福島正則は豊臣秀吉の親戚として出世街道を歩み、尾張清州24万石の大名に取り立てられます。
関ヶ原の戦いでは徳川方の先鋒として活躍し、安芸広島49万8千石の大封を得ますが、後に広島城無断修築を咎められて改易されてしまいます。
この記事では、福島正則の改易理由について考察しています。
まず、福島正則はどのような人物か概要を書いています。
福島正則の概要
永禄4年(1561年)、福島正則は尾張国で誕生しています。
桶屋や桶大工の子ともいわれますが、父親については諸説あり定かではありません。
正則の母が秀吉の叔母に当たる縁により、後に秀吉に小姓として仕えます。
福島正則は、武勇に長けたイメージが強い武将ですが、天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて武功を挙げています。
賤ヶ岳の戦いにおいて、功名をあげた7名は賤ヶ岳の七本槍と呼ばれ、秀吉から称賛されています。
福島正則は恩賞として、賤ヶ岳の七本槍の中でも一番多い5,000石を拝領しています。
天正20年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)において、福島正則は五番隊の主将として渡海しています。
その後、第二次朝鮮出兵(慶長の役)でも大将に抜擢されていましたが、秀吉が没したことにより、朝鮮出兵は終わり計画は実行されていません。
また、朝鮮出兵での対立により、福島正則ら武断派武将と石田三成ら文治派武将との間に亀裂が生じます。
秀吉亡き後、豊臣政権の調整役であった前田利家までもが没すると、豊臣家臣団での対立が表面化します。
慶長4年(1599年)、福島正則は加藤清正らと共に、7将で石田三成を襲撃する事件を起こしています。
福島正則は、仲介役であった徳川家康になだめられて矛を収め、家康の昵懇大名となったそうです。
その後、徳川家康は、豊臣政権の五大老筆頭として、福島正則・黒田長政・浅野幸長・細川忠興らを連れて上杉征伐に向かいます。
その途中、石田三成と大谷吉継が挙兵したとの知らせが入り、徳川家康は軍議を開きます(小山評定)。
諸将が動揺する中、福島正則はいち早く徳川家康支持を唱え、秀吉子飼いの正則ですら味方するのならばと、諸将は雪崩を打って家康を支持したといわれています。
現在では史実かどうか疑問視されていますが、上杉征伐軍に参じた殆どの大名は、徳川家康についています。
関ヶ原の戦いでの福島正則は、徳川方先鋒の第一番手として奮戦し、石田方(西軍)の主力の一つである宇喜多秀家隊を壊滅に追い込んでいます。
徳川方(東軍)の勝利に貢献した福島正則は、尾張清州24万石から、安芸広島と備後鞆49万8,000石の大封を得ています。
福島正則は、知行高が倍増しており、貢献度の高さがうかがい知れます。
また、中央の要の地であった尾張清州からの移動ともいえ、福島正則の旧領は家康の4男・松平忠吉に与えられています。
その後、江戸幕府の命令に応じて城修築など忠勤に励む一方、豊臣家の恩義も忘れず豊臣家を主筋にたてたそうです。
しかし、豊臣秀頼に忠節を尽くす福島正則に対し、徳川家康は警戒心を持ったともいわれています。
後に、豊臣恩顧の大名・加藤清正・浅野幸長・池田輝政が相次いで亡くなり、福島正則の影響力も低下したと思われます。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起きると福島正則は江戸城留守居役として留めおかれ、代わりに次男(後継者)の忠勝を出陣させています。
元和5年(1619年)、広島城を無断修繕したことを咎められたことがキッカケとなり、安芸・備後は没収され改易されています。
信濃国・越後国4万5,000石に減転封の命令が福島正則に下り、福島忠勝に家督を譲り蟄居しています。
ですが、翌年、福島忠勝が亡くなり、福島正則は悲しみの余り2万5,000石を幕府に返上しています。
寛永元年(1624年)、福島正則は没します。
幕府の検死役が到着する前に、家臣が福島正則の遺骸を荼毘に付したため、残りの2万石も没収されてしまいます。
改易理由①広島城無断修築
関ヶ原の戦いにおいて、最前線で槍を振るい戦った福島正則は、功労者であるにも関わらず改易されました。
その改易理由として真っ先に挙げられることは、広島城無断修築です。
大坂の陣の後、江戸幕府は一国一城令発布しています。
一国一城令により、一国に一つの城を残し、その他は廃城にしなければなりませんでした。
また、城を修復する際は、江戸幕府の許可を得る必要もあります。
福島正則は、広島城があるのに新たに城を築城しており、幕府から破却を命じられています。
その後、台風により広島城に被害がでたようで、広島城の修築を願い出ています。
しかし、新たに城を築城していたことが尾を引き、2ヶ月経っても修築の正式な許可が出ません。
そこで、広島城の本丸・二の丸・三の丸・石垣などを無断で修築してしまい、咎められてしまいます。
雨漏りするため修築したようで、江戸に滞在中であった福島正則が謝罪し、「本丸以外の修築分を破却」することで一旦は赦免されています。
福島正則は、早速指示に従いますが、修築した本丸の壁・土・石を取り除き、二の丸・三の丸の修築部分はそのままにします。
福島正則の対応を知った徳川秀忠は、破却が不十分であるとし、直ちに安芸・備後を没収し改易てしまいます。
諸大名への見せしめの為、改易されたのかもしれません。
改易が言い渡された時、福島正則は江戸に留め置かれています。
福島正則と家臣団が引き離された状態で改易したのは、反乱を防ぐためともいわれています。
福島正則が没した翌年、正則の功績を考え、子の福島正利は3,112石を与えられて旗本に取り立てられています。
改易理由②正則を警戒した
福島正則が改易された理由は、元々幕府から警戒されていたのに、広島城無断修築をしたからではないかと思います。
福島正則は、秀吉子飼い武将の中でも、突出した存在でした。
福島正則が賤ヶ岳の七本槍の中で、最も多い5,000石を与えられたのは、先に述べた通りですが、その後も順調に出世しています。
秀吉子の飼いといえば、福島正則の他に、秀吉の親戚でもある加藤清正が代表的ではないでしょうか。
福島正則が大名となったのは、加藤清正より早い天正15年(1587年)で、伊予国今治11万3千余石を拝領しています。
その後、文禄4年(1595年)、福島正則は尾張国清洲に24万石を与えられて清州城主となります。
尾張国清州は、京や大坂を防衛する要の地であり、徳川と戦が起きた際の備えの備蓄米(10万石)も正則に預けています。
福島正則は、豊臣秀吉から厚い信頼をえていたことが分かります。
慶長3年(1598年)、福島正則は羽柴名字・豊臣姓を与えられ、福島を改めて「羽柴侍従正則」となり、豊臣家が滅亡するまで羽柴姓を捨てませんでした。
豊臣家譜代は諸大夫成(従五位下叙位)という官位ですが、福島正則と青木一矩(重吉)だけは公家成(侍従任官)という一段上の官位に属しています。
福島正則は、豊臣氏の「准一門」として、豊臣家重臣の中でも格別な待遇を得ていたのです。
ところが、諸大名の私婚を禁じる豊臣秀吉の遺命がある中、真っ先に遺命に反したのは福島正則です。
豊臣秀吉の喪が明けぬ内に、養子・福島正之と家康の養女・満天姫を結婚させ、徳川家との結びつきを強めています。
推察ですが、この出来事は徳川家に信頼できない人物、情勢次第でなびく人物との印象を与え、警戒心を持たせた可能性があるように思います。
警戒心だけでは改易理由としては弱いですが、広島城無断修築を一度は許したのに、正則に落ち度があったため、外様の正則を大大名の座から失脚させたのかもしれません。
改易理由③福島家の利用価値の低下
豊臣秀吉没後、徳川家康に接近した福島正則ですが、豊臣家への忠義も忘れなかったそうです。
福島正則・加藤清正・浅野幸長は、豊臣恩顧の大名であり、豊臣家・徳川家双方の親戚でもあります。
福島正則らは、徳川家から豊臣家の橋渡し役として期待されていたのではないかと思います。
徳川家康は、豊臣家を滅亡に追い込む悪役として語られることがあります。
しかし、当初、豊臣家を滅ぼす意思は無かったともいわれます。
慶長8年(1603年)、徳川秀忠の娘・千姫を豊臣秀頼に嫁がせたことを考えると、徳川家の一大名として存続を認めるつもりだったのだろうと思えます。
いつからかは分かりませんが、福島正則も豊臣家が生き延びるには、徳川家の傘下に入るしかないと気が付いたのではないでしょうか。
慶長16年(1611年)、加藤清正・浅野幸長・福島正則の説得により、ようやく徳川家康と豊臣秀頼の会見が行われています。
しかし、慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件がキッカケになり、大坂冬の陣が始まります。
福島正則は、豊臣秀頼から加勢を求められますが、応じていません。
しかし、豊臣家の恩義を忘れられず、大坂の蔵屋敷にあった米の接収を黙認したようです。
また、福島正則は、使者を遣わし大坂城に豊臣秀頼を説得する書状を届けさせています。
福島正則は、この度は重大事なので、まず秀頼の生母・淀殿(茶々)に江戸に下ってもらい、来年になったら秀頼が駿府と江戸に下るのが良いとの見解を示しています。
つまり、淀殿(茶々)に人質になってもらい、生き延びて欲しいという意味だと思います。
この頃、大坂へ向かう浪人は捕縛され、秀吉の正室・高台院(北政所)ですら、大坂に下向できず京に戻されていたそうです。
そのような中、福島正則が大坂城まで書状を届けられたのは、徳川方の意向を受けて豊臣方を説得したのではないかともいわれています。
また、正則の甥・福島正鎮、一族の福島正守は豊臣家に味方し、正則の弟・福島高晴は内通を疑われ改易されています。
福島正則自身は、正則は冬の陣・夏の陣ともに江戸留守居役を命じられ、徳川方に参じることは許されませんでした。
福島正則の嫡男・福島忠勝は、徳川方として従軍しています。
福島家の去就を見てみると、福島正則としても葛藤があったのだろうと推察でき、福島家の苦しい立場が読み取れます。
豊臣秀頼を説得したのは、徳川家の意向に沿った説得工作だとしても、福島正則は豊臣家の存続を願っていたのもまた事実のように感じます。
しかし、徳川家と豊臣家は一旦和議を結びますが、翌年には大坂夏の陣が勃発し豊臣家は滅亡しています。
豊臣家滅亡により、福島家のパイプ役としての役目も終わりを迎え、福島家の利用価値が低下したとも言えるかもしれません。
豊臣家滅亡が福島家改易の直接原因ではありませんが、遠因になった可能性はあるように思えます。
改易理由の遠因
時間が前後しますが、福島正則は、関ヶ原の戦いの前哨戦にあたる岐阜城の戦いに参じ、攻め落としています。
その直後、福島正則の家老が徳川家の足軽から辱しめを受けて、自害したという逸話があるそうです。
福島正則は、家老の首を家康に送りつけ、その足軽の上司にあたる徳川家の家臣・伊奈昭綱(図書)の切腹を求めています。
家康は、その足軽の首を届けさせたものの正則は納得せず、家康は伊奈昭綱(図書)を自害させたそうです。
この為か定かではありませんが、福島正則のことを「資性強暴にて、軍功にほこり」と徳川家の記録に書かれています。
確かに荒々しいイメージのある福島正則ですが、徳川家康にこのような要求が本当にできたのか、史実なのかは分かりません。
ただ、福島正則が改易された遠因との説があります。
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