「明智光秀は医師だった」とする新説が浮上しました。
光秀が織田信長に仕える前の話とのことです。
信じ難い説に思えますが、光秀に医学の知識があったことを裏付ける史料も確認されています。
米田文書『針薬方』と光秀の医師説
日本史上、最も有名なクーデター・本能寺の変を起こした武将、明智光秀。
明智光秀の名前はあまりにも有名ですが、信長に仕える前の光秀の史料は少なく、謎の多い人物です。
しかし、近年研究が進み、新しい説が出てきました。
信長に仕える前の牢人(浪人)時代、10年以上にわたり、医師をしていたという説です。
光秀は土岐氏の庶流の生まれとする説が有力ですが、土岐氏は武家です。
武士と兼業だったと見なされていますが、まさかの医師…、意外な感じがしますね。
医師説の根拠・米田文書(こめだぶんしょ)について記します。
米田文書には「明智十兵衛」という光秀の通称で記されていますが、光秀に医学の知識があったことが記されています。
米田文書とは、熊本藩家老・米田家に伝来した文書で、現在では熊本大学付属図書館が所蔵している史料です。
その米田文書には、米田貞能が書き写した『針薬方』(しんやくほう)という医学書が含まれているそうです。
どうやら光秀が医学書『針薬方』を所持していて、光秀が近江・田中城(田嶋田中城)に籠城した際に、沼田清長(ぬまたきよひで)という人物に医学の知識を口伝したそうです。
沼田清長が光秀から教わった医学の知識を記し、後に米田貞能が書き写したものが米田文書として伝わっているということのようです。
『針薬方』には、戦いの傷の手当について、お腹を壊した時の薬の成分なども記されており、光秀が綿密に投薬を行っていたことが読み取れます。
例えば、「腹の傷にはケシの殻などを煎じて飲ませる」と書いてあり、光秀が田中城で口伝した医術であると『針薬方』は伝えます。
『針薬方』は、産婦人科の知識が散見するようで、光秀は産婦人科医と外科医を兼ねていたのではないかとする意見もあります。
また「セイソ散」という薬にについても記されており、越前・朝倉家の秘伝薬だといいます。
「セイソ散」は、当時最先端の医学で刀傷に効果があるとされ、重宝された薬だそうです。
後ほど記載しますが、光秀が朝倉氏に仕えていたかは不明で、家臣でなく食客だったかもしれませんし不明です。
ですが、秘伝薬を伝授されるほど、朝倉家の信頼を得ていたということになりそうです。
『針薬方』は、本当に光秀が医師であった証拠にはなりませんが(医師をしていた可能性は推察できますが)、医学書を所持していたことと、医学の知識があったことが読み取れます。
また医学の知識を伝された米田貞能という人物は、足利義昭の家臣とされる人物です。
後に光秀は足利義昭の家臣になりますが、この時の光秀の働きが義昭の耳に入って召し抱えられた可能性もあるようです。
この記録は、永禄9年(1566年)に書かれていて、信憑性の高い史料で確認できる光秀最古の記録です。
光秀の生年が、よくいわれる享禄元年(1528年)だとすれば、光秀38歳の時です。
この頃、身分の低かった(足軽だったと云われています)光秀が、医術を使い出世の糸口を掴んだのではないかと考えられています。
光秀は越前にて医師を務めた!?
先に述べたように薬の成分は、越前の朝倉家の成分とのことですが、光秀が医師を務めたのは、越前の称念寺(しょうねんじ)に居た頃と見なされています。
まず光秀と越前について記載します。
光秀は美濃の名門・土岐氏の一族とする説が有力ですが、戦に敗れ美濃を追われ没落してしまいます。
その後の足取りは定かではありませんが、越前に逃れ牢人(浪人)したとも、朝倉義景を頼り越前へ行き、朝倉家の家臣になったとする説もあります。
光秀が越前にいたとする説は、軍記物語による創作ともいわれていましたが、このような新発見により光秀は越前にいたことは史実として認められつつあるようです。
また、光秀が越前にいた頃、称念寺との関りを示す一次史料も存在しています。
そして、『遊行三十一祖京畿御修行記』(ゆぎょうさんじゅういちそけいきごしゅうぎょうき)という史料にも、光秀が朝倉義景を頼り10年越前にいたと記されています。
『遊行三十一祖京畿御修行記』には、別の話も書かれていて、同念(どうねん)上人という僧侶が東海、近畿地区を遊行した時の話です。
天正八年(1580年)、同念上人が、梵阿(ぼんあ)という付き従う僧侶を光秀の居城・坂本城へ挨拶へ向かわせます。
梵阿は、光秀が越前の称念寺に居たころの知り合いのようで、再会を懐かしんだという話が残されています。
『遊行三十一祖京畿御修行記』、米田文書『針薬方』の発見により、光秀が越前にいたとする説が有力視されているされつつありますが、光秀が医師をしていたのは、越前の牢人時代と見なされています。
越前に居た頃の光秀は貧しかったと云われており、光秀の妻が黒髪を売り家計を支えた話も残っています。
戦国時代の村の医師は牢人上りが多いそうです。
光秀も家計を支えるため、医師として働いていたのかもしませんね。
それにしても当時は、医学の知識があれば、医師ができてしまうのでしょうか。
初め聞いた時は、簡単な怪我や薬の処方など、できることをしていたのかと思いましたが、産婦人科医と外科医を兼ねた武士…スーパーマンか何かのように思えますね…。
また、光秀の医師としての腕は高くはなかったかもしれません。
光秀が与力である小畠左馬進(おばたさまのしん)に宛てた手紙が残されいます。
小畠左馬進が怪我で苦しんでいる様子ですが、ちゃんとした医師に診てもらい良くなったら、また会いたいという趣旨が記されています。
光秀は医師と交流があった
光秀と交流があった医師に施薬院全宗(やくいん ぜんそう)という人物がいます。
施薬院全宗は、医師を祖先にもつものの僧侶になり、比叡山の焼き討ちに遭ったことで還俗して医師になります。
後に豊臣秀吉の側近にまでなり、有名な医師になる人物です。
光秀は施薬院全宗の自宅に宿泊していた時期があり、親しい仲であったと云われています。
光秀と施薬院全宗は、医学つながりで交流があったのではないかという声もあり、光秀医師説の根拠の一つとされています。
「事実は小説よりも奇なり」ということでしょうか。
謎だらけの光秀の史料が見つかって嬉しいですが、医師という驚きの前半生でした…。
明智光秀が医師であったとする説は、『明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人となったか』という本に詳しく記載されているそうです。
NHK出版新書から出版されていますので、明智光秀の大河ドラマ『麒麟がくる』も、もしかしたら医師として描かれかと思いましたが違いましいたね。
ですが、この本は気になりますね。
明智光秀が朝倉義景の家臣であるとする説を考察した記事です。
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光秀が越前の称念寺に居た頃、生活費の足しに光秀の妻・煕子(ひろこ)が髪の毛を売った話はこの記事に書いています。
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