桶狭間の戦いの勝因~織田信長はなぜ勝てたのか~

織田信長は、桶狭間の戦いでなぜ勝てたのか不思議に思うかもしれません。

この記事では、成り上がり者の織田信長が、広大な領土を支配し大軍を率いる今川義元に勝てた勝因について書いています。

また、結果として勝利した信長ですが、大将を失など信長側も大きな損害を出しています。

今川義元が勝利してもおかしくなかった戦、その勝因の差とは。

目次

桶狭間の戦いになぜ勝てた

まず、桶狭間の戦いについてや、時代背景を簡単に書きます。

永禄3年(1560年)5月、駿河の今川義元は、大軍を率いて尾張に侵攻。

桶狭間の戦いで、今川義元の大軍を織田信長が少数の兵で撃破したことで、信長の名前を天下に知らしめたと云われる戦いです。

通説によると、今川軍25,000~45,000人に対して、織田軍はわずか3,000~5,000人だというのだから驚きですね。

そして、東海道に君臨し恐れられていた今川家は衰退し、織田信長が台頭するという、戦国時代の大きな転換点となりました。

圧倒的に有利だったはずの桶狭間の戦いで敗北し、今川義元は無能なイメージが付いてしまいました。

ドラマでも公家のような格好をした、軟弱な武将として描かれることが多くありました。

しかし、実際の今川義元は、優れた行政改革を行った史実が確認でき、外交や軍事にも優れていたのです。

「海道一の弓取り」との異名を持ち、現在の静岡県ほぼ全部と愛知県西部という広大な領土を持ち、恐れられる存在でした。

今川義元
今川義元 出典元:Wikipedia

一方の織田信長は、内戦を制し尾張国の国主になったばかり、何故、織田信長は、桶狭間の戦いに勝利出来たのでしょうか。

信長はなぜ勝てたのか理由を探っていきます。

勝因①敵を欺くなら味方から

桶狭間の戦いが始まろうとしている頃、今川義元は、尾張の今川方の城・沓掛城(くつかけじょう)に入り、陣を構え戦いは目前に迫っていました。

信頼性の高い『信長公記』という史料によると、佐久間盛重、織田秀敏は、翌朝、今川軍の攻撃があるとの情報を信長に伝えていました。

夜軍議を開いた際、家臣らは籠城か出撃かで、意見が対立していたそうです。

しかし信長は、雑談をしただけで、帰宅の許可を出したと云います。

「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がまさにその時なのだ」と家老たちは嘲笑したそうです。

信長の非凡な才能は現代人であれば知っていますが、信長は若い頃、うつけ者といわれていました。

跡継ぎは弟の方が相応しいとして起きた戦や、同族との戦を制して、尾張をほぼ平定したばかりという状況でした。

当時は、信長の力量を認めていない家臣もいたのではないでしょうか。

また信長は、情報が洩れるのを恐れて何も言わなかったのかもしれません。

織田信長の肖像画
織田信長 出典元:Wikipedia

明け方、今川軍の攻撃の知らせが入ると、信長は「人生50年、天下の内をくれば、夢幻のごとくなり」で有名な「敦盛」の舞を舞います。

おそらく、緊張を和らげるためや、精神を統一するなど信長なりの意味があったものと思われます。

昨夜は味方にすら、戦意を見せなかった信長ですが、鎧を付け立ったまま食事を済ますと、出陣していきました。

勝因②今川義元の油断!?

桶狭間の戦いの前哨戦にあたる丸根砦、鷲津砦の戦いは、今川方の松平元康(徳川家康)勢の攻撃によって落とされました。

大将・佐久間盛重を始め、織田秀敏、飯尾定宗など、織田信長軍の主力武将を失っています。

前哨戦に勝利した今川義元軍は、桶狭間山で休憩し、ご機嫌な義元は、謡を三番うたったそうです。

その後も今川軍は、織田軍の千秋季忠(せんしゅう すえただ)(熱田神宮の大宮司)、佐々成政の長兄・佐々政次らを討ち取ります。

義元の矛先は、天魔、鬼神もなかわないと言い、義元はまた歌ったそうです。

これは、今川義元の油断の根拠とされ、信長の勝因といわれることがあります。

ただ、一度や二度叩いたぐらいで油断する今川義元ではないように思います。

今川義元が負けたという結果から見て、「油断した!」と言われるだけかもしれません。

勝因③戦況を見抜き咤激励する信長

『信長公記』によると、信長が進軍する際に選んだ道は、馬で通るなら縦一列で進軍せざるを得ない道でした。

なので、今川軍に少数の軍であることが見抜かれるからと、家臣らが口々に反対した道だそうです。

しかし信長は、進言を聞き入れませんでした。

信長は、今川軍は夜通し移動して疲労しているのに対し、織田軍は体力を残した兵が多いことを説明します。

そして、家臣らを咤激励した信長は、合戦に勝てば末代までの名誉であると希望を与えます。

結果論になりますが、家臣らが「もってのほかでございます」と進言した道を進んだ信長は、劇的な勝利を得ることになるのです。

勝因④悪天候という運

織田軍が山際まで進軍した頃、視界を妨げるほどの激しいにわか、一説には(ひょう)が降ってきました。

あまりの暴風雨で、近くの大木が倒れるほどだったと伝わります。

豪雨は今川軍の真正面から降りつけ、一方の織田軍は後方にあたる位置にいたようです。

悪天候を好機とばかりにに進軍した織田軍は、雨が止むと今川軍に襲い掛かります。

『信長公記』によると、本陣は桶狭間山で、義元は輿を捨て崩れるよに逃げたことが書かれています。

そうであれば、義元は織田軍が近づいていることに、気が付いていなかったことになりそうです。

義元にとっては、不意の遭遇戦だったということになります。

義元は親衛隊300騎に守られ退却しようとしますが、織田軍と攻防になり50騎ほどになってしまいました。

先を争うように織田軍は、義元に襲いかかり、毛利良勝(新介)によって義元は討ち取られました。

今川義元の胴塚
今川義元の胴塚

大将を失った今川軍は、崩れ織田軍の勝利で幕を閉じるのです。

信長が桶狭間の戦いでなぜ勝てたかを語る際に、天候という運を味方につけたと云われています。

また、以前は通説とされた、織田軍が迂回し奇襲を仕掛けたとする説は、現在では否定的な見方が優勢になっています。

勝因⑤信長の情報収集

『甫庵信長記』によると、桶狭間の戦いにおいて、毛利良勝(新介)より簗田政綱の方が、功績が高かった旨が書かれています。

先に述べましたが、毛利良勝(新介)は義元を討ち取った人物です。

一方の簗田政綱の功績とは、今川義元の本陣を知らせたことだと伝わります。

義元の居場所が分かったからこそ、討ち取れたということで、情報を伝えたことが高く評価されたそうです。

しかし『甫庵信長記』は創作も記載されているそうで、どこまで信用できるか分かりません。

いずれにしても、桶狭間の戦いの功績により、簗田政綱が沓掛城(くつかけじょう)を拝領したのは事実です。

また、確かな史料は見当たりませんが、簗田政綱は今川軍の偵察や地形調査を行ったという説もあります。

桶狭間山は、草木が生い茂り、泥深い田んぼもあったそうで、事前に地形の特徴を知っていたなら、戦いやすかったと思います。

このことは、信長が情報収集し、重視したと根拠として語られることがあります。

また、『信長公記』読むと、信長自身は敵がいるのは承知してたものの、義元の本隊とは思っていなかったと推測でき、義元がいると確信してなかった可能性もあります。

一方、今川義元の居場所を突き止め討ち取ったとの説も有り、桶狭間の戦いには、未だ謎が残っています。

織田信長は趣味の鷹狩を通して、情報収集や戦闘訓練をしていると言われています。

桶狭間の戦いの勝利は、信長の日ごろの訓練が役に立ったと言えそうです。

勝因⑥分散により義元の兵を減らし首を狙った

今川軍は、義元の本隊の他に、守備隊、丸根砦、鷲津砦を攻める部隊に分けていたため、本隊は5,000~6,000人だったと云われています。

織田信長は、なるべく兵力を集中させ2,000の兵を率いて、桶狭間の戦いに挑みましたので、義元を討ち取った時は、そこまでの兵力差はなかったことになります。

今川軍の分散は信長の作戦で、その上で、義元の首のみを狙ったとも云われています。

信長の勝因は、兵力の差が少なくなった千載一遇の好機に、地形的に不利な場所に今川軍がいた上に、天候も味方した為だと思います。

勝因⑦乱取りで今川軍が散り散りになった

戦国時代、普段は農民という兵も多く、掠奪(りゃくだつ)目的で参加している兵士もいました。

乱妨取り、乱取りといわれる行為で、大名は黙認したり、褒美として乱取りを許したりして、戦利品は市に出されたそうです。

今川義元と同盟関係にあった武田家の記録『甲陽軍鑑』によると、今川軍が略奪でいなくなる中、織田軍が味方のように混じって義元を討ち取った旨記載されています。

また史料名は不明ですが、「今川軍が略奪し、油断していた」と徳川家康が証言した史料もあるそうです。

本当だとしたら、この調子なら、今川軍はほぼ勝てると思っていたのでしょうか。

今川軍が乱取りで散り散りになったところに、織田軍が攻めてきたことが勝因とする説です。

勝因⑧今川軍の兵数はもっと少なかった!?

桶狭間の戦いで動員された今川軍は25,000~45,000人、信長率いる織田軍と対峙したのは5,000~6,000人と云われています。

ですが、動員された25,000~45,000人という人数が違うのではないかと推測する説もあります。

つまり、戦国の雄と恐れられた今川義元の大軍を、成り上がり者の信長が数千の手勢で撃破したとなれば、華々しい武勇伝になりますね。

「歴史は勝者がつくるもの」、つまり信長側が、今川軍の軍勢を実際より多く記録した可能性もありえそうです。

敗者になると実際よりカッコ悪く伝わることもあり、、義元が輿を使っていたことから、短足であったり、太っていた為に馬に乗れなかったなど創作話もうまれたりします。

歴史上の敗者は、勝者に都合良く書き換えられている可能性があるのです。

実際に少ない方の25,000人の軍勢だとしても、今川家の領土に対して多すぎるのではないかという指摘もあります。

桶狭間の戦い当時の今川家の領土は、駿河、遠江、三河、尾張の一部と広大ですが、平野の少ない山の多い場所でした。

後に、豊臣秀吉の時代の行われた検地で、駿河・遠江・三河で70万石であり、今川家の兵力を推察すると、15,000人程ではないかと考えられるようです。

一方の織田家の尾張は、生産力の高い土地で56万石であると見られ、今川と織田で領土の広さは違いますが兵力にそこまでの開きはなさそうです。

また、桶狭間の戦いに限ったことではでありませんが、隣国などから国を守る兵も必要です。

なので、仮に今川家の兵力が15,000人だとしても、全員が桶狭間の戦いに出陣するわけではありません。

そう考えると、桶狭間の戦いでの今川軍25,000~45,000人というのは、多いように感じますね。

勝因⑨織田軍の兵数はもっと多かった!?

織田軍が桶狭間の戦いに動員した兵は3,000~5,000人、内、今川軍と直接対峙したのは、2,000人だと云われています。

当時の信長は、尾張をあと一歩で平定という状況。

面積は広くないものの、平地の為10,000人を超える兵力があったのではないか、という指摘があります。

桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像
桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像

織田家には、傭兵を雇える財力基盤がありました。

桶狭間の戦いで雇った記録があるわけでなく、可能性の話になりますが、雇うことは可能だったようです。

現在は埋め立てられていますが、尾張の「津島」は、津島神社の門前町として栄え、伊勢湾の港町として発展していました。

尾張の「熱田」は、熱田神宮の門前町として栄え、港町として繁栄していました。

「津島」、「熱田」によって、潤沢な軍資金が織田家にはあったのです。

こう考えてみると桶狭間の戦いの織田軍の兵は、もっと多かったかもしれません。

また、今川軍は雑兵・足軽が多く含まれていたそうですが、織田軍は精鋭揃いで知られていますので、兵の質の違いもあるように思います。

勝因⑩六角氏の援軍

桶狭間にある長福寺では、現在も今川義元の供養が行われています。

長福寺には、『桶狭間合戦合戦使者書上』という江戸時代末期に書かれた記録が残されています。

『桶狭間合戦合戦使者書上』によると、桶狭間の戦いで今川方は2753名、信長方は990名亡くなったそうです。

また、990名の中に「近江国佐々木方(六角氏のこと)加勢」272名が含まれていると書かれています。

桶狭間の戦いは、織田方に援軍はなかったと見られていましたが、『桶狭間合戦合戦使者書上』を信じるなら援軍は居たことになります。

今川勢が討ち取った六角方の武将が所有したと見られる鐙が長福寺に伝わっており、六角氏加勢の信憑性を増しています。

また、六角承禎が息子・義治(義弼)に送った書状に、信長に軍事的な手助けをするようにという趣旨のことが書かれているそうです。

書状から、当時の信長は、近江の六角氏・越前の朝倉氏とは同盟関係にあったのではないかという説があります。

桶狭間の戦いの後、信長は六角氏と対立し衰退させ、朝倉氏と対立し滅亡に追い込んでいます。

桶狭間の戦い当時は、協力関係にあったのは意外ですが、織田・六角・朝倉氏とも美濃・斎藤氏と対立しており、敵の敵は見方とのことで結びついたのかもしれません。

勝因⑪軍師・太原雪斎がいなかった

今川義元には、今川家の全盛期を築き、義元の右腕として優れた力を発揮した太原雪斎という軍師がいました。

しかし、弘治元(1555年)に亡くなっていた為、桶狭間の戦いにいませんでした。

もし、太原雪斎が生きていたならば、桶狭間の戦いで、信長も勝利出来なかったとまで云われています。

信長はなぜ勝てたのか、理由を述べてきましたが、『桶狭間合戦討死者書上』によると、今川軍は2753人、織田軍は990人余りの犠牲を出したと云われています。

信長の勝利という結果になりましたが、どちらが勝っても不思議でなかったと思います。

参考・引用・出典一覧
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