お万の方(小督局)は、徳川家康の次男・結城秀康の生母となります。
元は、家康の正室・築山殿(瀬名姫)に仕える奥女中であったと言われています。
ここでは、お万の方(小督局)の生涯について書いています。
お万の方 家康の正室に仕える
天文17年(1548年)、お万の方は、三河にある知鯉鮒明神(知立神社)の社人である永見貞英(志摩守)の娘として生まれます。
また、一説によると、微賤の女(むすめ)であるとも言われています。
『知立市史』によると、お万の方の母は水野忠政の娘とのことで、水野忠政は徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父として知られています。
お万の方の母が水野氏で正しいのなら、徳川家康の母は、お万の方の叔母ということになります。
お万の方は、「万」という名前で知られていますが、他に「松」や「菊子」、「於故満」という名前も伝わっています。
また、お万の方は、本多重次から「おこちゃ」と呼ばれていたそうで、通称は於古茶(おこちゃ)であると言われています。
その他、お万の方は小督局や長勝院と称されることもあります。
徳川家康の側室として知られるお万の方(小督局)ですが、実質は側室というよりも結城秀康の生母と言えると思います。
お万の方 結城秀康の母になる
お万の方(小督局)は、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)に仕えて、浜松にて奥勤めをしていたところ、家康の手が付いて於義伊(結城秀康)の生母になります。
また、永見氏が徳川家康に属すことになった際、お万の方(小督局)を家康に仕えさせると約束したとも言われており、元亀3年(1572年)に家康に仕えたとの説もあります。
いずれにせよ、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)は、お万の方(小督局)が家康の子供を身籠ることを承認しなかったため、浜松城内から退去させられています。
妾として承認するかどうかは正室が持つ権限であると考えられますが、城内から退去という処置は、於義伊(結城秀康)を家康の子供として認めないという意味になり、後に築山殿(瀬名姫)が亡くなるまで秀康は家康の子供として認知されていません。
一方、築山殿(瀬名姫)の嫉妬を恐れた徳川家康は、身重のお万の方(小督局)を本多重次に預けています。
天正2年(1574年)、お万の方(小督局)は、浜松城下の、中村家住宅で於義伊(結城秀康)を産んでいます。
結城秀康は双子!?
於義伊(結城秀康)は双子で誕生したものの、もう一人はすぐに亡くなったという伝承があります。
また、双子のもう一人の子も生きていましたが、忌み嫌われていた双子だったとの理由で、一人はお万の方(小督局)の実家に預けられたとも言われています。
そして、後に知鯉鮒明神32代神主となる永見貞愛が、もう一人の双子の子であるそうです。
また、結城秀康は、双子の影響で不幸な人生だったと言われています。
徳川家康から認知されていない於義伊(結城秀康)ですが、兄・松平信康のとりなしを得て、3歳の時に徳川家康と初めて対面しています。
天正7年(1579年)、徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)が亡くなりますので、それ以降に認知されたようですが、具体的な時期は分かりません。
北庄へ移る
天正12年(1584年)、結城秀康は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の養子(実質的な人質)になります。
ですが、秀吉に跡継ぎが生まれると、結城秀康は再び養子に出されることになり、天正18年(1590年)、結城氏の婿養子として結城氏を継いでいます。
慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いを経て、結城秀康は北ノ庄城城主になり、お万の方(小督局)も同行しています。
慶長12年(1607年)、結城秀康が急死しています。
お万の方(小督局)は、徳川家康の許可を得ずに出家しますが、叱責はなかったようです。
元和5年12月6日(1620年1月10日)、お万の方(小督局)は、北庄にて72歳の生涯を閉じています。
お万の方(小督局)は、孝顕寺に葬られ永平寺に分骨されています。
長勝院松室妙載大姉というお万の方(小督局)の戒名が残されています。
江戸幕府の第2代征夷大将軍になる徳川秀忠は、結城秀康の異母弟です。
秀康の5人の息子は徳川将軍家の御家門(越前松平家)として、また、将軍の兄の家として別格の地位を得て「制外の家」とされています。
その後のお万の方(小督局)の子孫については、結城秀康の記事の下の方に書いていますので、ご興味ある方はご覧ください。
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