織田信長、織田信忠を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ)は、信長の愛刀・薬研藤四郎(やげんとうしろう)の写しを所有しています。
本能寺の変にて信長と共に薬研藤四郎も焼け落ちたとも云われており、現在では薬研藤四郎の写しを残すのみです。
今回は、織田信長と薬研藤四郎、建勲神社について記載しています。
織田信長と建勲神社
建勲神社とは織田信長を祀った神社です。
歴史は比較的新しく、明治2年(1869)に明治天皇の勅命により創建されました。
戦国時代、信長が目指した天下統一のおかげで、海外からの日本が侵略されずに済んだとして信長を称賛し創建されたとのことです。
現代はとても人気のある信長ですが、江戸時代はそうでも無かったそうですね。
現代での信長は、天下人の一人という位置だと思いますが、江戸時代では天下人と見なされず、一大名ような存在だったそうです。
江戸時代は徳川家を肯定するために、信長や秀吉には光が当たらなかったのだと思います。
それが、明治時代になり信長の功績が見直されてというところでしょうか。
また主祭神は信長ですが、配祀(はいし)として、信長の嫡男で本能寺の変で亡くなった織田信忠も祀っています。
読み方は建勲神社は「けんくんじんじゃ」かと思っていましたが、「けんくんじんじゃ」は通称で、正式には「たけいさおじんじゃ」と読むそうです。
信長が所有した薬研藤四郎
建勲神社が写しを所有するという薬研藤四郎(やげんとうしろう)という刀ですが、通称で粟田口藤四郎という鎌倉時代の名工がつくった短刀です。
粟田口藤四郎の作品は織田信長、豊臣秀吉も集めたと云われ、正宗、郷義弘と共に「天下の三名工」と称された名手です。
その粟田口藤四郎がつくった短刀・薬研藤四郎(やげんとうしろう)は、織田信長も所有しています。
そして、本能寺の変で信長は二本の愛刀と運命を共にしたとされ、その一本は薬研藤四郎、もう一本は実休光忠(じっきゅうみつただ)だと伝わります。
(※焼け落ちずに、豊臣秀吉を経て徳川将軍家が所持したとする説もありますが、事実は不明です。)
現在、薬研藤四郎は現存していないそうですが、薬研藤四郎の写しが建勲神社に所蔵されています。
2018年に信長の家臣の縁より、薬研藤四郎の写しが再現され奉納されており、期間限定で展示している時もあるようです。
信長を祀る建勲神社
それでは京都の建勲神社に行ってきましたので写真と共に紹介させていただきます。
建勲神社の大鳥居をくぐると右手に登り口である石の階段が見えてきます。
小さい山の上にある神社なので、長い石段上ることになります。
3歳になって間もない子供と一緒でしたので、少しだけ大変でした。
階段の途中には建勲神社の案内図や建勲神社の碑石がありました。
信長が好きだったという「人間五十年」という句で始まる敦盛の一節の歌碑もありました。
拝殿前の石段を登ると左側に手水舎があり、清めることができます。
ここが拝殿です。
拝殿には、織田信長、羽柴秀吉、森蘭丸、柴田勝家などの肖像画もあります。
石段を登ったところにあるので、景色が良く静かな神社でした。
織田信長がお好きな方なら楽しめるでしょうし、またシーズンになると紅葉や桜も綺麗な神社のようです。
そして御朱印ですが、とても種類多いですね。
薬研藤四郎と織田家の家紋入りの御朱印を初穂料500円でいただきました。
原作の著者は信長の家臣ですが、現代人にも読みやすくしてあります。
当時の人が書いただけあって興味深い本ですので、ご興味のある方ご覧ください。
建勲神社の基本情報
拝観時間:24時間拝観可能
※社務所は 9:00~17:00
拝観料:無料
休日:無し
電話番号:075-451-0170
住所:〒603-8227 京都府京都市北区紫野北舟岡町49
※変更になっている可能性もあります。
「天下の三名工」の一人、郷義弘の脇差は明智光秀が持っていました。
その郷義弘の刀は光秀の居城であった坂本城の近くにある明智塚に埋められているといいます。
その明智塚の記事です。
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織田信長と上杉謙信についての記事です。
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明智光秀が本能寺の変を起こした怨恨説についての記事です。
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