本能寺の変で織田信長を襲撃して自害に追い込んだ明智光秀、光秀の胴体が埋葬されているとされている「明智光秀の胴塚」は、京都市山科区(やましなく)にあります。
光秀が命を落としたとされる明智藪から、光秀の居城である坂本城の方向に2kmほど向かったところに光秀の胴塚があります。
この記事では、光秀の胴塚に行った感想や、光秀の胴塚についての考察を記しています。
光秀の終焉の地は胴塚近く
まず光秀の最期について記載します。
光秀は信長を自害に追い込んだ後、山崎にて豊臣秀吉と対決し大敗します。
大敗してから亡くなるまでの光秀の足取りは定かではありません。
現在の通説では、敗北後に勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)(京都市長岡京市)に帰城するものの、秀吉軍に追撃されたため、坂本城に向かおうとしたそうです。
坂本城に落ち延びる最中に、胴塚から2kmほどの距離にある小栗栖(おぐりす/おぐるす)にて、土民の落ち武者狩りに遭い負傷したとされています。
負傷しながらも進み続ける光秀ですが、移動を続ける途中で、思ったより重症であったため、坂本城への帰還を諦めて溝尾茂朝(みぞお しげとも)の介錯により、自害したとされています。
明智光秀の胴塚に行った感想など
私は明智光秀が亡くなったとされる明智藪に行った後に、光秀の胴塚へ行ってきました。
車でしたので明智藪から直ぐでしたが、胴塚は分かりにくいですね…。
胴塚の外観は下の写真です。
「TOTO」の看板と自動販売機のある右隣のブロック塀に囲まれたところにありました。
民家だと思うのですが、民家に史跡があって驚きました。
ここは、殆どの方は気が付かず通り過ぎてしまうのではないか、と思う位分かりにくいですね。
私もこの胴塚を目掛けてきたのに、通りすぎてしまいました…。
ですが、もう一度引き返して発見しました。
胴塚の石碑には「明智光秀之塚」と彫られていてますね。
裏には昭和45(1970)年に建てられたと記されているそうで、地元・山科の住民が建立したそうです。
ここに本当に光秀の胴体が埋葬されているのかはわかっていません。
昭和45年に建立されたものならば、埋葬されていないのではないかと思ってしまいますが、小栗栖では以前「御塚」と称された光秀の胴塚があったそうです。
月日の流れで消失してしまい、光秀が善政を敷いたことで現代も光秀を慕う京都府亀岡市の人によって再建された後に、現在の土地に移されたそうです。
ただ、この説には裏付けはなく…伝承の域をでないと思われます。
明智光秀の胴塚についての考察
歴史は勝者がつくると云われるように、敗者側の光秀の史実は謎だらけになります。
そのような中でも、光秀と同時代に生きた方などが記した史料は信憑性が高いものとして重宝されています。
当時を生きた人たちが光秀が命を落とした地について何て書いてあるかを見てみます。
戦国から江戸時代初期の公卿・吉田 兼見(よしだ かねみ)の日記である『兼見卿記』(かねみきょうき)によると、光秀落命の地は「醍醐辺」、
戦国時代の公家・山科言経の日記である『言経卿記』(ときつねきょうき)には「山科」、
信長の近習で、信長の一次史料である『信長公記』(しんちょうこうき)の著者として知られる太田 牛一(おおた ぎゅういち )は、「だいご、山しなへん」と記しているそうです。
三者が記した地はいずれも、現在の京都市伏見区と山科区の境目辺りであり、一般に光秀が亡くなったとされる明智藪は、京都市伏見区小栗栖であるため少しズレているようです。
また、現在の「落ち武者狩りにより負傷した後、少し進んで自害した」とする説は、『明智軍記』という創作が多く史料価値が低い史料が元となっているそうで、そもそも光秀終焉の地が明智藪であるとする説は間違えの可能性もあります。
また、光秀の首は信長の元へ届けられ、粟田口(あわたぐち)で磔(はりつけ)にして晒(さら)されたと云われており、首と胴体がつなぎ合わされたと考えられるようです。
そうであれば、ますます胴塚に光秀の胴体があるとは考えにくいですね。
粟田口にあった胴体を、わざわざ胴塚まで運んだことになりますし。
磔にする際の胴体は似ていれば、別人であってもわからなそうですので、別人のものである可能性もあると思います。
ですが、この光秀の胴塚は、『明智軍記』の説に基づき明智藪から坂本城に向かう際の道中に地につくられた、光秀の供養塔のようなものと考えます。
明智光秀の胴塚へのアクセス
住所:〒607-8218 京都府京都市山科区勧修寺御所内町36
東西線「小野」下車徒歩約10分
山崎の戦い後、光秀は亡くならずに生きていたとする説についての記事です。
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光秀の終焉の地の可能性が高いとされている明智藪に行った記事です。
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