織田信長は若い頃、「うつけ者」と呼ばれていたという話は、知られた話だと思います。
それでは、何故、うつけ者と呼ばれるようになったのでしょうか。
その理由などエピソードを書いています。
織田信長はうつけ者!?
織田信長と言えば、自ら第六天魔王を名乗ったことから「魔王」とも称され、怖いイメージがある一方、安土桃山時代の礎を築き、先見性のある有能な人物でもあります。
そんな織田信長ですが、若い頃は「うつけ者」と呼ばれていました。
うつけ者とは、愚か者、常識外れな者という意味ですが、どうして織田信長はうつけ者と言われるようになったのか理由を探ります。
よく言われることは、織田信長の若い頃のファッションが奇抜であったこと、振舞いが常識外れだったことです。
そのことか詳しく書かれた史料は、『信長公記』(しんちょうこうき)という織田信長の伝記です。
著者は織田信長の家臣であった太田牛一、当時、身近にいた人物が書き残した第一級史料で、信頼できる記録です。
うつけ者の理由はファッション
織田信長は若い頃、湯帷子(ゆかたびら)という浴衣の原型のような和服で、袖を外して着ていたそうです。
しかも湯帷子は、本来入浴時や入浴後に着る物ですので…、奇妙な服装ですね。
現代風に言うと「自分で袖を切り取ってリメイクした着物」です。
また半袴という、今でいう半ズボンのように丈の短い袴を着用していました。
柄は、虎柄半分、豹柄半分という目立つ袴です。
その上、髪型も奇抜でした。
茶筅髷(ちゃせんまげ)と呼ばれる髪型をしていたそうで、お茶を点てる時に使う茶筅に似ていることから名付けられたそうです。
茶筅髷を現代風に言うと「毛先を遊ばせた無造作な髪型」です。
茶筅髷は、安土桃山時代の若者に流行っていたそうなので、大人からみたら風変わりでも、若者から見たら流行の最先端だったのかもしれません。
そして、その髪を結わく糸は、紅色か萌黄色(黄緑色)、太刀の刀部分を包む鞘は、朱色だったことが書かれています。
付き人にも朱色の武具を身に着けさせたそうで、目立つ色が好きだったのでしょうか。
また、藁で髪をくくっていた時もあるそうです。
手首には、太い麻縄のブレスレットをしていました。
腰回りには、火を出す時に使う、火打ち袋を沢山身につけ、本来1つ持ち歩くひょうたん(水やお酒を入れる物)を、7~8個もぶら下げていたことでも知られています。
織田信長のうつけな振舞い
先ほど述べたファッションだけなら、派手好き、流行好きな人!?と言われたかもしれません。
織田信長がうつけ者と言われる所以は、その振舞いにもありました。
町中で人目を気にすることもなく、柿、栗、瓜、餅などを食べていて、歩く時は誰かの肩にぶら下がっていたそうです。
確かに、お行儀悪いですね…。
また、人によりかかったり、食べ物は人の物を奪ったりもしていたと云われています。
当時は、常識外れなことを良しとしなかった為、信長はうつけ者と評価されたそうです。
寺で学問を学ぶ際も、態度が悪く、真面目に聞かない、今でいう不良のような状態だったと云います。
また、織田信長のうつけエピソードとして有名なのは、父・織田信秀の葬儀の出来事ではないでしょうか。
信秀が亡くなった時、僧侶300人という盛大な葬儀を萬松寺にて行います。
父の葬儀ですら、信長はうつけファッションで現れます。
髪はいつもの茶筅髷、そして今回は袴すら履いていなく、太刀と脇差は藁で出来た縄で巻いてあったそうです。
そして焼香でも、うつけぶりを発揮し、線香を仏前に投げつけました。
それに対して、信長の弟・信勝は礼儀正しい格好と作法でした。
このようなこともあって、織田信長の母は弟・信勝を可愛がったと云われています。
信長がうつけ行動を繰り返した理由の一つに、多感な子供時代に親から十分な愛情を受けていいない為という説もあります。
母・土田御前は弟に愛情を注ぎ、父・信秀は斎藤家、今川家との戦に明け暮れていました。
信長は親からの愛情に飢えて、「うつけ」と眉をひそめられるような行動をしたのかもしれません。
うつけ者という噂は、信長の舅・斎藤道三(利政)の耳にも入っていました。
信長と齋藤道三が初めて顔合わせをする時も、うつけファッションで現れたことも知られた話です。
しかし、会見の場になると正装して現れ、また織田軍の槍の長さ、鉄砲の多さに驚かされたというエピソードが残されています。
うつけ者とバカにされる信長ですが、斎藤道三はその器の大きさを見抜いたと云われています。
この会見のエピソードなど信長と斎藤道三の話は、こちらの記事に詳しく書いていますので、詳細が知りたい場合はクリックしてご覧くださいね。
そして、信長の教育係だった平手政秀(ひらて まさひで)が謎の自害をしてしまいますが、一説には信長のうつけ行為を嘆き、責任を感じて自らの死をもって諫めたとも云われています。
※自害の理由は諸説あります。
いずれにしても、後に誰もが知る偉人になる信長、このように常識にとらわれない価値観は、一般の人から見れば「うつけ者」でも、時代の先駆者であり、凡人には理解できない感覚があったのだろうかと思ったりします。
また、周りを欺くために、うつけ者を装ったとも云われています。
織田信秀の葬儀のエピソードは、この記事に詳しく書いています。
ちなみに、織田信長に興味がある方は、Sayulistさんによる「サユリスト.com」の織田信長の記事がオススメです。
織田信長の大ファンというSayulistさんが、織田信長のゆかりの地を訪ねて【信長ゆかりの地ツアー 岐阜編】岐阜城 崇福寺 円徳寺という記事を書いています。
サユリスト.com
コメント
コメント一覧 (5件)
私の記事を取り上げていただき、ありがとうございます。
信長の変わり者エピソードの一つに、自分の子の名付けもありますよね。
奇妙丸、茶筅丸、三七、五徳など・・・。特徴があるのですぐに覚えちゃいました!!(笑)
かおりんさんの記事、楽しみに見てますね。
ビックリ、わかるんですね。
この記事からつけたたら良いかもと、紹介されていただきました。
信長の子供の名前面白くて、はやり凡人ではないですね。
徳川家康の大河ドラマに向けて、信長の記事もっと書けたら、
さゆりさんの記事をまた取り上げさせていただくかもです。
[…] そして、道三(利政)は光秀に、尾張の信長がうつけ者という噂は本当かと尋ねます。 […]
[…] 若い頃の信長は、奇抜な格好や行動をし、うつけ者と言われていました。 […]
[…] 織田信長自身の髪型も茶筅髷にしていた位なので、カッコイイとか思っていたのでしょうか。 […]