石田三成の家臣は、豊臣秀次の家臣団の通称である若江八人衆(わかえはちにんしゅう)として活躍していた者が多く居ます。
若江八人衆の内、舞兵庫、大山伯耆、大場土佐、高野越中、牧野成里、森九兵衛は石田三成に仕えています。
何故、石田三成の家臣には若江八人衆が多いのでしょうか。
若江八人衆について書いています。
若江八人衆
若江八人衆とは、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次の家臣団の通称です。
また、秀次は三好康長の養子だった時期があります。
若江八人衆の「若江」は、河内の若江という地名が由来であると言われていて、三好康長の養子であったことと関係があると思われます。
織田政権に組み込まれた三好康長は、河内半国を拝領していた時期があり、この頃に秀次を養子に迎え入れたという説があります。
その後、本能寺の変が起きて、織田信長が斃れると、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は天下人の道を歩み始めます。
やがて、三好康長の行方は不明になり、秀次は羽柴姓(その後、豊臣)に戻ったようです。
このような経緯で、三好康長の家臣団をそのまま引き継いでいます。
若江八人衆は三好康長に仕えていた家臣が多くいましたが、豊臣秀吉が戦巧者などを人選して豊臣秀次の配下につけたとされます。
子供がいなかった秀吉によって、秀次は豊臣家の後継者候補として関白に就任しています。
しかし、秀吉の子・秀頼が誕生すると状況は変わってしまいます。
やがて秀次は精神的に不安定になり、事件を起こしたとも、我が子を跡継ぎにしたい秀吉の陰謀があるとも云われていますが、真実はわかりません。
いずれにせよ、秀次は自害に追い込まれ、主君の居なくなった若江八人衆の多くを石田三成が召し抱えたと云います。
若江八人衆の内、藤堂良政と安井喜内を除く、舞兵庫、大山伯耆、大場土佐、高野越中、牧野成里、森九兵衛は三成の家臣になりました。
豊臣秀長に仕えた!?
それぞれどのような人物だったのか記載する前に書いておきたいことがあります。
先に書いた通り若江八人衆とは、豊臣秀次の家臣のことです。
しかし、Wikipediaで舞兵庫(前野忠康)、大山伯耆、大場土佐を見てみると、若江八人衆ではありますが、豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、秀長の死後三成に仕えたとなっています。
秀次に仕えたとは書いていません。
若江八人衆というのは、秀次の家臣のことですので何故、「秀次の家臣」である記載がないのか不思議でした。
私の所持する複数の書籍では、「秀次が亡くなり石田三成に仕えた」ことになっています。
ずっと不思議でしたが、新たな本を読み進めていると「秀長が亡くなり石田三成に仕えた」と書かれた本に出会いました。
何故、二つの説があるのか不明です。
私の憶測ですが、古文書によって書いてあることが違うのかもしれないと思っています。
舞兵庫(前野忠康)
舞兵庫(前野忠康)は、秀吉古参の家臣である前野長康の娘婿として知られています。
前野兵庫とも呼ばれますが、舞兵庫(まいひょうご)の名前で知られています。
豊臣秀次に仕え、黄母衣十三人の一人、若江八人衆の一人になり戦功を重ねたと云います。
※豊臣秀長に仕えたとする説もあります。
豊臣秀次の重臣となた舞兵庫ですが、秀吉に嫡男・秀頼が生まれると、秀次の立場は微妙になります。
後に主君・秀次は、秀吉に自害を命じられ、秀次の家老を務めた義父・前野長康も連座し切腹処分になってしまいます。
そして秀次の多くの縁者も秀吉に滅ぼされました。
石田三成は、舞兵庫の身の安全を思い匿ったそうです。
そして、後に秀吉の許しを得て、前野忠康から舞兵庫に改名し三成の家臣になります。
舞兵庫は、一説には、石田家中で島左近に次ぐナンバーツーの実力者とも言わるくらいの逸材です。
豊臣秀吉が没すると、石田三成は徳川家康と対立します。
徳川方と戦になり、舞兵庫は美濃福束城の救援を行ったり、合渡川の戦いに参戦しています。
また関ケ原の戦い本戦では、石田隊先陣として奮戦し、嫡男と共に討死したとされますが、その死は謎のままです。
舞兵庫の生き残った一族の多くは、藤堂高虎によって庇護されたと伝わります。
大山伯耆
大山伯耆(おおやま ほうき)は、石田三成の家臣の中で、知られた名前だと思います。
大山伯耆は生年、実名共に不明です。
黄母衣十三人、若江八人衆の一人、官途(地位)は伯耆守であったと云います。
豊臣秀次に仕え、馬廻右備を務めたそうです。
※豊臣秀長に仕えた説もあります。
その後、秀次事件により秀次が亡くなり、石田三成の家臣になったと云います。
やがて、豊臣秀吉が亡くなり石田三成襲撃事件が起き、三成は五奉行の座を退任に追い込まれます。
石田三成は、伏見から佐和山城に帰城することになりますが、大山伯耆は加藤清正ら7将の再襲撃を心配したそうです。
大山伯耆は、蒲生郷舎と共に三成の護衛をし、無事に帰国しています。
関ヶ原の戦い前に、伏見城に高野越中(若江八人衆の一人)と共に石田三成の陣代理を務めたそうです。
関ヶ原の戦い本戦では、石田隊の先備えとして奮戦し、一手の大将を務めて壮絶な討死をしたとされる一方、生存説もあります。
大山伯耆の相撲の逸話
大山伯耆は、腕力に優れた豪傑(ごうけつ)と伝わります。
そのことを示すような大山伯耆の逸話が残っていますので紹介させていただきます。
秀吉が九州島津攻めの際に、勝山城で諸大名から力士を選抜させ、相撲を取らせたそうです。
その際に、石田家からは大山伯耆が選ばれ、可児才蔵(かにさいぞう)や塙団右衛門(ばんだんえもん)らと技を競ったとされています。
大山伯耆といえば、この相撲の逸話が有名だと思います。
ですが、島津攻めは1586年~1587年に起きた出来事であり、豊家秀長、秀次とも存命ですので三成の家臣ではない時期だと思います。
豊臣家の家臣として相撲をしたのか、そもそも、なかった話かもしれませんね。
大場土佐
大場土佐(おおば とさ)は、生年不明、通称は三左衛門、大庭という姓でも知られています。
黄母衣十三人、若江八人衆の一人、官途は土佐守です。
大場土佐は、豊臣秀次に仕え1583年の賤ヶ岳の戦い、1584年小牧、長久手の戦いに参戦したと伝わります。
秀次自害後は、三成に招聘され、三成の家臣になります。
※秀長の家臣で、秀長没後に三成に招聘された説もあります。
関ヶ原では、石田隊右翼を守備したと云われています。
そして、「関原軍記大成」によると討死したとされていますが、生き残って蜂須賀至鎮に仕えたとも伝わります。
高野越中(平岡刑部)
高野越中(たかの えっちゅう)は、生年不明で、平岡刑部という名前でも知られています。
官位は左馬助、若江八人衆の一人でもありました。
三好康長に仕えていましたが、後の豊臣秀次が三好康長の養子となります。
当時の秀次は養子として、三好信吉と名乗っていました。
高野越中は、三好信吉(後の秀次)に仕え、馬廻組頭になり、若江八人衆と称されるようになります。
そして秀次が秀吉の勘気に触れたとのことで、自害すると高野越中は三成の家臣となります。
関ヶ原の戦い少し前に起きた伏見城攻めでは、大山伯耆とともに石田三成の代理として出陣し、攻撃したと伝わります。
関ヶ原の戦いにも従軍し、石田隊本陣を守備し、生き残ります。
戦後は、浅野幸長に仕え、平尾刑部と改名し、後に出家して道斎と号したと云われています。
牧野成里
牧野成里(まきの しげさと)は、弘治2年(1556年)に牧野成継の子として生まれます。
牧野氏は土豪として栄えた三河牧野氏の系統であると云います。
通称は伝蔵で、官途は伊予守です。
牧野成里は、主君が没落したり滅んだこともあり、生涯に八度も主君をかえています。
最初は滝川一益、織田信雄に仕えますが、豊臣秀吉との権力闘争に敗れたことなどで没落してしまいます。
後に、長谷川秀一に仕えますが、1592年に秀一が朝鮮出兵中に陣没してしまい、秀吉の命令で、秀一の代役として指揮を務めます。
その朝鮮出兵での功績により、帰国後は豊臣秀次の家臣になり、若江八人衆の一人になったと伝わります。
しかし秀次も秀吉にが自害を命じられ滅んでしまい、石田三成の家臣になります。
関ヶ原の戦いでは、石田本陣後方を守備したと云われています。
関ケ原の戦いで石田三成勢が壊滅すると、池田輝政のもとに逃げ延びたとされます。
池田輝政も織田家、豊臣家に仕えていましたので旧知の仲であったのかもしれません。
戦後、徳川家に許され、後に徳川家旗本となり、家康、秀忠に仕えたと伝わります。
そして、下野国簗田(やなだ)に3,000石を拝領し、慶長19年(1614年)に没します。
享年59歳です。
森九兵衛
森九兵衛(もりきゅうべい)は、生年、通称なども不明で謎に包まれていますが、清和源氏の流れをくむ森氏の出自とする説があります。
三好氏、豊臣秀次、蒲生氏に仕えた後に、石田三成の家臣になったと伝わります。
詳細は不明ですが、豊臣秀次に仕えていた頃、若江八人衆の一人になっていることからも、武功をあげるなどした精鋭の一人ではないでしょうか。
三成の家臣になった後の合渡(ごうと)川の戦いでは、舞兵庫、杉江勘兵衛(すぎえ かんべえ)(三成の重臣)らとともに黒田長政らと戦っています。
合渡川の戦いは、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つと云われていますが、森九兵衛らは敗れて大垣城に退却しています。
関ヶ原の戦い本戦では、石田家の先備として、柵の前に陣取り奮戦したと云います。
そして奮戦の末に討死したと伝わる一方、亡骸が見つかっていないので生存説もあります。
藤堂良政
石田三成以外に仕えた若江八人衆は2人いて、その一人が藤堂良政です。
藤堂良政は、永禄2年(1559年)に藤堂嘉房の子として生まれます。
藤堂高虎の従兄弟にあたる人物です。
藤堂良政は、織田信長や豊臣秀吉に仕えた後に、豊臣秀次に仕え三河国西部に2300石を拝領し、若江八人衆の一人となります。
文禄3年(1594年)、伏見城の石垣普請で功績を挙げでいます。
秀次没後は、秀吉の命令で藤堂高虎の元に預けられ、その後、罪を許されて高虎の家臣になります。
関ヶ原の戦いでは藤堂隊の一員として石田隊と戦い、そして島左近の長男・信勝(又は四男・清正)に討ち取られ、亡くなったそうです。
享年41歳です。
石田隊には、元若江八人衆が6人いますので、元同僚と戦い合っていたことになります。
どのような思いだったのでしょうか?
今更ながら戦国時代は凄い世の中ですね。
安井喜内
安井喜内(やすい きない)は、生年、実名不明で若江八人衆の一人です。
三好康長に仕えていましたが、豊臣秀次(三好信吉)が長慶の養子になると秀次(信吉)の家臣になります。
秀次が亡くなると、前田玄以(まえだ げんい)に仕え、玄以亡き後は、浅野幸長・長晟(ながあきら)に仕えたそうです。
慶長20年(1615年)、大坂夏の陣では浅野方として参戦し、武功を挙げますが、後に消息不明となります。
石田三成の家臣団・一覧
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