江戸幕府の第2代征夷大将軍である徳川秀忠の生母は、西郷愛子という徳川家康の側室で、通称の「お愛の方」や「西郷局」という呼び名で知られています。
三河西郷氏の一族である於愛の方(西郷局)が徳川家康に見初められ、徳川秀忠と松平忠吉の生母となる、その生涯などについて書いています。
於愛の方(西郷局) 西郷義勝に嫁す
於愛の方(西郷局)の母は、土岐氏一族の出自であるという、三河国の有力国衆であった西郷正勝の娘です。
三河の西郷氏は、嵩山の月ヶ谷城(現在の豊橋市)に居住し本拠としています。
かつて西郷氏は今川氏に属していましたが、やがて松平清康(家康祖父)に属し、その後、今川氏に帰順したと言われており、西郷正勝の頃は今川氏の傘下になることで、三河での影響力を保っていたようです。
於愛の方(西郷局)の祖父である西郷正勝も今川氏に従っており、今川氏の下知と思われますが、正勝の娘(於愛の方の母)は遠江国の戸塚忠春に嫁いでいます。
戸塚忠春が於愛の方(西郷局)の父ですが、やがて討死してしまい、於愛の方の母は、蓑笠之介正尚と再婚しています。
その後、成長した於愛の方(西郷局)は、蓑笠之介正尚の養女として、従兄である西郷義勝に継室として嫁しています。
また、於愛の方(西郷局)は、西郷義勝に嫁ぐ前に最初の夫に嫁いでいたとも言われており、その場合は寡婦となっていたところ義勝の継室になったことになります。
いずれにせよ、於愛の方(西郷局)と西郷義勝は、1男1女に恵まれています。
今川義元敗死後、西郷正勝・元正の親子は、今川氏から離反して、三河の松平氏(徳川氏)に転属しており、西郷義勝の主君も徳川家康です。
元亀2年(1571年)、於愛の方(西郷局)の夫・西郷義勝は、三河国へ侵攻した甲斐国武田氏家臣である秋山虎繁と設楽郡竹広にて戦になります。
縁戚である菅沼定盈と共に武田軍を迎撃し、一時的に退けていますが、夫・西郷義勝は落命してしまいます。
於愛の方(西郷局)が産んだ男子は幼少のため家督を継げず、於愛の方の叔父・西郷清員(酒井忠次の妹婿)の子である家員が徳川家康から西郷氏の跡目として指名されています。
於愛の方(西郷局) 徳川家康の側室に
美人であったと伝わる於愛の方(西郷局)は未亡人となりますが、徳川家康に見初められ、西郷清員の養女として家康の側室になっています。
蓑正尚邸に赴いた徳川家康が於愛の方(西郷局)を見初めたとも、於愛の方が岡崎勤務をしているところを見初めたとも言われていますが、定かではありません。
天正7年(1579年)、於愛の方(西郷局)は後に江戸幕府の第2代征夷大将軍となる徳川秀忠、天正8年(1580年)に尾張清洲藩主となる松平忠吉を産んでいます。
また、於愛の方(西郷局)は、強度の近視であったようで、特に盲目の女性に恩情をかけ、衣服飲食を恵んでいたと言われています。
徳川家康からの信頼があり、周囲の侍女達からも好かれたという於愛の方(西郷局)ですが、天正17年(1589年)、38歳の若さで亡くなります。
死因は分かりませんが、一説には、徳川家康の正室であった築山殿(瀬名姫)の侍女による毒殺又は暗殺とも言われますが、定かではありません。
築山殿(瀬名姫)自身は、天正7年(1579年)に罪が不確定のまま家康の家臣に斬られており、既に亡くなっています。
多くの盲目の女性達が於愛の方(西郷局)の来世を祈ったと言われています。
寛永5年(1628年)、第3代征夷大将軍・徳川家光の時代に於愛の方(西郷局)は、正一位(神階の最高位)を贈られています。
於愛の方(西郷局)は、徳川家光の祖母であり、翌年即位する明正天皇の曽祖母でもあります。
西郷氏の栄華
慶長10年(1605年)、将軍職を譲り受けた徳川秀忠は、第2代征夷大将軍となっています。
徳川秀忠の時代になると、西郷一族は優遇されますが、寛永9年(1632年)に秀忠は亡くなり、西郷一族の栄華も終焉に向かいます。
先に述べたように、西郷清員は於愛の方(西郷局)の叔父であり養父でもありますが、清員の孫・西郷正員が安房国東条藩1万石の大名に列したのが最高です。
その後、西郷正員の子・西郷延員は安房国東条藩2代藩主となりますが、養嗣子とした西郷茂員は将軍・徳川綱吉の御小姓を廃され生家に送り返されています。
そして、安房東条藩の第3代藩主となった西郷寿員は、西郷延員と同じく不行状などで咎めを受け領土を半分にされ、西郷家は5千石の交代寄合(旗本)となっています。
その後、西郷家は再び1万石を領しますが、5千石を簡単に失い、また5千石に戻ったそうです。
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