上ノ郷城主である鵜殿長照は、今川義元に仕え桶狭間の戦いのキッカケにもなった大高城の守備を任されるなど今川氏に重用されています。
義元亡き後、今川氏を見限る領主が多い中、鵜殿長照は今川氏真に仕えますが、松平勢に攻められ討死しています。
ここでは鵜殿長照の生涯について書いています。
鵜殿長照の生涯
鵜殿長照は、三河国の上ノ郷城主・鵜殿長持の子として生まれています。
鵜殿長照の生年や幼名は、分かりませんが、通称は藤太郎です。
『寛政重修諸家譜』によると、鵜殿長持の正室は今川義元の妹であり、長照の生母と言われていますが、創作の可能性もあるそうです。
いずれのせよ、鵜殿長持・長照父子は、駿河の戦国大名である今川氏に従属しています。
弘治3年(1557年)、鵜殿長照は父の死去に伴い家督を継承しています。
駿河を統治する今川義元は、松平氏が治める西三河地域を今川家の領土にしようと目論んでいました。
松平広忠は既に亡くなっており、嫡子の徳川家康(当時は松平元康)は、今川氏の人質として駿府に留め置かれています。
そのような中で、三河国にあった鵜殿氏の領土は、今川氏にとって重要度が高く、鵜殿氏の地位向上を後押ししたと思われます。
また、鵜殿長照の生母が今川義元の妹であるとの説が本当なら、長照は義元の甥になります。
この頃、隣国の尾張国では織田信秀が病没し、信秀の息子である織田信長と織田信行との間で内戦が起きています。
織田家中が混乱する中、織田氏から離反して今川氏についた山口教継の調略によって、尾張国の大高城などが織田方から今川方の城になります。
今川義元から重用された鵜殿長照は、大高城の城代を務めています。
桶狭間の戦い
永禄3年(1560年)、対織田戦線の最先端にあった大高城は、身動き出来ない状況になり、兵糧が尽きかけます。
鵜殿長照は、城兵を励まして、草木の実などを食べ命をつないだと言われています。
大高城の救援の為、今川義元は尾張に向けて出陣し、先鋒は松平元康(徳川家康)が担っています。
松平元康(徳川家康)は、無事に兵糧を大高城に届け、鵜殿長照の窮地を救っています。
また、大高城の守備は鵜殿長照から松平元康(徳川家康)に交代しており、長照の詳しい動きは分かりません。
大高城周辺は今川軍が制圧し、今川義元率いる本隊は大高城に向けて進軍していましたが、その途中の桶狭間山にて今川義元が討死しています(桶狭間の戦い)。
今川義元が新興勢力であった織田信長に討たれたことは衝撃であったと思われ、また、今川氏の黄金期を築いた義元だけでなく、今川方の有力武将も多く討死しています。
詳細不明の鵜殿長照ですが、三河にある所領に逃げ帰っています。
今川氏真に仕える
今川家の家督は、嫡子の今川氏真が継承しますが、重臣層を失った今川氏支配の領国は混乱し、混乱に乗じた松平元康(徳川家康)は今川氏から独立を果たそうとします。
その後、織田信長と軍事同盟を結んだ松平元康は、今川氏を見限り永禄6年(1563年)には名を家康(当時は松平家康)と改め、急速に台頭していきます。
今川氏から離れ松平氏に寝返る領主が多い中、鵜殿長照は今川方に留まり、やがて松平元康(徳川家康)と対立することになります。
ただ、今川氏についたのは上ノ郷城の鵜殿総領家だけで、鵜殿氏分家などは松平氏に鞍替えしています。
上ノ郷城落城と鵜殿氏長・氏次捕捉
永禄5年(1562年)、今川氏から離反し家康に同調した松平清宗によって、鵜殿長照の上ノ郷城が攻められます。
堅城であった上ノ郷城は、松平清宗勢の攻撃を防御するものの、松平元康(徳川家康)が連れてきた甲賀衆によって火が放たれ混乱したところを攻め入られています。
ついに上ノ郷城は陥落し、鵜殿長照は討死、息子である鵜殿氏長・氏次兄弟は捕らえられています。
松平元康(徳川家康)の正室・瀬名姫(築山殿)と嫡男・竹千代(後の松平信康)、長女・亀姫は今川氏の人質として駿河国に留め置かれていました。
松平元康(徳川家康)の懐刀である石川数正が今川氏真を説得し、元康の妻子と鵜殿氏長・氏次兄弟との人質交換が行われています。
後に、戦国大名今川氏は滅亡し、鵜殿氏長・氏次兄弟は徳川家康に仕えています。
因みに、上ノ郷城落城の際、鵜殿長照は城から脱出したとの伝説があります。
ですが、安楽寺 (蒲郡市)横の坂で討ち取られ、その坂は鵜殿坂と呼ばれているそうです。
鵜殿坂は鵜殿長照の無念がこもっており、鵜殿坂で転ぶと怪我が治らないと言われているそうです。
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