松平広忠とは徳川家康(竹千代)の父です。
10歳で父・清康を失い、同族の松平信定に追い詰められます。
やがて松平信孝とも対立し、今川義元や織田信秀ら強国に挟まれながら生きた生涯について書いています。
松平広忠の出自と安祥松平家
松平広忠は、三河の松平清康の子として大永6年(1526年)に誕生しています。
松平広忠の幼名は、千松丸や仙千代とも伝わりますが、曾祖父・松平長親の命令により竹千代と命名されたとも伝わります。
また、松平広忠の通称は、次郎三郎です。
松平広忠の生母は、青木貞景の娘又は、青木弐宗の娘であると言われていますが、松平清康の正室である松平信貞の娘であるという異説もあります。
まず、松平広忠の出自である安祥松平家について書きます。
松平惣領家は岩津松平家でしたが、松平広忠の生家は、松平氏庶流の安祥松平家です。
安祥松平家は、岩津松平家の祖である松平信光の三男・松平親忠が安祥城(安城市)を与えられて、安祥松平家初代となったことから始まっています。
やがて、岩津松平家は衰退し、安祥松平家が惣領家化していきます。
現在では、安祥松平家は松平宗家と見なされているようで、松平氏・徳川氏の始祖と言われる松平親氏から数えて、8代目当主が松平広忠です。
松平広忠が産まれた頃の松平氏は、同族で対立しており、広忠の父である清康は、武力で一族を掌握し、西三河を支配した人物です。
松平清康は、岡崎松平家(大草松平家)の松平昌安と敵対関係にありましたが、後に屈服させています。
岡崎松平家(大草松平家)は、安祥松平家初代の弟・松平光重を祖としています。
松平広忠と松平信定の対立
享禄3年(1530年)、松平広忠の父・清康は、広忠が10歳の時に、尾張に攻め込む陣中で家臣の阿部正豊に斬られて亡くなります(森山崩れ)。
阿部正豊は、謀反を疑われていた父が清康に成敗されたと勘違いしたと言われています。
また一説には、清康と対立した松平信定の陰謀ではないかとも言われています。
生前、松平清康は、分家で安祥松平家の跡目を窺う、松平信定とも対立していました。
松平信定は、松平広忠の大叔父ですが、広忠の祖父・父・広忠と安祥松平宗家3代と争った人物です。
松平信定は、阿部正豊の父(阿部定吉)が松平清康を裏切り、織田方につくとの噂を流したと言われています。
尾張の織田信秀(信長の父)と縁を結んだ松平信定は、織田氏と連携していたと見られています。
その後、松平信定は、清康の死の混乱に乗じて、松平広忠と対立して岡崎城を占拠しています。
隠居している松平広忠の曾祖父・道閲(松平長親)は、松平信定の父で信定を偏愛しており、信定の断行を黙認しています。
松平信定の権威は日増しに強くなり、松平広忠を亡き者にしようと企てています。
阿部定吉(大蔵)が広忠を匿う
命を狙われた松平広忠ですが、阿部定吉(大蔵)によって救われることになります。
阿部定吉は、松平清康を両断した阿部正豊の父ですが、広忠に許された方です。
阿部定吉は、松平広忠に恩義を感じていたと思われますが、広忠を匿い吉良持広の所領である伊勢国へ逃れています。
吉良持広は松平氏と共に織田氏に抵抗した人物です。
伊勢国にいた頃、松平広忠は元服し「二郎三郎広忠」という名前に改名しています。
吉良持広の「広」を拝領したそうです。
その後、吉良持広は没し、松平広忠は阿部定吉と共に三河へ再逃亡しますが、岡崎城には帰城できません。
松平広忠 岡崎城奪還へ
松平広忠主従は、駿河の今川義元の支援を得ることに成功し、岡崎城奪還の機会をうかがいます。
三河に残っていた松平氏の譜代家臣・大久保忠俊らは、広忠派と内通し、広忠が帰城できるよう働きかけています。
天文6年(1537年)、岡崎城の留守番役であった松平信孝(広忠の叔父、信定の甥)が広忠派へ寝返り、松平康孝(広忠の叔父、信定の甥)も広忠に見方したことで、広忠はついに岡崎城に帰城しています。
松平広忠の帰城に貢献した松平信孝は、広忠の後見役となっています。
※松平広忠の帰城までの経緯は、年代含め諸説あります。
松平信定は、広忠に帰順した後、天文7年(1538年)に亡くなっています。
松平広忠 竹千代(家康)を授かる
松平氏は三河の豪族の離反などもあり、弱体化していきます。
その隙を見逃さず攻撃を仕掛けてきたのは、尾張の織田信秀です。
天文9年(1540年)、安祥松平家の拠点の一つであった安祥城を織田信秀に攻略され、織田信広が城代として入っています。
天文10年(1541年)、松平広忠は、水野忠政の娘である於大の方を娶り、翌年、竹千代(後の徳川家康)を授かっています。
水野忠政は、尾張や三河の国境で勢力があった豪族で、織田信秀に対抗する為の政略結婚と思われます。
天文12年(1543年)、松平広忠は、権勢を振るうようになった広忠の後見役・松平信孝を失脚させ追放しています。
反信孝派の重臣意向があったようです。
同年、水野忠政が没し、水野信元が家督を継いで間もなく、於大の方は松平広忠と離縁されています。
こうして、竹千代(徳川家康)は、わずか3歳で母・於大の方と生き別れています。
水野信元が今川から離反して織田信秀についたことで、今川氏を憚った広忠から離縁されたとも言われています。
松平広忠 今川義元の傘下に
天文14年(1545年)、松平広忠は三河の安祥城を奪還すべく出陣しますが、織田軍に大敗して更に松平氏は弱体化しています。
天文16年(1547年)、織田信秀の侵攻を受けた松平広忠は、今川義元に救援を求め、見返りとして竹千代を人質に差し出すことになります。
そして、今川義元に仕えていた戸田康光によって、駿河の義元のところへ竹千代は送り届けられる予定でした。
しかし、戸田康光は、織田信秀と通じて今川義元から離反し、信秀の元へ竹千代は送られ、織田家の人質となっています。
この説は広く知られた話ですが、現在見直されていて、織田信秀が松平広忠を降伏に追い込み、竹千代を人質にしたとも言われています。
いずれにせよ、いつからか分かりませんが、松平広忠は今川氏の傘下に組み込まれています。
天文17年(1548年)、織田氏に寝返っていた松平信孝(広忠のかつての後見役)は、広忠軍と戦の最中、討ち死にします。
松平広忠は、松平信孝が織田方についたのは自分にも原因があると考え、生け捕りを希望していました。
しかし、松平信孝は流矢に当たって亡くなってしまい、信孝の亡骸を見て松平広忠は号泣したと言われています。
松平広忠は、太原雪斎率いる今川軍と共に、安祥城を落とし織田信広を生け捕りにしています。
今川方と織田方で協議し、竹千代は織田信広と人質交換されることになり、今川義元のいる駿府へ竹千代は移送されています。
松平広忠は、織田方になった梅坪城を攻略し、かつての松平氏の勢力を回復しつつありました。
しかし、天文18年(1549年)3月、松平広忠は、24歳の若さで岡崎城内にて没しています。
病気によって亡くなったとも、岩松八弥、又は一揆によって亡き者にされたとも言われています。
広忠に権大納言贈官
慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、後に征夷大将軍として幕府を開いています。
慶長16年(1611年)、松平広忠は、従二位大納言の官位を贈られています。
幼少期から苦労の連続であった松平広忠ですが、息子の徳川家康が天下人となり、広忠は明正天皇の高祖父にもなり、死後に官位を贈られています。
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