明智光秀が誕生したとの説がある岐阜県可児市にある明智城 、現在は廃城となり明智城跡になっています。
可児市にあった明智城とはどのようなお城だったのでしょうか。
まず明智城とはどんなお城かを書かせていただき、その後で明智城跡に行った時のことを記載します。
明智光秀と明智城
明智城とはどんなお城か、明智光秀とどのような関係があるのかを記します。
明智城は、康永元年(1342年)に光秀の同族である土岐(とき)氏によって築城され、その後約200年もの間、明智氏の居城になっていたそうです。
明智城が廃城となったのは、弘治2年(1556年)に齋藤義龍(さいとう よしたつ)の攻撃によって落城した時と伝わります。
齋藤義龍は、当時の光秀の主君である斎藤道三(さいとう どうさん)の嫡男です。
斎藤道三と齋藤義龍は、親子でありながら対立し、道三は敗れてしまいます。
そして、道三に見方した明智一族は、義龍に攻められ明智城に籠って戦いますが、奮戦むなしく落城します。
多くの明智一族が亡くなりましたが、明智本家の幼い当主であった光秀は、お家再興を託され落ち延びることになりました。
その後も明智城は再建されるっことなく廃城となったようです。
現在は可児市指定史跡として、本丸跡、曲輪、土塁などの遺構を見ることができます。
また、岐阜県には二つの明智城がありますが、可児市にある明智城は、別名で長山城、明智長山城とも呼ばれています。
明智城跡
それでは、明智城跡(明智城址)に行ってきましたので紹介させていただきます。
上の写真は明智城跡の大手門側にある駐車場の写真です。
私は車で行きましたが明智城跡には、10台くらいとめられそうな駐車場がありました。
すれ違うのが大変な位、幅の狭い道を通ってこないといけませんが、明智城跡は最寄り駅から離れているそうなので、電車より車のほうがアクセスしやすそうです。
そして下の写真は、駐車場の脇にある「明智城址公園散策マップ」です。
散策マップを見てみると、明智一族のお墓が載っていますが、山の麓にる天龍寺というお寺です。
天龍寺については別で記事にしていて、記事下からご覧いただけます。
それ以外は、明智城跡の主な見どころが掲載されていますね。
予想より広いなと思いましたが、散策マップに沿って、明智城跡の大手門(大手口跡)、二ノ丸曲輪跡(二ノ丸跡)、七ツ塚、馬防柵、本丸曲輪(本丸跡)、六親眷属幽魂塔などを紹介させていただきます。
それでは、駐車場の真横の入り口を入り進むと入り口である大手門が見えます。
明智城跡の大手門(大手口跡)
復元された大手門と大手口跡の石碑があります。
緩やかな登りが続きますが、一ノ曲輪と二ノ曲輪のあった場所を抜けると、二ノ丸曲輪跡(二ノ丸跡)へ着きます。
明智城跡の二ノ丸曲輪跡(二ノ丸跡)
跡地といってもこのような碑石が建つだけです。
そして、明智光秀の旗が付いています。
光秀の使用した家紋と伝わる桔梗紋の入った鎧を身に付けています。
茶髪でロン毛という…現代風光秀になっていますね。
旗には「明智光秀生誕の地」と書かれています。
明智光秀が生まれた場所は定かではありませんが、数か所の候補地があります。
色々と見てまわりましたが、至るところで「明智光秀生誕の地」という旗が付いていました…。
その中でも、ここ明智城のある可児市が最有力候補になっています。
また、二ノ丸曲輪跡にはベンチがあって休憩できるようになっていますし、パンフレットもありました。
パンフレットは三種類あって明智城と周辺の地図や説明が二種類と「可児市山城攻略図」という城跡の案内が一種類でした。
明智城跡の七ツ塚
二ノ丸跡のすぐ近くに七ツ塚があります。
弘治2(1556)年に斎藤義龍に攻められ、明智城は落城しますが、その時に亡くなった明智方の七将を葬った塚とされています。
その七将が誰なのかは、調べてもわかりませんでした。
また、この時に離縁されていた織田信長の正室である帰蝶(きちょう)(濃姫のこと)も居て、明智城で亡くなったとする説もありますが、こちらも定かではありません。
敵将である斎藤義龍は帰蝶の兄ですが、父である斎藤道三を攻め滅ぼした兄を嫌い、母方の叔父である明智光安(みつやす)の元に身を寄せていたとする説です。
明智光安は光秀の叔父であると云われており、当時幼少の光秀の後見を務めた人物でもあります。
この明智光安は、この戦いで亡くなりましたので、七将の内の一人かと思いますが、明智一族なので、葬られたのは別の場所ではないかとも思います。
齋藤道三と義龍は親子でありながら戦をしたという、戦国時代とはいえ悲しい出来事が起きていました。
明智城跡の馬防柵
七ツ塚の近くにの馬場という所に馬防柵があります。
明智城があった当時から、馬防柵があったのかは不明です。
というのは、馬防柵は明智城落城後のずっと後に起きる長篠の戦い(ながしののたたかい)で、織田信長が武田家の騎馬隊に対抗するために考えた作戦とされているためです。
明智城跡の馬防柵は、2009年に築かれたそうです。
明智城跡の本丸曲輪(本丸跡)
二の丸跡、馬防柵の近くに本丸跡もあります。
広さはそこそこありますが、今は碑石や碑柱が建っているだけです。
下の碑石は明智城は、康永元年(1342年)に土岐明智二郎下野守頼兼により築城され、弘治2年(1556年)に斎藤義龍の攻撃により落城したこと、明智光秀は11代目だったということが記されています。
下の写真が有名ではないかと思いますが、本丸跡にある明智城址という石碑です。
また「明智城址記」という看板もありました。
「明智城址記」には本能寺の変のことが書かれています。
説明によると「直情径行武断一辺倒」の信長と光秀は合わず、光秀は逆族の汚名を着て「非業の最後」を遂げたことは「痛恨の極み」だそうです。
「明智城址保存会 可児市観光協会」というところが、昭和59年に建てた看板のようです。
観光協会の言葉とは思えない偏った見方ですね…。
それだけ、慕われているのだと思いますが。
可児市以外でも、光秀はゆかりのあった地で慕われていますし、本能寺の変のイメージとは違う面があるのではないかと思います。
光秀の居城があった坂本の地を訪れた時は、碑石の下の方に小さく「悪魔を退治した光秀公」と書いてあるのを見て驚きました。
流石に自治体が造った碑石でしたので、誰かのいたずらだと思うのですが…。
本丸跡の奥には、展望台があります。
展望台は平成21年に整備されたそうですが、本丸の標高175mからの眺めです。
光秀もこの辺りから城下町を眺めたのかもしれませんね。
六親眷属幽魂塔
六親眷属幽魂塔は、本丸跡から少し離れた場所にあります。
本丸跡から、わずかに踏み馴らされた散策道を道なりに進むと、途中で道が分かれますので右に行くと「六親眷属幽魂塔」が見えます。
近くにある説明板によると、昭和48年に発見されたそうで、明智一族の慰霊のために建立されたものと推察されているそうです。
「六親眷属幽魂塔」は見えないように「埋没」されていたそうです。
謀反人である光秀の慰霊の塔を建てたとなれば、処罰を受ける可能性もあったため、隠すように建てたのではないかという主旨のことが書かれています。
それほどまでに、光秀が善政を敷き、慕われていたのだろうとも書かれています。
明智城跡はいかがでしたでしょうか。
明智一族に興味ある方、史跡好きの方におススメですね。
通常の観光で行くには、建物もないですし少し地味な場所かなと思います。
所要時間は、1時間あれば見終わるのではないかと思います。
明智城跡の住所・アクセス
〒509-0213 岐阜県可児市瀬田5丁目1238-3
東海環状道「可児御嵩IC」から車で5~10分
名鉄広見線「明智駅」から徒歩で15~25分(1km)
「明智城址公園散策マップ」に載っていた明智一族のお墓がある天龍寺の記事はこちらです。
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明智光秀生誕の地、3つの候補地についてはこちらの記事です。
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