滋賀県大津市下阪本には「明智塚」と呼ばれる光秀の供養塔があります。
その明智塚には、明智光秀が大切にしていた郷義弘(ごう の よしひろ)作の脇差などの宝物を埋めた場所であるとされています。
今回は坂本にある明智塚と郷義弘作の脇差について記載しています。
坂本の明智塚と場所
明智塚は、明智光秀が織田信長の命で築き、光秀の居城となった坂本城の跡地に建つ光秀を弔う供養塔とされている場所です。
坂本城本丸跡の少し北側に行くと明智塚があるのですが、坂本城本丸と二の丸のあった境め付近になるそうです。
現在では坂本城があった一部の場所は坂本城址公園として整備されており、坂本城址公園の駐車場に車を止めて歩いて向かえる距離に明智塚がありますので公園から徒歩で向かいました。
国道161号(西近江路)という大通りに面していますが、分かりずらく見過ごしてしまいそうに思います。
私は2019年9月上旬に行きましたが、坂本城址公園から向かいauショップがあり、auショップの隣には有限会社 村田製作所があり、その隣に明智塚がありました。
この明智塚には、「ここは光秀公の墓だから、触ると祟られる」という言い伝えがあると云います。
その為、発掘調査もされていないそうですが、大切に守られてきたと云い、現在では村田さんという方が管理している様子です。
個人宅か事務所なのかよくわかりませんが、どなたかの敷地内であるようです。
滋賀県観光協会のホームページでも紹介されている、光秀のゆかりのスポットが個人の敷地内で少し驚きました。
写真だけ撮らせていただき、早々に去りました。
明智塚に埋まる郷義弘作の脇差
明智塚の立て札には、ここの土地は坂本城の敷地内と推定され、坂本城落城の際に光秀が所持していた郷義弘作の脇差を埋めた場所とされています。
その短刀は、郷 義弘(ごう の よしひろ)がつくり、光秀が愛用した脇差で倶利伽羅(くりから)の吉広江(よしひろえ)であると伝えられているそうです。
そして、明智左馬之助(左馬助)(秀満)が死出の山で光秀に渡そうとした話が残る脇差です。
明智左馬之助(秀満)は、光秀の一族衆とされている人物で、本能寺の変の後は光秀の居城であった坂本城を守っていました。
光秀の死後も左馬之助(秀満)は秀吉方とよく戦いましたが、これ以上の防戦は無理であると判断し、死を覚悟し坂本城に火を放ちます。
しかし、坂本城にあった天下の名物・財宝が無くなるのを惜しみ、秀吉方の元へ目録と共に贈ったとされています。
そして秀吉方から、送られた財宝の中に、光秀の郷義弘作の脇差がないがどうしたのかと問われたそうです。
左馬之助(秀満)は、光秀に死出の山で渡したいと答え自身の腰に差したとされ、秀吉方も納得したと云われています。
その光秀が秘蔵し大切にした脇差がこの明智塚に埋まっているとされています。
また、「明智左馬之助の首塚」、「明智一族の墓所」という伝承も残っています。
明智塚の場所など
料金:無料
TEL:077-578-6565(坂本観光案内所)
住所:滋賀県大津市下阪本3丁目
湖西道路下坂本ICから5分
駐車場:坂本城址公園駐車場へ(10台)
明智塚近くある坂本城址公園に行った記事はこちらです。
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