『常山紀談』によると織田信長は松永久秀(まつなが ひさひで)のことを、「この老人は、天下に名を轟かす三つの悪事を犯した」と紹介をしたという逸話が残っています。
この悪行は「松永久秀の三悪」とも云われていますが、悪行が多いとされる久秀は、斎藤道三や宇喜多直家と並んで戦国時代の悪者として語られることがあります。
骨の髄まで悪人!?といわれる久秀、一体どのような悪行を行い悪者の代名詞のように語られることになったのでしょうか。
松永久秀の三悪①「主家乗っ取り」
松永 久秀が始めに仕えたのは、三好元長の嫡男・三好長慶(みよし ながよし)という畿内・阿波国の戦国大名です。
三好氏は信濃源氏(しなのげんじ)の流れを汲む名門で、主君・細川家を追い出し、足利幕府の実権を握っていました。
下剋上により幕府の実力者になった三好家を松永久秀が乗っ取たとする説が、久秀の三悪の一つと云われています。
これは、三好一族が何故か立て続けに亡くなったことと、久秀が関係しているのではないか?という憶測からきていますが、実際はどうか見てみます。
《元長の四男・十河 一存》
当時の三好家の当主・三好長慶には、父・三好元長の四男で、自身の弟の十河 一存(そごう かずまさ /かずなが)がいました。
しかし永禄4年(1561年)、享年30歳という若さで急に亡くなります。
病が原因だと云われていますが、当時から久秀による暗殺説が囁かれていたそうです。
十河 一存と久秀は仲が悪く、一存が亡くなった時に久秀が近くにいたことから疑われたようです。
また、亡くなった時のことを、次のように伝えている記録もあるそうです。
一存は、病の湯治の為に、久秀と有馬温泉に来ていました。
秀久は、有馬権現は葦毛(あしげ)馬が好きでないからと、一存に自身の葦毛馬に乗馬しないよう諭したそうですが、一存は久秀が嫌いなので、無視したところ落馬し亡くなったと云われています。
もし、この記録が本当であれば…事故ということになりますね。
ただ、この話は矛盾点もあり、信憑性に疑問が持たれています。
一存が亡くなった本当の理由は、定かではありませんが、少なくても当時の人で久秀の仕業かと疑っていた人もいるようです。
また、仮に一存を滅ぼしたのが久秀だとしても、当主・三好長慶は存命ですし「主家乗っ取り」の悪行とはなりません。
しかし、この後も秀久の主君・三好長慶の周りで不幸が続き、久秀が三好家を治める一人にまで登りつめます。
《元長の次男・三好実休》
次は三好元長の次男で、三好長慶の弟・三好実休(みよし じっきゅう)の話です。
三好実休は、別名で三好義賢( みよし よしかた)とも呼ばれています。
先ほど述べた落馬説のある十河が亡くなった翌年の永禄5年(1562年)に、実休も亡くなります。
享年36か37歳という若さでしたが、戦によって亡くなったそうです。
久秀の仕業との説はありませんが、三好家の不幸は続きます。
《長慶の嫡男・三好 義興》
三好長慶の嫡男・三好義興(みよし よしおき)が、早世した話です。
父に劣らず智勇に優れていたと評判の義興ですが、永禄6年(1563年)6月に病に倒れます。
名医と名高い曲直瀬道三(まなせ どうさん)などが介抱したそうですが、具合が良くなることはなく、8月に享年22歳の若さで亡くなりました。
これで三好家一族は三年連続で誰かが亡くなっています。
嫡男・ 義興の件は、「主家乗っ取り」を目論む久秀に、毒を盛られたとする悪行説があるそうです。
また、義興が久秀の奸悪に気が付いた為、亡き者にされたとも云われています。
しかし、信憑性に疑問のある書物が久秀犯人説の出典元であって、信憑性の高い史料には一切そのような記載はないそうです。
《元長の三男・安宅冬康》
元長の三男で、三好長慶の弟に安宅冬康(あたぎ ふゆやす)という三好政権を支えた人物がいます。
先に述べたように三好家では、一存、実休、義興が相次いで亡くなっています。
多くの一族が亡くなり、生き残った三好一族として長慶を補佐したそうです。
しかし、永禄7年(1564年)5月、長慶の居城・飯盛山城にて自害させられます。
冬康は、人格者であったそうですが、何故このようなことになったのか、複数の説があります。
『言継卿記』という当時の公家が書いた日記には、冬康に逆心があったと記されているそうです。
また、当時の三好家中の実力者は長慶以外では冬康だけだったので、三好家乗っ取りを企む者が、冬康を滅ぼしたとする説もあります。
冬康を落とし入れる為に、事実を曲げて、長慶に言いつけたそうです。
言いつけたのは松永久秀であるとする説もありますが、定かではありません。
しかし、後に冬康に逆心がなかったことを知り、長慶はとても後悔したそうです。
そのこともあり、うつ病になったとも、うつ病など病気が原因で正しい判断ができず、自害を命じてしまったとも云われています。
《元長の嫡男で当主・三好長慶》
そして、ついに三好長慶も亡くなります。
三好長慶は立て続けに一族を亡くし、特に嫡男・義興が亡くなったことがこたえたようで、心身共に患っていたそうです。
また、一説によると自害に追い込んだ冬康の件は、松永久秀の仕業だと知った後悔し、更に具合が悪くなったそうです。
永禄7年(1564年)7月、享年43歳で息子達の後を追うように病で亡くなったそうです。
長慶が亡くなる前から、三好家の施策は長慶から久秀を通じて行われるようになっていたため、主君の亡き後は自然と久秀の勢力が台頭することになります。
三好家当主の後を継いだ三好義継はまだ若く、一族の重臣だった三好三人衆と共に久秀が事実上、三好家を治めることになりました。
約三年の間で三好家の人が五人も若くして亡くなり、このことが三好政権を崩壊へ導くことになります。
その上、松永久秀が異例の出世をしたことから久秀の悪行だと云われることがあります。
久秀にとってあまりにも出来過ぎた出来事が、主君に取り入って出世を重ね、徐々に実権を握った久秀の悪行として語られたようですが、どうやら乗っ取りの話は、創作のか可能性が高いようです。
松永久秀の三悪②「足川将軍襲撃!?」
後に対立することになる久秀と三好三人衆(三好家の重臣)ですが、この当時は共通の敵がいたため表面上は強力し合っていたと云います。
その敵とは、室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝です。
当時の足川将軍家は、落ちぶれてはいましたが、形式的な権威は保っていたため、その権威を利用しようとする勢力の庇護を受けていました。
義輝は足利将軍家の現状を憂い、実権の復活を目指し大名間の争いを調停したり、懐柔策として自信の名の偏諱を大名らに与えています。
例えば、伊達政宗の父・伊達輝宗、毛利家当主の嫡男・毛利輝元、上杉輝虎(後の上杉謙信)の「輝」は足利義輝が与えた字だとされています。
このように権力復興を目指す足利義輝は、将軍を操り人形として考えていた三好三人衆や久秀にとっては、邪魔な存在だったのではないかとも云われています。
そこで、義輝の代わりに従兄弟の足利義栄(よしひで)を将軍に据えようと考えたそうです。
そして、永禄8年(1565年)義輝の居館・二条御所を約1万の軍勢の軍勢で襲撃し、義輝は奮戦虚しく滅ぼされてしまいます。
将軍が簡単に滅ぼされてしまったこの事件は、永禄の変(えいろくのへん)といい、足川将軍家の権威を失墜させる出来事でもありました。
この将軍を滅ぼしたことが、松永久秀の三悪の二つ目だとされています。
永禄の変は久秀が主導したかのように語られる出来事ですが…、久秀は少なくても直接は関与していないそうです。
久秀は本当は反対していたとも、黙認したとも云われていますが定かではありません。
永禄の変の主導者は、三好家の当主・三好義継(みよし よしつぐ)、三好家の屋台骨である三好三人衆、秀久の嫡男・松永久通(ひさみち)だと伝わります。
松永久秀の三悪③「東大寺大仏殿を焼き払う!?」
その後、三好三人衆は、三好家で力をつけてきた久秀を警戒するようになり、久秀を排除しようとします。
主君・三好義継や三好家重臣を味方につけ、三好三人衆が担いだ14代将軍・足利義栄に久秀の討伐令を出させます。
三好家中で孤立した久秀は、数ヶ月間行方をくらましました。
しかし、永禄10年(1567年)、主君・三好義継が三好三人衆と仲間割れし、久秀を頼って出奔してきます。
主君・三好義継を陣営に加えた久秀は、三好三人衆らに反転攻撃を仕掛けることになります。
そして戦の舞台となったのは、なんと東大寺大仏殿、歴史的遺産・大仏殿に立てこもる三好三人衆に対して、久秀は奇襲をしかけ久秀側が勝利したそうです。
三好三人衆は、仏教徒である久秀は東大寺大仏殿では戦できないだろうと考えていたとも云われていますが、久秀は三好三人衆側の兵と共に東大寺大仏殿を焼き払ったと云われています。
この東大寺大仏殿を焼き払うという行為は、当時の人に「極悪人」という強烈なインパクトを与えたとされ、松永久秀の三悪の三つ目と云われています。
創作の世界でも秀久が躊躇なく焼き払う様子が描写されることがありますが…、久秀が故意に焼却させたかは不明とのことです。
東大寺は久秀が治めた大和にありましたが、強大な宗教勢力を誇り、久秀と良好な関係ではありませんでした。
東大寺は三好三人衆に味方し、境内に匿っています。
そうなると、久秀としては仕方なく東大寺で戦をしたのかもしれません。
やむ得ず失火してしまったとも、三好三人衆側の信仰心の強いキリスト教徒が放火したとも云われています。
こう見てみると、久秀は東大寺大仏殿の焼失に関与はしていますが、「悪行」とは言えなそうに思います。
松永久秀の三悪について
当時の状況を見てみると、三つ共久秀の悪行とは言い難いことが分かります。
むしろ主君・三好長慶、跡を継いだ三好義継に忠実であったとも云われており、少なくても一次史料から謀反を起こした記録は確認できないそうです。
上の写真は明治時代に描かれた久秀の肖像画です。
なんだか、とても悪そうな人に描かれているように見えます。
長慶亡き後、三好家の中核を担った実休の家系と不仲であったことが、悪行のイメージを与えたのではないかとも云われています。
その後の久秀は、織田信長を裏切るという史実もありますので、そこから悪人というイメージになったのかもしれません。
久秀の悪行のイメージは、『常山紀談』という江戸時代につくられた書物の影響があるようですが、『常山紀談』は戦国武将の創作なども載っている書物です。
本当の久秀像は、凄く良い人だったりするかもしれませんね。
近年、松永久秀は忠義の将、知将ではないかとする説が出てきました。
新たな解釈を踏まえ、松永久秀の生涯について書きました。
織田信長を裏切る話、最期は茶器と共に爆死した説は本当かなども書いています。
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