戦国武将・松永久秀の子孫についての記事です。
織田信長を裏切ったことで嫡男・久通と共に亡くなった久秀ですが、子孫は続いていました。
また、芸能人の太田光代さんも、松永久秀の子孫とのことです。
松永久秀の子孫についての情報は、少なめですがその中でまとめています。
松永久秀の子孫・久通系統
松永久秀には、松永久通という嫡男がいます
父の久秀は、主君であった織田信長に対し、恭順と裏切りを繰り返します。
二度目の裏切りで、信貴山城の戦いになり、嫡男・久通もこの戦で自害したとも、落ち延びる途中亡くなったとも云われています。
松永久通は、織田信長に二人の子供を人質に出していましたが、この裏切りにより二人とも亡き者にされました。
ですが、松永久通には他にも子供がいたようで、その子の名は松永彦兵衛(一丸)と言い、筑前博多にて質屋を生業とし豪商になったと云われています。
その子孫は、後に佐賀藩士になったそうですが、詳細は定かではありません。
戦国時代は負け組の史料は乏しいもので、松永久秀の子供についても同様です。
なので、子孫についても情報は多くはないというのが実情です。
ですが、佐賀藩士になった後、松永彦兵衛(一丸)の系譜から輩出された子孫に海軍中将・松永貞市、海軍大尉・松永市郎、iモード開発者の松永真理がいます。
※敬称は省略しています。
松永貞市(まつなが さだいち)(敬称略)の生年は1892年(明治25年)で、没年は1965年(昭和40年)、日本の海軍軍人です。
妻は、松永イツヨ(敬称略)で親戚にあたるそうです。
松永貞市の旧姓は、納富性で妻の松永家の婿養子になりました。
※それでは、元々、松永性であった妻の松永イツヨが、松永久秀の子孫ではないかと思いますが、Wikipediaには婿養子に入った松永貞市が子孫だと書いてあります。
Wikipediaの間違いなのか分かりません…。
松永イツヨの詳細は定かではありませんが、松永貞市の最終階級は海軍中将で、終戦後は佐賀県で農業に携わります。
また、松永貞市の子供で、松永久秀の子孫にあたる松永市郎(敬称略)は、元海軍大尉で作家です。
生年は1919年(大正8年)で没年は、 2005年(平成17年)です。
松永市郎の子供で、松永久秀の子孫に松永真理(敬称略)がいて、iモードを開発した人物です。
「就職ジャーナル」、「とらばーゆ」の編集長を経て 、iモードを開発しました。
その後、 バンダイやテルモ株式会社など複数社の社外取締役を歴任し、 ロート製薬株式会社 社外取締役、セイコーエプソン株式会社 社外取締役は現在も就任しています。
「ビジネス界最強の女性ランキング」のアジア部門1位に選出された経験も持つ優秀すぎる方のようです。
松永久秀の子孫の芸能人・太田光代さん
太田光代(敬称略)も松永久秀の子孫だそうです。
私が調べた限り、どの系統の子孫かは不明です。
また、家系図、ゆかりの品などがあるのか、子孫である証拠があるのかも分かりません。
※家系図は偽物も多いようですが。
テレビなどで子孫であると仰っているので、子孫だろうと思われているようです。
太田光代は、太田光の妻で、旧姓は松永光代です。
戦国時代に松永久秀は、女性も子供も徹底的に滅ぼしたと聞いているそうです。
太田光代は芸能事務所「株式会社タイタン」の代表取締役社長で、タレントでもあり、ご存知の方が多いのではないでしょうか。
この後に書いていますが、久秀の子孫には、久秀の血統なのか、養子なのかわからない家系もあります。
なので、自称だけでは、本当に子孫かどうかは不明になるかなと思います。
松永久秀の子孫・松永貞徳
松永貞徳(まつなが ていとく)は、戦国時代から江戸時代にかけての人物で、俳人、歌人です。
父は、松永永種と言い、松永久秀の子、又は甥とも云われていますが、疑問視する声もあります。
また、松永永種は、松永久秀の養子だとする説もあります。
このように久秀の血統か定かではありませんが、松永貞徳とはどのような人物だったのか書きます。
松永貞徳は、先に述べたように俳人、歌人ですが、豊臣秀吉の右筆としても活躍したそうです。
連歌は里村紹巴(さとむら じょうは)に、和歌や歌学は九条稙通(くじょう たねみち)や細川幽斎から学んだと伝わります。
里村紹巴は、戦国時代有名な連歌師で、明智光秀が開催した「愛宕百韻」の連歌の会に参加したことでも知られています。
「ときは今あめが下知(したし)る五月かな」
という句を聞いたことがあるでしょうか?
この句は、「愛宕百韻」で明智光秀が詠んだ句です。
歴史ミステリーなどで紹介されそうな話ですが、この句は明智光秀の出自の「土岐(とき)一族が、今こそ天下を治める時だ」ということを暗示したとも読み取れるためです。
この真偽は不明ですが、直後に本能寺の変が起きました。
里村紹巴は、明智光秀の他、織田信長、豊臣秀吉、三好長慶(将軍を凌ぐ権力があったとも云われる人物)などの大名とも親交がありました。
一方の和歌や歌学を教わった九条稙通(くじょう たねみち)は位の高い公家で、細川幽斎は随一の教養人と評され、戦で危機に陥った時は、朝廷の命令で和議が結ばれました。
つまり、朝廷すら命を惜しむ文化人、兼大名だった人です。
この交流関係から見ても、松永貞徳は相当な文化人であったことが推測できます。
また、松永貞徳の母は、藤原惺窩(ふじわら せいか)の姉ですが、藤原惺窩もまた有名な儒学者です。
藤原惺窩は、豊臣秀吉、徳川家康にも儒学の教えを説いていますが、門下生としては、石田三成、林羅山(はやし らざん)などがいます。
林羅山は、徳川将軍家に代々、儒学を講じることになる人物です。
その林羅山が刺激を受けた人物が、松永貞徳だと云われていますが、やはり文学に長けていた人物であったそうです。
松永貞徳は、慶長2年(1597年)に、朝廷から花咲翁の称を賜り、俳諧宗匠の免許も認められ、貞門派(ていもんは)俳諧の祖として一大流派を築くことになります。
朝廷から「花の本」の号まで賜りますが、松永貞徳の子供もまた高名な儒学者になります。
子供の名前は、松永尺五(まつなが しゃくご/せきご)といい、儒学者・藤原惺窩の門下生です。
藤原惺窩の門下生の四天王(窩門四天王)というものがあるようで、松永尺五もその一人です。
江戸幕府に仕えた儒学者の林羅山らと共に、窩門四天王の一人と云われる位、高名な儒学者になったようです。
光秀が連歌に謀反の思いを込めたとする説はこの記事の下に書いています。
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明智光秀と土岐氏~「ときは今~」の連歌に込められた想いとは~
松永久秀についての詳細記事です。
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