松平昌久は、松平氏の庶流である大草松平家の4代目当主です。
松平昌久の父が松平清康(家康祖父)に敗れたことで、昌久は家康に従属する身となります。
後に、三河一向一揆が起きると、松平昌久は家康に背いて敵対し、敗北後は行方をくらませたという昌久について書いています。
松平昌久 家康に従属する
松平昌久の氏族である大草松平家は、岩津の松平信光(岩津松平家の祖)の五男・松平光重を祖としています。
松平信光は徳川家康の高祖父の祖父でもありますので、松平昌久と家康は祖先が同じです。
また、大草松平家はかつて岡崎城主でしたので、岡崎松平家と呼ばれることもあります。
大永4年(1524年)、松平昌久の父である松平昌安は、松平清康(家康の祖父)の侵攻により山中城を略取されたため、岡崎城とその所領を譲っています。
松平昌安は、娘・於波留を松平清康の正室として嫁がせて、額田郡大草郷に退きます。
一方、松平昌安の子供である松平昌久は、徳川家康に従属しています。
徳川家康(当時は松平元康)は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て、今川氏と断交し織田信長と同盟を結びます。
大草松平家は親今川派であったため、松平昌久は、家康(元康)が今川氏から決別したことを苦々しく思っていたかもしれません。
三河一向一揆で離反
松平元康は、永禄6年(1563年)には、今川義元から賜った「元」の字を返して家康と改名しています。
同年、徳川家康(当時は松平姓)が治める西三河において、本願寺派の門徒らが蜂起し、家康と戦になります(三河一向一揆)。
徳川家康の家臣には一向宗の門徒が多く、主君である家康に味方するか、信仰に基づいて一揆に与するか苦渋の選択を余儀なくされます。
渡辺守綱(徳川十六神将)・蜂屋貞次(徳川十六神将)・本多正信(江戸幕府重臣)・本多正重・夏目吉信・石川康正(石川数正の父)らは、一揆方に与しています。
『地名大系』によると、「大草城主松平平七郎」が一揆方についた旨記載があります。
七郎という名前は、松平昌久の別名でありますので、昌久は家康と対立したようです。
松平昌久の他に、松平氏の庶家では桜井松平家の松平家次が一揆方についています。
ただ、松平昌久は西山浄土宗を宗旨としており、信仰的要因により一揆方に与したわけではなく、直接一揆に加わってもいないそうです。
松平昌久は、反家康方の吉良義昭(一向一揆とは無関係との説もあります)らと共に、大草の手のものを率いて東条城に籠城します。
ですが、翌年2月に東条城は落城し、松平昌久の行方は分からなくなりました。
その後、徳川家康は、一揆の解体に成功して和議を整えています。
松平昌久の子孫
松平昌久は三河を去りましたが、大草松平家は存続しています。
松平昌安の娘が松平清康に嫁いでいたことと関係があるのかもしれません。
大草松平家7代・松平康安は、家康の嫡男であった松平信康に仕えています。
松平信康亡き後は家康に仕えて戦功を挙げ、小田原征伐では侍大将として出陣したと言われています。
大草松平家の8代目当主・松平正朝は、水戸藩の家老になりますが、9代目の松平正永は、無嗣で大草松平家は断絶しています。
コメント