徳川家康の側室で督姫の生母・西郡局「お葉」とは、どのような人物でしょうか。
謎に包まれた西郡局の生涯と子孫について、また西郡局の出自であり徳川家康に攻められた鵜殿氏と西郡局の関係についても書いています。
西郡局「お葉」の生涯
大河ドラマ「どうする家康」で「お葉」という名前で登場する女性は、徳川家康の側室で督姫の生母となった西郡局(にしのこおりのつぼね)のことです。
西郡局は、西郡の方とも呼ばれ、時姫という別名もありますが、私が所持している書籍では「お葉」という名前は確認できません。
西郡局という名前の由来は、出身でありますので、本当の名前は分かりません。
ここでは便宜上、西郡局と表記しています。
一説によると、西郡局は上ノ郷城主(西之郡之城)、鵜殿宗家の鵜殿長持の孫で、鵜殿長忠の子供であると言われています。
西郡局の父・鵜殿長忠は、分家である柏原城主・鵜殿長祐の養子となっていますので、西郡局は鵜殿宗家の分家の人間ということになります。
また、鵜殿長持の妻が今川義元の妹であるとも言われており、西郡局の祖母が今川義元の妹ではないかとも言われいます。
永禄5年(1562年)、徳川家康は、鵜殿長持の跡を継いだ鵜殿長照が守る上ノ郷城を攻めて、長照を討ち取ります。
そして徳川家康は、鵜殿長照の息子二人を捕らえて、今川氏真の人質となっていた家康の妻・築山殿(瀬名姫)・長男・松平信康と人質交換をしています。
この様に鵜殿宗家は徳川家康と対立していますが、鵜殿氏の分家は家康に服従したようです。
ここまでは鵜殿長忠が西郡局の実父であるとの説について書きましたが、鵜殿長忠は西郡局の養父であり、長忠の家臣・加藤義広が実父であるとの説もあります。
元々、加藤氏は信濃国で三好氏を名乗っていたそうですが、父の代に三河に移り住み加藤を称するようになったと言われています。
また、西郡局の母については分かりません、西郡局の生年も不明です。
徳川家康の側室になる
いずれにせよ、徳川家康の側室になる際の西郡局の身分は、鵜殿長忠の娘です。
元々、西郡局は人質として家康の元へ送られ、やがて寵愛を受けるようになったのではないかと思われます。
永禄8年(1565年)、西郡局は徳川家康の次女・督姫(ふう)を産んでいます。
督姫は小田原城主・北条氏直の正室となりますが先立たれ、播磨姫路藩初代藩主となる池田輝政に再嫁しています。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉に従属していた徳川家康は、秀吉の命令により関八州に移封となり、江戸城を居城としています。
西郡局は徳川家康に従い江戸城に移っています。
同年、戦火により焼失した鵜殿氏の菩提寺・長応寺を、多大な寄進により日比谷に再興しています。
慶長11年(1606年)、西郡局は伏見城において急に亡くなります。
同日に池田氏と縁のある榊原康政も亡くなっており、人々は不思議に思ったという話が残されています。
徳川家康の命令により池田輝政が西郡局の葬儀を執り行っており、京都の本禅寺に埋葬しています。
法名は蓮葉院日浄。
翌年、池田輝政は姫路城外に青蓮寺を建立して西郡局のお墓を移しており、池田氏が播磨姫路藩を離れてからも幕府の保護により存続しています。
西郡局の子孫
家康と西郡局→督姫→池田忠継→池田忠雄(同母弟)→池田光仲(因幡鳥取藩の初代藩主)→池田綱清→池田吉泰(養子)→池田宗泰→池田重寛→池田治道→池田斉邦→池田斉稷→池田斉訓→池田慶行(養子)→池田慶栄(養子)→池田慶徳(養子)
徳川家康・西郡局の孫である池田忠継は、岡山藩主に取り立てられますが、享年17で亡くなり池田忠雄が跡を継いでいます。
池田忠雄は岡山藩主を継いでおり、嫡男・池田光仲の代で鳥取藩に転封となります。
以降、代々、幕末まで因幡鳥取藩主として続きますが、幕末の池田慶栄、池田慶徳は督姫の子孫ではなさそうです。
家康と西郡局→督姫→池田輝澄(福本池田家初代)→池田政直(福本藩主)
家康・西郡局の孫であった池田輝澄は、松平姓を下賜され藩主となっていますが、お家騒動が起きて改易されます。
ですが、家康の孫ということもあって堪忍料1万石を得ています。
また、跡を継いだ池田政直に嗣子がなかったため福本藩は消滅しています。
家康と西郡局→督姫→池田輝興(播磨国平福藩主、播磨赤穂藩藩主、改易)→池田 政種(旗本)→池田政弘(旗本)→池田清勝(旗本)
池田輝興は家康の孫であり松平姓を与えられています。
また、藩主でもありましたが発狂し事件を起こしたことで改易、子や孫は旗本として存続しますが、やがて子供がいないため御家断絶しています。
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