本能寺の変– tag –
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織田信長
織田信長が出陣した戦い一覧と勝敗、順番
織田信長の戦いを順番にし、一番下に勝敗なども入れた一覧表を書いています。 織田信長の強力な親衛隊が大活躍していた信長が若い頃の戦から、日本統一を成し遂げる途中で倒れた本能寺の変までをなるべく簡潔にまとめています。 織田信長の戦い 野戦である... -
明智光秀
筒井順慶は松永久秀と争い 明智光秀の与力になった大和の大名
筒井順慶は大和の戦国大名で松永久秀とはライバル同士です。 後に、明智光秀の仲介で織田信長に仕え、大和一国を治めます。 本能寺の変が起きると、恩人・明智光秀や藤田伝五から味方になるよう誘われますが、最後は断ります。 この時の出来事が元で、「洞... -
明智光秀
藤田伝五(藤田行政)~本能寺の変で筒井順慶の説得を務めた~
藤田伝五(藤田行政)は、明智光秀が最も信頼していた家臣の一人で、歴史的に需要な人物であるにも関わらず、殆どのことが分かっていないという謎の武将です。 藤田伝五(藤田行政)の功績もあまり分かっていませんが、明智光秀と筒井順慶の取り次ぎ役ををしていたことが判明しています。 筒井順慶との関係について、また藤田伝五(藤田行政)と本能寺の変について書いています。 -
織田信長
近衛前久は信長と仲良しなのに本能寺の変の黒幕!?破天荒な関白の生涯
近衛前久は、足利将軍の従兄弟で関白でありながら、戦に従軍する破天荒ぶりでも知られています。 上杉謙信と血書の起請文を交わし、島津氏に古今伝授をしたり、織田信長と仲良く鷹狩りし、家康の徳川姓の創姓に関わり、豊臣秀吉を猶子にもしています。 輝... -
織田信長
織田信忠はなぜ逃げなかったのか 本能寺の変までの生涯とは
織田信長から家督を譲られた織田信忠。 本能寺の変の知らせを受け、二条新御所に籠って奮戦した後、自害しています。 織田信忠は、明智軍からなぜ逃げなかったのか、その理由と信忠の生涯について書いています。 織田信忠の生母と幼名 弘治3年(1557年)、... -
明智光秀
溝尾茂朝(三沢秀次)(庄兵衛)|明智光秀の最期を見届けた重臣
明智光秀の重臣として知られる溝尾茂朝ですが、通称は庄兵衛で、溝尾庄兵衛とも云われています。 他に三沢秀次など複数の名前が、溝尾茂朝と同一人物と見られていて、とてもややっこしいです。 明智光秀自体が謎だらけですが、光秀の一族や家臣のことも良く分かっていない場合が多いです。 溝尾茂朝(庄兵衛)も同様ですが、分かっている範囲でまとめています。 -
明智光秀
細川忠興は本能寺の変で光秀を拒み関ヶ原合戦では勇猛に戦った
細川忠興は、幽斎(藤孝)の子でガラシャ(玉子)の夫です。 本能寺の変では、義父・明智光秀の協力を拒んだことでも知られています。 織田、豊臣、徳川の世を渡り歩いた忠興は、関ヶ原合戦では勇猛に戦いました。 この記事では、顔の傷は妹に付けられたという... -
明智光秀
明智光忠は明智光秀の次女を娶り本能寺の変の相談もされた重臣
明智光忠は、一説には明智光秀の従兄弟であると云われています。 そして明智光秀の重臣でもあり、光秀が丹波を平定した際に、明智光忠は八上城を任されています。 明智光忠は光秀の信頼厚い人物であったようで、本能寺の変を起こす前に事前に打ち明けられた人物の一人であると云われています。 -
明智光秀
明智左馬之助(明智秀満)の湖水渡り伝説と最後
明智左馬之助は、明智秀満の名で知られた光秀の重臣であり、一族であるとする説もあります。謎に包まれた明智左馬之助の生涯について、伝説になっている「明智左馬助の湖水渡り」について記しています。 -
明智光秀
明智光秀のエピソード~愛宕百韻の連歌会、おみくじ、鉄砲など~
明智光秀は謎の多い武将ですので、エピソードは多くありませんが、いくつか伝わっていますので紹介させていただきます。光秀と大黒天(大黒様)のエピソード, 光秀と鉄砲のエピソード, 光秀が足利義昭に暇乞いを願いでたエピソード, 光秀の連歌 愛宕百韻のエピソードについて記載しています。