亀姫は徳川家康と築山殿(瀬名姫)の長女です。
徳川家康が武田氏や今川氏と対峙する中で、有力勢力であった奥平氏を味方につけるため、亀姫を奥平信昌に嫁がせています。
亀姫は四男一女をもうけますが、子供や夫に先立たれ、孫の後見人となっています。
ここでは徳川家康の長女・亀姫の生涯、子孫について書いています。
徳川家康の長女・亀姫
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの二か月前、亀姫は徳川家康の長女として駿府で生まれています。
母は家康の正室・築山殿(瀬名姫)、駿河国の名門・今川義元の一門の家柄です。
徳川家康は三河の岡崎城主の嫡男として生まれますが、今川氏への人質として駿府へ送られ、後に父・広忠を失い今川氏の傘下に入って命脈を保っています。
その様な中、桶狭間の戦いが起きて、今川義元が討たれます。
今川軍として従軍していた徳川家康(当時は松平元康)ですが、戦後駿府には戻らず、義元存命中は今川氏の管理下にあった松平氏の城・岡崎城に帰還しています。
永禄5年(1562年)、徳川家康が今川氏の宿敵である織田信長と同盟を結んだことで、義元の跡を継いだ今川氏真を怒らせます。
その為、築山殿(瀬名姫)の父で亀姫の祖父である関口親永(氏純)は、切腹を命じられ正室と共に自害したと言われています。
徳川家康の子である亀姫の他、築山殿(瀬名姫)や亀姫の一つ上の兄・松平信康の身にも危害が及ぶかもしれません。
同年、徳川家康は、今川氏真に従う上ノ郷城主・鵜殿長照を攻めて討ち取り、長照の二子氏長・氏次を捕らえます。
今川氏の親戚でもある鵜殿氏と駿府に留められていた亀姫ら家康の妻子との人質交換を、家康の懐刀・石川数正の説得により実現させます。
こうして、亀姫は母や兄と共に岡崎に移ります。
奥平信昌に嫁ぐ
元亀4年(1573年)ごろ、徳川家康は、奥三河の有力勢力である奥平家を味方に引き入れようと調略を試みます。
徳川家康は、使者を送りますが奥平氏の返事は「御厚意に感謝します」という程度のものだったと言われています。
そこで、徳川家康は織田信長に相談して、奥平氏に起請文を送り以下の条件を提示し、奥平氏は徳川家康に帰参することになります。
- 奥平氏に領土の加増
- 亀姫と奥平貞昌(信昌)の婚約
- 奥平貞能の娘と本多重純の結婚
天正3年(1575年)、奥平貞昌(信昌)が守備する長篠城は武田軍の猛攻に晒されますが、見事耐え抜き、織田・徳川連合軍の長篠の戦いの勝利へとつなげます。
奥平貞昌(信昌)は、徳川家康から称賛され、褒美として名刀大般若長光を授けられ、亀姫を娶ります。
因みに、亀姫の兄・松平信康は、奥平氏との縁談に反対であったと言われています。
加納御前(加納の方)と呼ばれる
天正18年(1590年)、徳川家康が関東へ加増移封になり、奥平信昌は上野小幡3万石を領します。
慶長5年(1600年)、奥平信昌は、豊臣秀吉亡き後の天下分け目の戦となった関ヶ原の戦いでの戦功として、美濃国加納10万石へ加増転封され、亀姫と三男・忠政も移ります。
美濃国加納へ移った亀姫は、「加納御前」、「加納の方」と呼ばれています。
奥平信昌に側室はなく、亀姫は自ら四男一女をもうけています。
盛徳院と号す
家康の養子になっていた次男・松平家治は僅か14歳で亡くなっており、慶長19年(1614年)10月以降、三男・忠政、嫡男・家昌、夫・信昌を相次いで亡くします。
亀姫は剃髪して、盛徳院と号しています。
亀姫(盛徳院)は、幼少ながら跡を継いだ忠政の長男・忠隆(美濃加納藩主)の補佐をしています。
因みに、亀姫の四男・忠明(播磨国姫路藩主)は、寛永21年(1644年)まで生きて、江戸幕府の宿老として重きを成しています。
寛永2年(1625年)、亀姫(盛徳院)は、加納において66年の生涯を閉じます。
戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。
亀姫(盛徳院)は、異母妹である督姫・振姫・松姫・市姫よりも長生きしています。
亀姫(盛徳院)は、荼毘に付して光国寺(岐阜県)に葬られ境内にに亀姫の墓所があります。
光国寺は亀姫(盛徳院)の菩提寺です。
他に、法蔵寺(愛知県)、大善寺(愛知県)にも亀姫(盛徳院)の墓所があります。
亀姫の子孫
奥平信昌と亀姫の4男・松平忠明は家康の孫であり、天正16年(1588年)、家康の養子となって松平姓を許され名乗っています。
松平忠明は、奥平松平家を興し三河作手藩の初代藩主になり、伊勢亀山藩、摂津大坂藩、大和郡山藩にに移封を経て、播磨姫路藩主(18万石)となっています。
跡を継いだ松平忠弘も移封が続き、出羽国山形藩に封入されます。
奥平松平家3代目の松平忠雅の時に、伊勢国桑名藩へ移封となり以降、7代が113年にわたって治めています。
その後、奥平松平家は、武蔵忍藩主として明治維新を迎えています。
また奥平松平家6代、7代、12代、13代目に関しては亀姫の子孫ではなさそうです。
松平忠明(奥平松平家1代)→松平忠弘(2代)→松平忠雅(3代)→松平忠刻(4代)→松平忠啓(5代)→松平忠功(6代)(紀州徳川家から養子)→松平忠和(7代)(紀州徳川家から養子)→松平忠翼(8代)(忠明の男系子孫)→松平忠堯(9代)→松平忠彦(10代)→松平忠国(11代)→松平忠誠(12代)(大久保氏から養子)→松平忠敬(13代)(上杉氏から養子)
「宇都宮城釣天井事件」の黒幕は亀姫!?
元和8年(1622年)、徳川家康の側近であった本多正純は、「宇都宮城釣天井事件」により失脚します。
この「宇都宮城釣天井事件」の黒幕が亀姫ではないかとする説があります。
なぜ、亀姫が「宇都宮城釣天井事件」の黒幕と言われるのか、それは奥平信昌と亀姫の一人娘に関します。
奥平信昌と亀姫の一人娘は、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁いでいます。
家康の功臣である大久保忠隣の長男として大久保忠常は破格の待遇を得ていましたが、慶長16年(1611年)年、父に先だって32歳の若さで死去しています。
一方、頼みとする大久保忠隣は、幕閣の重鎮として勢いがありましたが、大久保忠常を失ったことで意気消沈し、権勢に陰りが見え始めます。
慶長19年(1614年)、大久保忠隣は、突如、不可解な改易を申し渡されてしまいます。
亀姫は、娘の嫁ぎ先である大久保家の失脚に心を痛めたと言われています。
大久保忠隣は、権力の中枢にいた本多正信・正純父子と対立していました。
その為、亀姫は本多正信・正純父子の策謀によって、大久保忠隣が追い落とされたのではないかと考えたとの説があります。
その他、奥平信昌と亀姫の孫である奥平忠昌(長男の子)が幼少を理由に移封され、代わって宇都宮に入部したのが本多正純であったこと。
本多正純が奥平家の10万石よりも多い15万5,000石に加増されての入部であることにも不満があったようです。
元和8年(1622年)、亀姫は宇都宮城へ宿泊する徳川秀忠に対して、本多正純が暗殺を画策しているともらし(宇都宮城釣天井事件)、結局、事実無根であったものの正純は配流されています。
亀姫が恨みにより本多正純を失脚に追い込んだとも、土井利勝の謀であるとも、徳川秀忠自身が本多正純を疎ましく思っていたとも言われています。
いずれにせよ、本多正純改易により、亀姫の孫である奥平忠昌が再び宇都宮藩へ11万石で再封しています。
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