与えています。
また、久松俊勝(長家)には、庶長子・久松信俊がいます。
松平元康(徳川家康)と血縁関係のない久松信俊は、織田信長に仕えています。
松平元康(徳川家康)が今川から独立したことで、三河では元康に従う勢力がある中、今川義元の甥で重臣の鵜殿長照は今川方に留まっています。
周囲を敵に囲まれ孤立した鵜殿長照は、居城である三河の上ノ郷城主を松平勢に攻められており、久松俊勝(長家)も従軍しています。
松平勢は、上ノ郷城をなかなか落とすことができなかったため、甲賀忍者を使って上ノ郷城内に火をかけ、攻め込んだようです。
上ノ郷城を攻略した松平勢は、鵜殿長照を討ち取り、長照の子供二人を生け捕りにしています。
今川氏真の元で人質となっていた松平元康(徳川家康)の正室・築山殿、嫡男・信康、長女・亀姫らと人質交換されています。
久松俊勝(長家)は、上ノ郷城攻略後にその城主となり、上ノ郷城がある三河国宝飯郡西郡を領しています。
ただ、久松俊勝自身は岡崎城にいて、俊勝の次男・松平康元(家康の異父弟)を上ノ郷城に入れています。
また、坂部城(阿久比城)と久松氏の領地は、久松俊勝の庶長子・久松信俊の領土となっています。
家康は長家から偏諱を受けた!?
永禄6年(1563年)、松平元康は「家康」に改名しています。
今川義元から偏諱を賜った「元」の字を返上し、「家」をつけています。
一説には、久松俊勝の初名である「長家」から「家」を得たとも言われています。
久松俊勝(長家)は、松平家康の継父ですし、有り得る話に思えます。
この頃の久松俊勝文書に「長家」の名前が確認でき、「俊勝」の名にするのは後の事であると考えられます。
そして、出世した徳川家康を憚って「長家」から「俊勝」に改名したとも言われています。
久松俊勝 出奔する
於大の方の兄・水野信元(俊勝の義兄)が織田信長から謀反を疑われます。
水野信元は、甥である徳川家康を頼りますが、家康は信元を葬る決断をしています。
久松俊勝(長家)は、状況を知らされず信元召喚の使者を家康から命じられます。
天正3年12月(1576年1月)、水野信元は、家康の命令を受けた平岩親吉に斬られて亡くなります。
その後、事実を知った久松俊勝(長家)は、怒って出奔してしまい、西郡城に隠退しています。
於大の方や子供たちは家康が引き取っています。
因みに、水野信元は冤罪だったようで、信元の末弟・忠重は信長から領土を与えられ水野家を再興しています。
その後、久松俊勝(長家)の詳細は分かりません。
永禄6年(1563年)から翌年にかけて、松平(徳川)家康は、三河一向一揆に苦しめられていました。
久松俊勝の晩年は、一向一揆により追放された一向宗の寺院が三河に戻れるよう努めたと言われています。
於大の方の菩提寺・洞雲院には、久松松平家のお墓があります。
また、久松俊勝の菩提寺・安楽寺も久松俊勝(長家)の墓所として知られています。
久松俊勝の子孫
久松俊勝(長家)の子孫は、「久松松平家」と呼ばれ、松平家一門に准じ遇されており、幕末まで城主大名として存続した家もあります。
また、久松俊勝の孫である松平定実の系譜に愛媛県知事を務めた久松定武氏がいます。
フリーアナウンサーの松平定知氏は、久松俊勝の四男・松平定勝の子孫だそうです。
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