山崎吉家は、朝倉義景の外交官を務めた人物ですが、武勇にも優れ、文武両道の武将でした。
志賀の陣の坂本の戦いでは、宇佐山城主・森可成らを討ち取る武功を挙げます。
刀根坂の戦いでは殿を務め、奮戦しますが力尽きてしまいます。
衰退していく朝倉家に最後まで仕えた山崎吉家の生涯を書いています。
山崎吉家の出自
山崎吉家の生涯は謎が多く、生年や母については不明です。
父は山崎長吉と伝わりますが、詳細は分かりません。
ただ、村上源氏の流れを汲む赤松氏の一族と見られています。
山崎吉家は、越前・朝倉家10代目当主・朝倉孝景、11代目で最後の当主・朝倉義景に仕えていました。
別名の新左衛門尉、官位の長門守を名っていたようです。
朝倉家で外交などを担う山崎吉家
享禄4年(1531年)、享禄・天文の乱で、朝倉家の家老・朝倉宗滴に従って出陣した人物に「山崎新左衛門尉」という名前が確認できます。
この「山崎新左衛門尉」は、若い頃の山崎吉家のことではないかと見られています。
ただ、山崎吉家の祖父も山崎吉家と同じ名前だったようで、混同している可能性もありそうです。
また朝倉宗滴とは、朝倉義景の従曾祖父で、朝倉家当主を補佐し、朝倉家の栄華を築いた優秀すぎる人物です。
その頼りになる朝倉宗滴は、天文24年(1555年)、加賀一向一揆を討つ為に出陣し、陣中で病に倒れました。
代わって総大将になった朝倉景隆と共に、山崎吉家も従軍しています。
朝倉宗滴の病は回復せず、亡くなってしまい、宗滴に代わり山崎吉家が外交を行っています。
越後の上杉氏、甲斐の武田氏とも交渉役を務めていて、重要な役割を果たしていました。
永禄10年(1567年)、朝倉家の家臣・堀江景忠が謀反を起こします。
堀江景忠征伐軍の大将に、山崎吉家と魚住景固が任ぜられ、堀江家に激しい攻撃を行ったそうです。
最後は和睦して、堀江景忠は能登国へ亡命し決着しました。
山崎吉家は朝倉家の年寄衆に名を連ねた
翌永禄11年(1568年)、当時は将軍でなかった足利義昭ですが、将軍になる為に必要な上洛戦を朝倉家に期待し、朝倉館を訪ねています。
『朝倉義景亭御成記』によると、朝倉家の年寄衆に「山崎長門守吉家」という名前が確認でき、吉家は年寄衆として挨拶していたことが読み取れます。
しかし、朝倉義景は上洛することはなく、結局、織田信長が足利義昭を奉じて上洛したのです。
山崎吉家の志賀の陣
織田信長は、足利義昭を将軍に就け、義昭の命令として朝倉義景に上洛を命じます。
朝倉義景は、上洛を断ったことで逆意ありと難癖をつけられ、織田信長と対立することになるのです。
永禄13年(1570年)、織田信長は、同盟相手の徳川家康と連合軍を編成し、越前の朝倉義景領に侵攻(金ヶ崎の戦い)。
山崎吉家は、朝倉義景本隊の第1陣として出陣しています。
織田、徳川連合軍が優位に戦を進めていたものの、浅井長政が朝倉側についたことで、挟み撃ちになった織田信長は、命辛々撤退しています。
その後も、織田、徳川連合軍と朝倉、浅井連合軍の対立は続きました。
山崎吉家は、総大将・朝倉景鏡の指揮下、姉川の戦いの直前まで近江国に出陣しています。
美濃と国境まで進軍すると、垂井、赤坂周辺を放火したと云われています。
その後、三好三人衆との戦のため信長主力軍が摂津に行くと、朝倉、浅井連合軍は蜂起(志賀の陣)。
志賀の陣の坂本城の戦いで、朝倉景鏡、浅井長政本隊らと共に、織田家の有力武将である森可成、信長の弟・織田信治、青地茂綱らを討ち取りました。
山崎吉家「山崎丸」を築く
朝倉家の同盟相手である浅井家の居城は、近江の小谷城です。
その小谷城に「山崎丸」という砦がありました。
山崎吉家の名前から名付けられた砦で、江戸時代の地誌などに「山崎丸」と書いてある為、現在もそう呼ばれています。
元亀年間に、援軍として山崎吉家が小谷城に赴いて築いたようです。
元亀3年(1572年)、織田軍が小谷城を包囲する際、本陣を構えたのが小谷山の目と鼻の先にある「虎御前山」。
織田軍は虎御前山城を築いて、小谷城落城まで織田軍の前線基地として機能しました。
その虎御前山城の前線に位置するように「山崎丸」はあったようです。
小谷城の戦いで「山崎丸」の活躍はあったのでしょうか?
詳しいことは分かりません。
山崎吉家の最期は刀根坂の戦い
その後も、朝倉義景に従い、北近江、敦賀に出陣。
朝倉家は斜陽になり、朝倉義景は家臣らの信頼も失いつつありました。
そのような中、山崎吉家は最後まで朝倉家を支えようとしていましたが、朝倉家滅亡の時が訪れます。
朝倉家の同盟相手の小谷城が織田軍に包囲され、一部の家臣の反対を押し切り、義景自ら兵を率いて出陣。
ですが、朝倉軍は前哨戦で敗北し、構築した大嶽砦などが簡単に落とされ、朝倉義景は撤退を決断します。
義景の撤退を読んでいた織田信長は、徹底的に朝倉軍を追撃します(根坂の戦い)。
朝倉義景は、撤退戦の殿を山崎吉家に任せ、吉家は奮戦したと伝わります。
また、殿は追撃する敵を最前線で食い止める、とても危険な役目です。
大役を任された山崎吉家ですが、ついに力尽き、根坂の戦いで亡くなったのです。
天正元年8月14日(1573年9月10日)のことでした。
生年が不明なので、享年はわかりません。
山崎吉家の弟・吉延と珠宝坊、子・吉健も、刀根坂の戦いで討ち取られています。
朝倉景行、朝倉道景、河合吉統、一説には斎藤龍興も討ち取られ、朝倉家は主力武将を失い、直ぐに滅亡の時がくるのです。
山崎家の子孫
山崎吉家の一族の多くは滅んだものの、弟・吉延の子とする説のある山崎長徳(ながのり)は生き延びました。
山崎長徳は、朝倉家滅亡後、明智光秀に仕え、本能寺の変や山崎の戦いに従軍。
明智光秀が没すると柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いに参加しています。
敗軍の将・朝倉義景、明智光秀、柴田勝家に仕えてたということは、何度も負け戦を経験しているでしょう。
次に仕えたのは、加賀100万石の繁栄を築く、前田利家です。
後に、前田家の家臣として、関ケ原戦いで武功を挙げ、1万4,000石を拝領しています。
以降、山崎長徳の子孫は、前田家の重臣として明治まで続いたと云われています。
そして、加賀藩家老・山崎範古(のりひさ)を、幕末期に輩出したのです。
山崎吉家の宗家は、家老を輩出した加賀藩士山崎庄兵衛家ですが、大聖寺藩士山崎権丞家、山崎図書家など現在も続く子孫がいるそうです。
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