小栗栖にある明智藪は明智光秀の終焉の地

小栗栖」(おぐりす/おぐるす)にある「明智藪」(あけちやぶ)は、明智光秀の絶命の地として知られています。

本能寺の変にて、織田信長・信忠父子を討ち、天下人まであと一歩に迫った明智光秀ですが、小栗栖にある明智藪にて討たれ自害したとされています。

今回は、明智光秀の終焉の地である小栗栖にある明智藪に行った感想の記事です。

目次

明智光秀が「小栗栖」に向かった理由

戦国史上最大ともいえる事件を起こした明智光秀ですが、光秀が亡くなった時の真実は現在も断定はされておらず、実は生きていたとする説もある位です。

光秀の最期は諸説ありますが、何故、小栗栖の明智藪で亡くなったと云われているのか、有力視されている過程を記載します。

信長を討った光秀の天下は長くは続きませんでした。

それは、現在の岡山県で毛利氏と戦の最中であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、本能寺の変を知るなり、毛利氏と和議をを結び、すぐさま京都へ帰還したことが大きいと云われています。

移動の手段が足であった時代に、秀吉の軍勢は驚くべきスピードで戻ってきたとされ、その速さは中国大返し(ちゅうごくおおがえし)として現在でも語り継がれています。

一方の光秀は、頼りにしていた細川藤孝(細川幽斎)や筒井順慶からの協力も得られず、体制を整えきれていなかったと云われています。

そのような中、光秀軍は秀吉軍と天王山の麓(ふもと)の山崎(現在の京都と大坂)にて激突します。

これが世にいう山崎の戦いですが、光秀軍は敗北し居城である坂本城へと落ち延びていく途中で、「小栗栖」で土民(農民)の落ち武者狩りにあったとされています。

重症を負いながらも、農民を払いのけて先に進んだそうですが、思いの外傷が深く、坂本城に辿り着くのは困難と考えて自害したとされています。

その光秀の終焉の場所は「明智藪」と呼ばれ、現在も残っています。

小栗栖の「明智藪」

本当に小栗栖(おぐりす/おぐるす)で光秀が亡くなったかも定かではありませんが、明智藪(あけちやぶ)に行ってみました。

途中まで車で向かいましたが、明智藪に続く道は、畑に行く小道のように細く、車では難しいと思ったため、降りて徒歩にしました。

車では、この下の案内板までは来れました。

明智藪と本経寺に行く道の案内板

明智藪に行くには、この看板の矢印の方向に進むのですが、私はこの辺りをグルグルしてしまいました…。

この矢印通りに進むと細い住宅街になり、ここで合っているのかと思うような道でした。

そして、突き当りが一般の方の自宅のようでしたので、何か違うと思いグルグルしてしまいました。

ですが、突き当りだと思った家の右側に小道がありました。

その道を少し歩くと左手に明智藪の石碑が見えてきました。

お花は枯れていますが、誰か手入れしてそうな綺麗さはありました。

小栗栖にある明智藪の碑石

この石碑には、光秀は「信長近臣の小栗栖館の武士集団、飯田一党の襲撃によって最期を遂げた」という主旨を記してあります。

農民の落ち武者狩りじゃなかったの!?と思いました。

この石碑は、平成3(1991)年に設置されたそうですが、地元に伝わる伝承とのことです。

飯田一党とは、小栗栖の地に館を構えた土豪で、明智藪近くにある小栗栖八幡宮が館の跡地と伝わります。

その飯田家に飯田左吉兵衛という人がいて信長に仕えていたそうですが、本能寺の変で亡くなったとされています。

その恨みから、飯田一党は民衆をひきつれて光秀を襲ったと云われているそうです。

この小栗栖の地にあった館から、光秀を待ち受けて襲ったということかもしれません。

農民の落ち武者狩りとする説では、鎧の上から槍で突かれたことになっています。

鎧の上から槍で突いて、自害するほどの重症を与えられるのか…という疑問もあり、土民(農民)説には信じ難いとの意見も聞こえていました。

結局真相は藪の中ですが、飯田説の方があり得そうな話に思います。

また、小栗栖の地を「近臣十数名と通った」旨の記載もあります。

負け戦とわかり、生き残った家臣の中で、逃げてしまった人もいるのかなと…寂しさも感じました…。

長くなりましたが、この碑石が光秀の終焉の地ではありません。

明智藪は30m程先になるという案内板があり、細い道を進みます。

光秀が討たれた明智藪の場所

ここが光秀の終焉の地です。

明智藪とはここのこと!?と思うのですが、「藪」とは草木が多く生えた所と思うと、目の前のところも…明智藪かなと写真に撮りました、土砂崩れ防止の工事中とのことです。

明智藪付近が工事されている様子

ここは怪奇スポットでもあるそうで、光秀軍の雄たけびが聞こえるだとか、光秀の祟りがあるなどと云う話もあるそうです。

戦があったとされる場所ですからね、人気も無くて不気味な感じがしてました…。

これしかないので観光で来るには、地味な場所だと思いますが、史跡巡りがお好きな方には、明智光秀の終焉の地と思うと感慨深いかもしれませんね。

小栗栖の明智藪へのアクセス

住所:京都府京都市伏見区小栗栖小阪町 本教寺寺領

京阪バス「小栗栖」下車徒歩約5分

東西線「醍醐」、「石田」下車徒歩約15分

明智藪に隣接する本経寺

小栗栖の明智藪付近にある本経寺には、明智光秀供養碑があるそうです。

小栗栖にある本経寺(ほんきょうじ)

ここへは主人と来たのですが、車で待っていると言われ一人で巡っていたもので、明智光秀供養碑を見に本経寺に入ることができませんでした…。

お墓が見えて怖くなってしまいました。

明智藪で不気味な感じがし、引きづっていたかもしれません。

(私は感じない方なので、私の不気味は当てになりませんが…。)

明智光秀供養碑の碑石は新しいようですから、わりと最近できたものかもしれません。

興味ある方はご覧になってくださいね。

<本経寺のアクセス>

電話番号:075-571-2173

住所:京都市伏見区小栗栖小阪町5

東西線「醍醐」、「石田」下車徒歩約15分

京阪バス「小栗栖」下車徒歩約5分

明智藪から2kmほどで「明智光秀の胴塚」に行けます。

一緒に見に行っても良いかもしれません☟。

明智光秀の胴塚

光秀は生存説もあります☟。

荒深小五郎として明智光秀は生きた!?山県市に残る【桔梗塚】

明智光秀は生きて天海という僧侶になったとする説を検証する

進士藤延として明智光秀は生きた!?とする説 参考・引用・出典一覧
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