福原長堯(直高)は、豊臣秀吉の家臣で、石田三成の妹婿です。
朝鮮出兵では、軍目付として渡海し、蔚山城の戦いについて秀吉に厳しく報告し、このことが関ヶ原の戦いの一因であると見られています。
関ヶ原の戦いでは、主将として大垣城を守備し、最後まで抵抗しています。
福原長堯 豊臣家に仕える
福原長堯(直高)の生年、生母は不明ですが、父の名前は福原則高です。
父の詳細はわかりませんが、村上源氏の流れを汲む赤松氏流上月氏の支族(播磨福原氏)であると見られています。
天正5年(1577年)、中国攻めを命じられた羽柴秀吉は、播磨国に出陣します。
その際、秀吉の家臣・平塚為広によって討たれた福原助就と福原長堯(直高)は、同族であると見られています。
福原長堯(直高)の通称は右馬助で、豊臣秀吉に小姓頭衆として仕えていた頃、右馬助と称しています。
その後、秀吉の馬廻衆に抜擢されたようです。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津攻めに乗り出します。
豊臣秀長が8万の軍を率いて、島津方の日向南部の要衝・高城を包囲します。
高城は守りの強固な城である為、力攻めではなく兵糧攻めにしています。
福原長堯 島津攻めでは砦を守備
また、島津軍が高城を救済するのであれば、通るであろう根白坂に砦を築いて、島津軍を待ち構えます。
天正15年(1587年)4月、島津軍が根白坂を急襲したことで、根白坂の戦いが起きます。
根白坂砦の守将・宮部継潤ら1万の軍勢の中に、福原長堯(直高)もいました。
膠着状態に陥りますが、援軍の到着により島津軍を翻弄させ、豊臣軍は島津軍の大将格を多く討ち取っています。
同年10月、豊臣秀吉は北野大茶湯という大規模な茶会を催し、福原長堯(直高)は奉行を務めています。
天正19年(1591年)、福原長堯(直高)は、三河国吉良で鷹狩りをした秀吉のお供をしています。
文禄の役では名護屋城二の丸の守備
豊臣秀吉は大陸への侵攻を目指すようになります。
明征服を目指した豊臣秀吉は、李氏朝鮮に協力を要請しましたが断られます。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉は、朝鮮出兵決行を諸大名らに告げ、肥前国に名護屋城を築城させます。
朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前線基地とする為です。
文禄元年(1592年)、文禄の役の際、福原長堯(直高)は、後詰として名護屋城二の丸を守備しています。
福原長堯 12万石に出世する
福原長堯(直高)は、中川秀政の所領が半減された為、太閤蔵入地となった播磨国三木郡の代官に命じられています。
豊臣秀吉は自身の隠居屋敷として、伏見城を築きますが、伏見城普請に福原長堯(直高)も携わっています。
文禄4年(1595年)、福原長堯(直高)は、高野山で自害させられた秀吉の甥・豊臣秀次の検使を務めています。
慶長2年(1597年)、12万石に加増された福原長堯(直高)は、豊後国府内に入封しています。
また、同年に豊臣性も下賜されています。
福原長堯 軍目付として朝鮮に渡海する
同年、日本と明の間で続けられた交渉決裂を受けて、豊臣秀吉は二度目の朝鮮出兵(慶長の役)を行います。
福原長堯(直高)は、軍目付として朝鮮へ渡っています。
渡海した諸大名の動向について、秀吉に報告する義務を担っており、やがて、福原長堯(直高)と諸大名の間に亀裂を生みます。
加藤清正が指揮する日本軍は、蔚山城に籠って、明・朝鮮連合軍を迎え撃ちます(蔚山城の戦い)。
明・朝鮮連合軍に攻撃を頓挫させるほど、多くの損害を与えるものの、飢えと寒さにより厳しい戦いを強いられています。
そこに援軍として駆け付けたのが黒田長政、蜂須賀家政らです。
蜂須賀家政は武功を挙げたにもかかわらず、追撃を怠ったとして、後に処罰を受けます。
黒田長政は、援軍に赴いたものの不活発であったとして、後に秀吉から責められています。
軍目付であった福原長堯(直高)、熊谷直盛、垣見一直が、秀吉に厳しく報告したそうです。
また福原長堯(直高)らは、竹中重利、 早川長政、毛利高政らについても、秀吉の命令に反して戦線の縮小に同意したと糾弾しています。
竹中重利、 早川長政、毛利高政らは、領国内で謹慎を余儀なくされたり、領地を減封されています。
改易された早川長政に代わり、福原長堯(直高)は府内領主になっています。
福原長堯は石田三成の妹婿
熊谷直盛の妻は石田三成の妹か娘、垣見 一直は石田三成の腹心だそうです。
また、福原長堯(直高)、熊谷直盛、垣見一直は、軍目付の働きにより褒美を得ています。
石田三成の身近な人物の報告により咎を受け、三成の関与を疑った者もいるそうです。
このことは、感情的な対立を生んだと見られています。
いわゆる文治派、武断派の対立ともいわれ、後の、関ヶ原の戦いの一因とも考えられています。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は没します。
五大老ら豊臣政権で協議の上、秀吉の死を朝鮮軍に秘匿したまま、日本軍を帰国させています。
国俊の太刀を秀吉の形見として賜り、豊臣秀頼に仕えます。
福原長堯 府内領没収
1599年(慶長4年)、黒田長政、細川忠興ら七将による石田三成襲撃事件が起きて、三成は失脚します。
先に述べたように、朝鮮での蔚山城救援諸将に対する処分などもあり、以前から三成を快く思っていなかった諸将が襲撃したようです。
徳川家康は、蔚山城救援諸将に落ち度は無かったとし、処分を取り消しています。
一方、福原長堯(直高)は、蔚山城救援諸将に対し不公平な報告をしたことなどを咎められ、府内領を没収されてしまいます。
福原長堯(直高)は、築城途中であった府内城完成前に府内領から去り、所領は臼杵6万石のみとなっています。
福原長堯と大垣城の戦い
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに伴って、大垣城の戦いが起きます。
関ヶ原の戦い前夜、石田三成ら西軍は、本拠にしていた大垣城に福原長堯(直高)ら7,500名を守備兵として残して関ヶ原へ移動しています。
大垣城の主将は福原長堯(直高)、城将は熊谷直盛、垣見一直、木村由信、相良頼房、秋月種長、高橋元種らです。
関ヶ原の戦いと同じ日に、福原長堯(直高)守る大垣城は、家康方の東軍11,000に攻められています。
西軍本隊は一日で大敗し、大垣城は敵地に取り残され苦しい立場に置かれてしまいます。
大垣城では、徹底抗戦を唱える意見、東軍に投降する意見とで分かれていたようです。
関ヶ原の戦いの翌日、投降したいと考える相良頼房、高橋元種、秋月種長は、降伏状を密使に持たせて、家康の本陣に届けさせて寝返っています。
徹底抗戦を主張する諸将らの首を取るように命じられ、熊谷直盛、垣見一直、木村由信、木村豊統らを軍議と偽り呼び出して亡き者にします。
こうして、徹底抗戦を主張する主だった武将は福原長堯(直高)のみとなります。
福原長堯(直高)は、その後も数日間抵抗しましたが、降伏を申し入れて開城しています。
開城の際、福原長堯(直高)は、石田三成から与えられた日向正宗の名刀を水野勝成に奪われています。
福原長堯(直高)は、出家して道蘊(どううん)と名乗り、伊勢国朝熊山に入りました。
その後、水野勝成が福原長堯(直高)の助命を願い出ていますが、許されず自害しました。
蔚山の戦いの件で、恨みを買われている為ともいわれます。
福原長堯(直高)のお墓
現在、福原長堯(直高)のお墓がある場所は、伊勢市の朝熊山山麓にある永松寺(永松庵)です。
福原長堯(直高)が切腹した場所だそうです。
住所:伊勢市朝熊町1212
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