織田信長の家臣で、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったことで知られる毛利新介(良勝)。
本能寺の変でも奮戦していますが、毛利新介(良勝)とはどのような人物でしょうか。
毛利新介(良勝)はどう義元を討ち取ったか
今川義元の首を討ち取った毛利新介(良勝)は、大手柄をあげながら、生年、出自など、その生涯は謎だらけです。
毛利新介(良勝)は、尾張国の出身で織田信長の家臣、通称は新介です。
信長に見いだされ精鋭部隊である馬廻に抜擢されたとも、小姓であったとも云われています。
毛利新介(良勝)が名を残す出来事は、永禄3年(1560年)に起きた桶狭間の戦いです。
戦国史上、あまりにも有名な桶狭間の戦いですが、敵の大将は、「海道一の弓取り」と恐れられる今川義元です。
その上、今川軍は大軍を擁して尾張に攻め込んできていたのです。
圧倒的に有利だったという今川軍は、織田方の砦を落とし、幸先よく戦を進めていました。
しかし、織田軍は歴史的な大勝利を収めたのは、周知の通り。
織田信長率いる2000の精鋭隊が進軍していると、一説には雹と云わる程の豪雨に遭遇します。
天候という運を味方につけた信長軍は、この機に乗じて進軍し、今川軍の陣「桶狭間山」に辿り着きます。
天候が回復すると信長が「それ、掛かれ、掛かれ」と命令した旨が、『信長公記』に書かれています。
そして信長が「義元の旗本はあれだ!あれに掛かれ!」と下知しました。
そこには、輿を捨て逃げ落ちる今川義元の一行がいたのです。
300騎ほどの親衛隊に守られていた義元ですが、織田軍と乱戦になり50騎になりました。
織田信長も馬から降り、織田軍は先を争うように、槍で突いては倒します。
その今川義元の首を求めた中に、毛利新介(良勝)もいたのです。
ついに、織田軍の服部小平太(服部一忠)が、今川義元を槍で突きます。
一番槍という危険が伴う行為ですが、致命傷は与えられず、小平太は負傷し動けなくなっていました。
そこに駆け付けたのが、毛利新介(良勝)。
毛利新介(良勝)は、今川義元を組み伏せ、討ち取ったのです。
その際、激しく抵抗した義元は、毛利新介(良勝)の左指を喰い切ったという話が残されています。
毛利新介(良勝)の手柄は神仏の冥加
桶狭間の戦いより前の話ですが、尾張守護・斯波義統が織田信友や織田彦五郎らに亡き者にされた際、毛利十郎が義統の遺児を保護し信長の元へ届けています。
桶狭間の戦いでの毛利新介(良勝)の手柄は、それに対する神仏の冥加だと人々は噂したと云われてます。
毛利新介(良勝)と毛利十郎の関係は定かではありませんが、当時の人がそう噂されたことから、親戚なのか縁者だろうと見なされています。
また、毛利十郎 も桶狭間の戦いに従軍し、敵将を討ち取っています。
毛利新介(良勝)の良勝という諱は、桶狭間の戦い後に名乗ったものですが、通称も新介から新左衛門にかえました。
毛利新介(良勝)、黒母衣衆に選抜
毛利新介(良勝)は、桶狭間の戦い後、信長の黒母衣衆に選抜されました。
母衣衆は母衣(ほろ)と呼ばれる矢や石などから守る、補助武具を身に着けていました。
上の写真では赤と白の布で、風で膨らませているそうです。
戦国時代の母衣は、目立つ色を使用していて、かえって危ないように思いますが。
母衣衆は、精鋭が選ばれていますので、気にしなかったのかもしれません。
また、味方から識別しやすいという意味もあったようです。
毛利新介(良勝)も、信長に認められた精鋭の一人で、出世コースを歩んだ人物と言えそうです。
しかし、毛利新介(良勝)は、桶狭間の戦い後、目立った活躍がありません。
永禄12年(1569年)に起きた、北畠具教・具房親子との戦・大河内城の戦いに、毛利新介(良勝)も従軍しましたが、官僚として活躍したようです。
その後、信長の尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)になり、書状等に毛利新介(良勝)の署名が残っています。
毛利新介(良勝)は、槍働きよりも文官としての能力が高かったのかもしれません。
毛利新介(良勝)は、武田征伐にも付き従い、天正10年(1582年)4月、興福寺大乗院から贈り物を受けたようです。
4月は武田征伐により、武田勝頼が自害し、武田家が滅んだ月ですが、贈り物の理由は不明です。
毛利新介(良勝)、本能寺の変で奮戦
毛利新介(良勝)の最期は突然訪れました。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きます。
信長に従い京にいた毛利新介(良勝)は、信長の嫡男・織田信忠を守る為、二条御所に籠り明智軍を迎え撃ちました。
奮戦した毛利新介(良勝)ですが、多勢に無勢。
織田信忠と共に討死し果てました。
織田信長に見いだされ、信長の名を天下に轟かせた毛利新介(良勝)は、信長の後を追うように亡くなったのです。
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] その後、助けに入った織田家家臣・毛利良勝によって討ち取られてしまいますが、激しく抵抗したと伝わります。 […]
[…] 『甫庵信長記』によると、桶狭間の戦いにおいて、毛利良勝(新介)より簗田政綱(やなだ まさつな)の方が、功績が高かった旨が書かれています。 […]