豊臣秀吉は、明国征服を目指し朝鮮出兵に乗り出します。
朝鮮出兵は、石田三成と武断派武将との間に亀裂を生み、やがて起きる石田三成襲撃事件、関ヶ原の戦いの一因になったと考えられます。
朝鮮出兵の概要、石田三成と武断派武将の反目要因について書いています。
朝鮮出兵(文禄の役)
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、唐入り(明国への侵攻)を掲げていきます。
天正18年(1590年)11月、秀吉の天下統一を祝福する朝鮮王朝の通信使が派遣され、聚楽第で会見しています。
朝鮮の服属使であると秀吉に偽っていため、朝鮮が従属したと解釈した秀吉は、明国への侵攻あたっての先導役を朝鮮に命じます。
朝鮮との交渉役は対島の宗義智です。
宗義智は朝鮮と断交にならないよう、秀吉の要求を明国侵攻のため朝鮮に道を借りたいという「仮途入明」(かどうにゅうみん)に替えて交渉しています。
しかし、朝鮮は秀吉の要求を拒否し、明国へ秀吉の征服計画を伝えてしまいます。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は嫡男の豊臣鶴松を失っています。
その為、甥・豊臣秀次に関白職を譲り、秀吉の後も豊臣氏が天下に君臨し続けることを示し、秀吉は太閤(前関白の尊称)となります。
その後も国内の最高指導者であった秀吉は、天正20年(1592年)3月、唐入り(明国への侵攻)を明言しています。
名護屋の築城
肥前国名護屋に拠点となる城を築城するよう、黒田長政・加藤清正・小西行長らに命じています。
豊臣秀吉は、朝鮮に要求に応じるのか確認するため、宗義智と小西行長を朝鮮に派遣しますが、返事を待たずに四国、九州などの大名に渡海を命じています。
豊臣秀吉自身は、拠点・肥前国名護屋に向かっています。
天正20年(1592年)4月、宇喜多秀家を総大将にして朝鮮出兵(文禄の役)が始まりました。
朝鮮半島に上陸した日本勢は、秀吉の要求を拒絶した朝鮮へ攻撃します。
開戦当初の日本勢は順調に進撃し、開戦からわずか21日後、朝鮮国の首都・漢城府を落としています。
三国国割構想
首都・漢城府陥落の報を受けた秀吉は、「三国国割構想」を発表しています。
三国国割構想とは、明国征服後の東アジアの統治構想を描いたものです。
具体的には、後陽成天皇に明の首都・北京に移っていただき、豊臣秀次を大唐関白とします。
後陽成天皇の皇子か弟が、日本の新たな天皇になり、豊臣秀保か宇喜多秀家(秀吉の猶子)が日本の関白になります。
朝鮮国には豊臣秀勝を据えて、秀吉自身は寧波にに居を構えて、東アジアの盟主になるという構想です。
こうして、三国国割構想を示した秀吉は、自ら渡海すると言い出します。
石田三成は秀吉の意見に賛同しましたが、豊臣秀吉の身を案じた徳川家康、前田利家は反対しています。
秀吉の名代として三成らが渡海
その為、秀吉の渡海は延期になり、代わりに石田三成・大谷吉継・増田長盛が渡海し、秀吉の名代として朝鮮出兵の総奉行を務めています。
日本勢は平壌を制圧するなど朝鮮半島を攻略しますが、李 舜臣(イ・スンシン)率いる水軍が日本船を攻撃して撃破しています。
その後、朝鮮義兵の蜂起、明の大軍派遣があり、その上、日本軍の兵糧や弾薬も少なく日本軍は苦しい状況に陥ります。
日本軍は協議の末、明に侵攻するには時間が必要であるとし、日本軍の進撃を一旦停止し、漢城の守りを固めることにします。
天正20年(1592年)7月、秀吉の母・大政所(なか)が危篤であるとの知らせにより、秀吉は徳川家康、前田利家に名護屋城の留守番を任せて大坂城へ急ぎます。
既に亡くなった後であった為、母を看取れなかった秀吉ですが、名護屋城に戻ると来春渡海する意向を示しています。
しかし、秀吉の渡海はまたも延期になります。
日本と明の講和交渉
長期化する戦況に兵の戦意は低下し、また、日本と明双方の兵糧が尽きそうになっていることもあり、講和交渉が行われます。
石田三成・小西行長・大谷吉継は、講和に前向きでしたが、ここで講和しても恩賞が得られないと反感を持つ諸将もいたようです。
ですが、明軍から派遣された沈惟敬(シェン ウェイ チン)、小西行長、加藤清正の三者で会談を行い、条件つきで合意しています。
文禄2年(1593年)4月、日本軍は漢城から撤退します。
同年5月、小西行長と朝鮮出兵の三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)は、明勅使と共に日本へ向かいます。
その後、豊臣秀吉は名護屋城で明勅使と会見し、明勅使に7つの条件を要求しています。
- 明の皇女を天皇の妃にすること。
- 断絶していた勘合貿易の復活。
- 日本と明の大臣が誓紙を交換する。
- 朝鮮半島南部の割譲。
- 朝鮮王子、家老を人質として差し出すこと。
- 朝鮮の重臣たちの誓紙提出。
- 捕虜にした朝鮮王子2人を朝鮮に返還する。
偽りの講和交渉
ですが、明勅使は正式な使節ではなく、講和交渉の進展を望む日本と明の担当者が仕立てた偽りの勅使です。
豊臣秀吉には「侘び言」を伝える勅使であると報告していた為、事実とは異なり勝者として秀吉は会見に臨んでいます。
一方、明には日本降伏という報告をする為、豊臣秀吉の要求では、講和交渉はまとまりません。
石田三成、小西行長らが関与していたと見られていていますが、三成と行長らは明に書き直して報告するよう進言したようです。
明には「勘合貿易の再開」という条件のみが伝えられています。
豊臣秀吉は、戦闘を収束させつつも、朝鮮半島南部の支配は必須として、朝鮮半島南部の各地に城を築かせて、在陣諸将に守衛番を任せています。
文禄2年(1593年)8月、拾(豊臣秀頼)が誕生すると秀吉は大坂城に戻り、以降畿内に居続けました。
一方、内藤如安(小西行長の家臣)は、秀吉の「納款表」を持参し、答礼使として明へ派遣されています。
明から秀吉の降伏を示す文書を要求された為、「関白降表」を小西行長が偽作して、1594年(文禄3年)の12月に再度、内藤如安を派遣して届けさせています。
こうして、秀吉は日本が勝利したと思い、明は日本が降伏したと事実と異なる認識をしています。
文禄4年(1595年)7月、秀次事件が起き、豊臣秀次が没します。
明との講和交渉は未だ続いていて、「関白降表」を確認した明は、偽りとも知らず日本に使節を派遣することにしています。
一方、豊臣秀吉は講和交渉が進まない為、朝鮮に再出兵する計画を立てていましたが、明の使節が派遣されてくるとの報告を受けて再出兵計画を撤回しています。
同年5月、豊臣秀吉は改めて講和条件を提示し、前回より譲歩した内容になっているものの、「朝鮮半島南部の割譲」、「朝鮮王子を人質として差し出すこと」は、条件に入ったままでした。
講和交渉の決裂
同年9月、豊臣秀吉は明使節を大坂城で迎え、「日本国王」の任官と金印を授かります。
翌日、明使節から朝鮮半島から完全に撤退するよう求められ、秀吉は自分の要求が全く受け入れられていないのを知ります。
激怒した豊臣秀吉は、明の使者を追い返し、講和交渉は決裂しています。
朝鮮再出兵(慶長の役)
慶長2年(1597年)2月、豊臣秀吉は小早川秀秋を総大将にして、朝鮮へ再出兵を命じており、同年6月、朝鮮での戦闘が開始されます。
一度目の朝鮮出兵の三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)は渡海せず、軍目付として福原長堯、熊谷直盛、垣見一直、太田一吉らが派遣されています。
朝鮮半島南部の確保を目指して侵攻した日本軍ですが、明、朝鮮軍の反撃に苦戦しています。
日本軍は朝鮮半島南部の二道を占領し、慶長2年(1597年)11月、加藤清正、浅野幸長、毛利秀元らによって蔚山倭城の築城が始まります。
翌月、建設中の蔚山倭城に明、朝鮮軍が急襲をしかけ、一報を聞いた加藤清正は直ぐに帰還して城内に入ります。
こうして加藤清正指揮の元、籠城戦が始まります。
しかし、蔚山城の惣構は完成していなく、惣構を突破された日本軍は多くの犠牲者を出してしまいます。
連日、明、朝鮮軍による攻撃に晒された日本軍ですが、城を守り抜いて、敵に甚大な被害を与え攻撃を頓挫させています。
ですが、蔚山城に兵糧を十分に備蓄できないままの籠城戦になった日本軍は、兵糧や水不足に加え極寒に苛まれ、斃れる者や投降する者が出ます。
苦戦を強いられる日本軍ですが、毛利秀元、黒田長政ら率いる援軍が到着し、明、朝鮮軍を撤退させています。
朝鮮出兵と石田三成に対する反発
蔚山城の戦い後、宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政らは、戦線縮小案を豊臣秀吉に申し入れますが、秀吉は言語道断として許しませんでした。
また、朝鮮出兵の軍目付である福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は、蔚山城の戦いについて秀吉に報告する時、蜂須賀家政と黒田長政は、不活発な点があったことを秀吉に伝えています。
蜂須賀家政と黒田長政及び、戦線縮小案を進言した諸将らは、秀吉から不興を蒙ることになります。
特に、蜂須賀家政は蔚山城の戦いで武功を挙げたにもかかわらず、重い処罰を受けています。
一方、報告をした戦目付三人は、褒美を与えられています。
福原長堯(石田三成の妹婿)と熊谷直盛(石田三成の妹か娘婿)は、石田三成の親戚で、垣見一直は三成と親しい仲です。
豊臣秀吉への戦況報告は、石田三成を通じてなされたこともあり、三成がこの処分に関与していると見て反発を深めたようです。
武断派武将と石田三成の反目は、やがて豊臣家家臣の分裂、抗争に発展していきます。
豊臣秀吉と前田利家亡き後、武断派武将七将による石田三成襲撃事件が起きます。
朝鮮出兵の際の亀裂により、反・石田三成勢力が結成されたのではないかとも見られていて、関ヶ原の戦いの一因であると思われます。
朝鮮出兵の終焉
話が前後しますが、朝鮮出兵は意外な形で幕を下ろします。
慶長3年(1598年)5月、病に伏せるようになった秀吉は、8月に生涯を閉じています。
同年11月、豊臣秀吉の死を秘したまま、五大老・五奉行のもと、日本軍は朝鮮半島から撤退し帰国しています。
参考・引用・出典一覧 戦国時代ランキング
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[…] 朝鮮出兵での確執などが理由のようですが、徳川家康が仲介し、石田三成は五奉行から失脚して、佐和山城に隠居させられます。 […]