本能寺といえば、明智光秀の謀反により、織田信長が自害したことで有名なお寺です。
当時の本能寺は、本能寺の変により信長と共に燃えてしまいましたので、現在では「本能寺跡」にお寺はありません。
今回は、「本能寺跡」に建つ「此附近本能寺址」の石柱と「本能寺跡」の碑石を観光で見てきました。
「本能寺跡」を観光
現在の本能寺は、京都の「寺町御池」にありますが、信長亡き後に豊臣秀吉の命により移転され建設されました。
ですので、現在の本能寺と本能寺の変が起きた場所は別の場所になります。
今回は、本能寺の変が起きた「本能寺跡」の記事ですが本能寺跡といっても、「此附近本能寺址」の石柱と「本能寺跡」の碑石しかありません。
普通の道路の片隅に「此附近本能寺址」の石柱はあります。
この「此附近本能寺址」の石柱から200メートルくらい??歩いたところに、「本能寺跡」の碑石があります。
この「本能寺跡」の碑石に書かれてあることは本能寺の歴史です。
観光の所要時間は、「本能寺跡」の碑石をご覧いただき、200メートル移動するとして20分あれば足りると思います。
「本能寺跡」の碑石に書かれてある概要
本能寺の歴史を簡単に書かせていただきます。
本能寺は何度も移転と建設を繰り返し現在に至っていますが、本能寺の創建は室町時代の1415年にまで遡ります。
本能寺は始め「本応寺」という寺号で、京都油小路高辻(現・仏光寺付近)と五条坊門の間に創建されますが、宗教の解釈をめぐり対立が起きたことで破却されます。
その後1429年に内野(現:西陣周辺)に再建しましたが、1433年に土地の寄進を受けて六角大宮に建立し、寺号を「本能寺」と改めたそうです。
しかし、焼き討ちに遭い焼失し、1545年西洞院六角(四条西洞院)に建設しますが、本能寺の変にて焼失します。
1592年、豊臣秀吉の命により現在の地(寺町御池)に移転、建立されますが、またしても天明の大火で焼失します。
同じ場所で1840年に再建し、禁門の変(きんもんのへん)(蛤御門の変<はまぐりごもんのへん>とも呼ばれます)でまた焼失し、1928年に現在の本堂が再建されています。
このように何度も火災に見舞われていることから、本能寺の「能」の匕(火)の字を嫌い、匕が去るようにと下の写真の字を使うようになったとも云われています。(諸説あります)
この「本能寺跡」の碑石には、本能寺の歴史の他に、上記の本能寺の「漢字」についても記載されています。
そして、明治以降に「本能寺」という「能」の字を使った言葉が広まったそうです。
本能寺と日蓮大聖人
本能寺は、法華宗(ほっけしゅう)という仏教の1つの宗派に属するようですが、「日蓮大聖人」が宗祖であるとされています。
現在の本能寺に「日蓮大聖人」の銅像がありますが、本能寺の変以前からあるもので、本能寺の変の後移されたものと考えられています。
信長は本能寺の住職である日承(にちじょう)上人に帰依(きえ)しており、京都に上洛した時は本能寺を宿所にすることが多く、はっきり記録にあるだけでも4回は滞在したそうです。
当時の本能寺は、現在のものより大きく安全でもあったため気に入っていたと伝わります。
織田信長が生きていた頃にも、本能寺に「日蓮大聖人」銅像があったと推察されていますので、信長自信も手を合わせていたかもしれない銅像ということになりそうです。
「本能寺跡」のアクセス
拝観料等:無し
住所:中京区小川通蛸薬師元本能寺町
市バス「四条西洞院」下車
阪急電車「大宮駅」、京福電車「四条大宮駅」から徒歩10分
駐車場:近くにコインパーキング有
本能寺の大寶殿宝物館に展示されている宝物と三足の伝説のある蛙についての記事です。
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本能寺の変の理由には諸説ありますが、その中の怨恨説についてまとめたものです。
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