久松勝俊(松平康俊)は、於大の方の子で徳川家康の異父弟でもあります。
徳川家康から兄弟に準ずると遇された久松勝俊(松平康俊)ですが、今川氏の人質となったり、武田信玄の甲斐に送られたりしています。
ここでは、久松勝俊(松平康俊)の生涯について書いています。
久松勝俊(松平康俊)は家康の弟
天文21年(1552年)、久松勝俊(松平康俊)は、久松俊勝(長家)の三男として生まれます。
母は水野忠政の娘・於大の方(伝通院)で、徳川家康の母でもあります。
於大の方(伝通院)は、徳川家康が数え年3歳の時に松平広忠(家康父)から離縁されており、後に久松俊勝(長家)に再嫁して久松勝俊(松平康俊)を出産しています。
なので久松勝俊(松平康俊)は、徳川家康の異父弟ということになります。
久松勝俊(松平康俊)には、三郎太郎(松平康元)という同じ年の兄がいるとのことで、双子の可能性があります。
又、長福丸(松平定勝)という弟もいます。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを経て、徳川家康は駿河国の今川氏から独立を果たし、家康は生き別れとなっていた於大の方を母として迎えています。
於大の方の子である久松勝俊(松平康俊)ら三兄弟は、家康の兄弟に準ずるとして松平姓を与えられ、家康の家臣となっています。
甲斐国へ送られる
永禄6年(1563年)、久松勝俊(松平康俊)は、徳川家康の命令により、今川氏真の人質となります。
永禄11年(1568年)、徳川家康は、今川領割譲を条件として武田信玄と同盟を結び、信玄が駿河国の今川領へ侵攻し、家康は遠江国の今川領へ侵攻しています。
この武田信玄が駿河に侵攻した際、今川家・家臣の三浦与一郎が久松勝俊(松平康俊)を連れて、武田信玄に投降してしまいます。
喜んだ武田信玄は、久松勝俊(松平康俊)を自身の領国である甲斐に送ってしまいます。
又、『武者物語』によると、久松勝俊(松平康俊)と共に酒井忠次(徳川四天王の一人)の娘(おふう)も一緒に送られたそうです。
永禄12年(1569年)、武田方の協定違反により、徳川家康と武田信玄は、敵対関係となっています。
元亀元年(1570年)、徳川家康は、謀を巡らして久松勝俊(松平康俊)を甲斐国から脱出させ、三河国に帰還させることに成功します。
ですが、久松勝俊(松平康俊)は、大雪の中、冬の峠道を越えたことで凍傷になり、両足の指を失ってしまいます。
徳川家康は「当麻の脇差」と「一文字の刀」を与えて、久松勝俊(松平康俊)の忠節を称えています。
久能城を与えられる
天正10年(1582年)、甲斐の武田宗家が滅亡し、その後に本能寺の変が起きて織田信長が亡くなります。
武田氏旧領で織田氏に統治が移っていた領地を巡って、徳川氏・北条氏・上杉氏の間で争いが起きます(天正壬午の乱)。
特に激戦となった北条氏と和睦した徳川家康は、三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国(北信濃四郡は上杉領)五カ国を領有する大大名となります。
天正11年(1583年)、久松勝俊(松平康俊)は、駿河国の久能城を与えられています。
久松勝俊(松平康俊)は、大村越前守の娘を娶り女子を一人もうけていましたが、男子がいないまま、天正14年(1586年)に久能で亡くなります。
享年35。
久松勝俊(松平康俊)のお墓は、現在の浜松市にある西来院で、家康の正室である瀬名姫(築山殿)のお墓の近くです。
久松勝俊(松平康俊)の子孫
家督を継承する子がいないため断絶となるのが通常でしたが、於大の方の要請があり婿養子を迎えています。
久松勝俊(松平康俊)の一人娘と於大の方の甥・藤八郎が結婚して松平勝政と名乗り、勝政は14歳で家督を継承しています。
松平勝政は、何度か加増されて8,000石を領し、後に駿府城代に任じられています。
松平勝政の後は長男の松平勝義が継ぎます。
松平勝義の生母は不明ですが、久松勝俊(松平康俊)の娘が生母ならば、松平康俊娘(夫は松平勝政)→松平勝義→松平勝忠→松平勝以(勝忠の弟)→松平勝房と勝俊(康俊)の子孫が続きます。
松平勝以は、加増され12,000石を領する大名になり、多古藩初代藩主となります。
その後、養子を迎えた為、どこまで久松勝俊(松平康俊)の子孫が続いているか分かりませんが、下総国多古藩主を世襲し、明治維新後に子爵となっています。
コメント